新名規明氏稿「大田南畝の長崎(四)」による記録はどんなものか

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新名規明氏稿「大田南畝の長崎(四)」による記録はどんなものか

長崎史談会「長崎談叢 第九十輯」平成14年5月発行57〜79頁所収の新名規明氏稿「大田南畝の長崎(四)」は、次のとおり。

玉林晴朗著『蜀山人の研究』
…玉林著の長崎関係の叙述は「第十四章 長崎出張と海外知識」で述べられている。そこの第五節「中村李囿と烽火山の詩」に注目してみよう。
中村李囿とは何者か。玉林の叙述によると、以下の通りである。
「長崎の人々の内で最も親しかったのは、中村作五郎であらう。この人は茂中屋と称し、長崎に於ける豪商の一人であり、朝夕岩原官舎の所用を承る者であった。李囿と号し風雅な人でもあり、特に南畝の事は何くれとなく世話をした。長崎から江戸へ帰って来て後も、屡々手紙を往復して居り、其の南畝が中村李囿へ宛た書簡は、今も長崎の同家に二十数通現存している。」
李囿中村作五郎は南畝在任当時、岩原目付屋敷御用達であった。それ故、南畝とは親しい関係にあった。何より貴重なことは、南畝帰府後の文化二年から文政元年までの十三年間に亙る南畝の李囿宛書簡が計二十六通保存されていることである。…
中村李囿宛書簡・文化八年閏二月十三日付と文化九年三月中旬頃の中では七高山詩碑のことが出ている。烽火山、七面山、金毘羅山、彦山、愛宕山などに、大田南畝の詩碑を中村李囿が建てるというのである。このうち、実現されたのは、烽火山と七面山のものであろうと推測される。そしてそれらは、今も現存している。…

大田南畝関係の石碑など
1、烽火山山頂付近の石碑
滄海春雲捲簾瀾  崎陽囂市一彈丸  西連五島東天草  烽火山頭極目看
文化二丑年  杏花園  中村李囿命工鐫焉
2、七面山への入口の石碑
披楱踰嶺踏烟雲  七面山高海色分  一自征韓傳奏捷  至今猶奉鬼将軍  大田覃
3、時津のさば腐れ石
4、蜀山人之碑
天門山斷海門開  岸上人烟擁鎮台  處々白雲飛不止  秋風一片布帆來  南畝大田覃
あらそはぬ風の柳の糸にこそ  堪忍袋ぬふべかりけれ  四方歌垣
5、蜀山人歌碑、
彦山の上から出る月はよか  こげん月はえっとなかばい  蜀山
6、南京坊の墓碑

1の石碑は『長崎市史・名勝旧跡部』五四四頁に「南畝石」として紹介されている。これが中村李囿宛書簡に記されている詩碑であろう。2はこれも李囿宛の書簡に記された詩碑のひとつであろう。現在鳴滝二丁目十四番地の川沿いの所に立っているが、以前は旧制長崎中学の上のグランドの所に立っていたそうである。石の裏面には、「石工喜助」の文字の他、二行ほどの文字の列と「文久二戌 季春」の年月が彫られているが、これは後の時代になって刻まれたものであろう。1と2はいずれも自然石に彫られたものであり、七言絶句の漢詩の文字は南畝の筆跡と推測される。
文化八年閏二月十三日付中村李囿宛書簡には次のように記されている。「七高山へ詩を御ほらせ可被下よし、何より之事と追々認メ上ゲ可申候。先出来合候烽火山、七面山上申候。…」 この時の詩碑が今に残されているわけである。
平成十四年一月十二日、私は鳴滝川沿いに七面山への道を行き、まず、2の「七面山詩碑」の前を通る。何度も来て写真に収めている石碑である。当初はまだ上の位置にあったのであろう。七面山妙光寺の境内に至る。ここから烽火山頂上へ登ろうというのである。以前、七高山巡りで、仏舎利塔の所から登ったことはあるが、七面山の方からは初めてである。道らしき道もない所を登る。所々木々に道しるべを巻き付けてくれてある。それを頼りに、広い道らしきところに来た。七高山巡りのコースである。烽火山頂上に達して、かま跡の所を見る。午後二時頃であった。その周囲に日差しが降り注いでいる。南畝が登った時代は、見晴らしがよかったのだろうが、今は木々が遮って、眺望はきかない。かま跡の所だけが広場になっているのである。頂上の外れの木々が生い茂った所に自然石が数個散らばっている。その中の大きな一つには、お神酒などが供えられている。それが南畝石であった。かま跡の日差しの所から見ると裏側に文字が彫られている。暗くてはっきり見えない。以前、竹内光美氏に連れられて、墓碑や石碑の調査をしていた時のことを思い出した。竹内氏は手鏡の反射を利用して文字を判読されていた。私は手鏡を携行していた。手鏡を取り出して、木漏れ日を利用する。ありがたいことに、反射光は碑面の文字を浮かび上がらせてくれた。「文化二丑年   杏花園 / 中村李囿命工鐫焉 」と読み取れる。『長崎市史』には記されていない文字である。しかし、肝心の七言絶句の漢詩の部分が薄れて読みづらくなっている。竹内光美氏は他の光の影響を受けない真夜中に、懐中電灯で碑面を照らすのが一番よいと言われていた。また、宮田安氏や竹内氏に碑面の写真撮影で協力されていた城田征義氏は、日時や天候によって文字が見えなくなったりすることを語られていた。金石文の採取にはひとかたならぬ苦労があるわけである。…