長崎の風景・史跡 (市北西)」カテゴリーアーカイブ

伊能忠敬顕彰碑建立記念足跡探訪ウォーキング  第2回(2) ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

伊能忠敬顕彰碑建立記念足跡探訪ウォーキング  第2回(2)

2016年10月8日(土)曇り一時雨。伊能忠敬測量日記に基づき、第2回は主に市対岸部の長崎測量足跡探訪ウォーキングを行なった。午前9時に飽の浦公園(荒木宗太郎宅跡)に集合。恵美須神社、水の浦公園、大鳥崎、稲佐崎、坊ケ崎(鵬ケ崎)、淵神社を歩き、梁川橋を渡って正午過ぎ、茂里町長崎新聞社前で解散した。

講師は、長崎街道ネットワークの会会長・顕彰碑をつくる会の江越弘人先生。参加者24人。伊能忠敬測量隊は、海岸線を測量しているが、幕末以降は埋め立てが進み、三菱造船所や三菱電機の工場などが建ち、当時の海岸線はたどれないので、なるべく近くの公道を歩いた。明治34年国土地理院旧版地図も参照。

伊能忠敬顕彰碑建立記念足跡探訪ウォーキング  第2回(1) ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

伊能忠敬顕彰碑建立記念足跡探訪ウォーキング  第2回(1)

2016年10月8日(土)曇り一時雨。伊能忠敬測量日記に基づき、第2回は主に市対岸部の長崎測量足跡探訪ウォーキングを行なった。午前9時に飽の浦公園(荒木宗太郎宅跡)に集合。恵美須神社、水の浦公園、大鳥崎、稲佐崎、坊ケ崎(鵬ケ崎)、淵神社を歩き、梁川橋を渡って正午過ぎ、茂里町長崎新聞社前で解散した。

講師は、長崎街道ネットワークの会会長・顕彰碑をつくる会の江越弘人先生。参加者24人。伊能忠敬測量隊は、海岸線を測量しているが、幕末以降は埋め立てが進み、三菱造船所や三菱電機の工場などが建ち、当時の海岸線はたどれないので、なるべく近くの公道を歩いた。明治34年国土地理院旧版地図も参照。

津波よけの石垣  長崎市福田本町 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

津波よけの石垣  長崎市福田本町

岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊44〜47頁による説明は次のとおり。
本ブログ次を参照。 福田の散策(3) 福田本町の史跡 長崎市福田本町
https://misakimichi.com/archives/1671

(3) 事代主神社祠と宮林
此れから海浜防波堤に沿いながら千本松原の方へ歩くと、道中、事代主神社祠があります。そして米田歯科研究所手前辺りに、頃は寛永12年(1635)、中野平五左衛門が天満宮を再興しました。しかし当時、福田地方は津波が度々あり、後難を恐れて天和元年(1681)徳川五代将軍綱吉の時代に現在の高台に移しました。跡地は今日、住宅が立ち並び僅かな樫、椿の巨木が当時の区域として残るのみです。

(4) 津波よけの石垣
自然石を1〜2m積み上げた石垣が所々残っています。これは天和元年(1681)以前に津波があり、度重なる津波に後難を恐れた住民が、宮林より海岸沿いに長々と石垣を築いたものです。

さて、この歴史散歩「(4)津波よけの石垣」である。福田バス停近くに「福田史蹟案内図」があり、(4)の場所を訪ねた。「津波除けの石垣」というのは、全国でも和歌山県に3ケ所、大分県に1ケ所以外、今のところ把握されていないくらい貴重な遺構となるらしい。
事代主神社祠後ろの宮林跡近くで、私が見た石垣の現況は、写真のとおり。この辺りは住宅地となり、石垣はだいぶん壊されているが、ここの畑地に幅2m、L字に曲がって長さ50mくらい、高さ1〜2mほどの古い石垣が残っていた。多分この石垣のことではないだろうか。
遺産サイトへ画像で報告したところ、次のような返答があった。

長崎歴史文化博物館から回答がありましたが、福田地区に関しては資料を所蔵していないとのことで、期待した情報はありませんでした。
『日本被害地震総覧』より、長崎周辺で、下記の地震があったことが分かりました。
・1657年1月3日(明暦2年11月19日) 夜 長崎
家の接目が口を開き、柱および壁が倒れたという。
・1725年11月8〜9日(享保10年10月4〜5日) 肥前・長崎 M6
9月26日に80回余の地震を感じた。
大分有感。この両日は地震を強く諸所破損多し。
平戸でも破損多し。天草・大分有感。
『出島日記』よるとこの地震は継続的に翌年の8月30日までつづく。
この年11月25日06時ころ強震、出島の建物はすべて小損。大村では感じなかった。
翌年1月13日5時ころの地震で被害かなり。
テントに暮らす。中国人居留地破壊、また長崎市中にも被害。
『出島日記』により、被害が少し分かるようになった。
津波除けは、24年も前なので、関係があるとはちょっと言い難いかもしれませんね。
津波除けが90度に曲がっていると、そこに波が集中して危険です。津波除けの堤防は直線状に造られるはずです。

岩永氏が参考資料としたのは「福田の旧跡(福田公民館)」。「福田村郷土史」は宮本瑞穂氏や林純夫氏著のがあるが、林氏のでは記述を見出せない。正確な文献や現地調査は、地元にお願いしたい。
福田は外洋に面し、地形的な高波、冬場の荒波や台風期には上陸地点となることがある。今行ってもこの付近だけ防波堤がさらに嵩上げされていた。

平成21年4月学さるく「神の島から福田まで」講師江越弘人氏の作成資料は、次のように記している。
15 津波よけの石垣
福田は、しばしば津波(恐らく高波であろう)に襲われ、福田本町の辺りは水に浸かった。そのために津波よけの石垣を築いていたが、今でもその跡が所々に残っている。
長崎文献社平成10年刊「長崎町人誌 第六巻」中の”新編 長崎名勝シリーズ”福田地区の天満神社の項
257〜258頁に次の記述があった。わざわざ「海嘯(*高波)」と注釈がある。これが正しいのだろう。
L字状に築かれたのは、当時の集落の端がこの辺りまでだったためと思われる。

天満神社  旧福田村の鎮守で、福田本町字宮の脇に鎮座する。創立は詳らかではないが、大村純忠時代のキリスト教徒による寺社破却以前から祭られていた。寛永12年(1635)8月中野平五左衛門茂明が再興。そのころ田子島にあったが、天和元年(1681)夢の神託を蒙り、現在地に勧請。…
夢の神託のこと  ある夜海嘯(*高波)あり、当地佐々木某神託を蒙る。即ち「海嘯あり自分は今流失の危険にさらさる海水すでに胸に達す」と、佐々木某奇異の思ひをなせしがまさかとの疑念を抱きて寝に就く再度神託ありしも意に留めず三度神託を蒙りただ事ならずと思い衣を改めて出ずれば夢の如し、直ちに海水に浸して社殿に至れば神体正に流失の危機にあり直に神体を奉持し自宅に安置せり、海嘯悉く引きて後再度社殿に奉遷せんと考えたるも 後難を患へ現社地内に勧請せりといふ 旧社地を天満宮元屋敷と称し附近の林を「宮林」と称せり。(『福田村郷土史』より)

「かいしょう 海嘯」 (広辞苑第2版から)
(津波に当てるのは誤)満潮の際に遠浅の海岸、特に三角形状の開いた河口部に起る高い波。中国の銭塘江、南米のアマゾンなどに顕著。
「かいしょう 海嘯」 (旺文社国語辞典から)
(「嘯」は、うなる意)遠浅の海岸や三角形状の河口などで、満潮時に逆流する海水が、狭い河口の抵抗によって壁状の高い波となる現象。また、その高波。

なお、サイト「近世以前の土木・産業遺産」リストへの登載は、次の見解があり保留となった。

「海嘯」という用語は、江戸時代には、各種の要因により海水が高く押し寄せる現象すべてを指していましたから、現代の用語の海嘯とは違います。しかし、各種の要因の中には、地震による津波だけでなく、高潮も、台風による高波も含まれます。
問題は、ここからです。天和元(1681)年に夢を見て、現在地に勧進とあります。ということは、勧進はそれ以後となります。これを信じれば、津波の場合、宝永地震(1707)によるものとなります。もちろん、高潮、高波については年代は特定できません。
一方、福田天満神社の「棟札には寛永年間(一六二四〜一六四四年)の再興とある」との記述も見つけました。棟札は建物に付属するものですから、もし、「現在地に勧進」されたとするのが正しいのであれば、棟札は18世紀の年代が書いてあるはずです。

棟札が、「寛永12年(1635)8月中野平五左衛門茂明が再興」の数値と同じと言うことは、移転はなく、現在の位置に最初から建てられていたことを意味します。そのくらい、棟札の持つ意味は重いのです。もちろん、この棟札の情報そのものが間違っている可能性もあります。
しかし、もし正しいとすれば、「夢の神託」そのものが作り話ということになり、波除石垣も雲散霧消してしまいます。形態が、前に申し上げたように、波除としてはあり得ないことも、それを裏付けているように思います。
一方、松林の方は、宝永地震(1707)を受けて造られたと考えれば、元文元(1736)の築造も合理性があります。

田子島台場跡  長崎市福田本町 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

田子島台場跡  長崎市福田本町

平成21年4月学さるく「神の島から福田まで」講師江越弘人氏の作成資料による説明は、次のとおり。
福田バス停から福田中学校へ向かう。グランド側の市道沿いに史跡説明板が千本松原とともにある。
本ブログ次も参照。  福田の散策(4) 福田本町の史跡 長崎市福田本町
https://misakimichi.com/archives/1671

田子島台場跡
嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航した一月後の7月に、ロシアのプチャーチンが軍艦4隻で長崎に来航し、通商を求めた。大村藩では翌年安政2年(1854)に長崎出入の枢要の地点である千本松原の田子島に4つの台場を築いた。また、3年後には改築して台場を増強したが、その概要は次のとおりであった(大村郷村記)。
一の台場  18ポンド砲1門、12ポンド砲1門、1貫目砲1挺  計3門
二の台場  12ポンド砲2門、1貫目砲1挺  計3門
三の台場  12ポンド砲1門、1貫目砲1挺、5百目砲1挺  計3門
四の台場  12ポンド砲1門、1貫目砲1挺、7百目砲1挺  計3門
硝煙蔵1棟、武具蔵2棟、番手小屋1棟、硝煙小出蔵4ヶ所

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータに、次のとおり登載された。

田子島台場・跡 たごしま
長崎市 台場(大村台場) (一)18ポンド砲1,12ポンド砲1(二)12ポンド砲2(三)12ポンド砲1(四)12ポンド砲1 安政2(1855) WEB(みさき道人) 石塁が残る(総延長約400m) 大村藩が長崎出入の枢要の地点である千本松原の田子島に築いた4つの台場の総称(一の台場〜四の台場) 3 B

福田の千本松原  長崎市福田本町 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

福田の千本松原  長崎市福田本町

林 純夫著「福田村郷土史」平成12年発行の629〜630頁による説明は、次のとおり。福田バス停から福田中学校へ向かう。グランド側の市道沿いに史跡説明板が田子島台場跡とともにある。本ブログ次も参照。
福田の散策(3) 福田本町の史跡 長崎市福田本町
https://misakimichi.com/archives/1670
大正十一年頃のガラス写真 095ほか 福田千本松原
https://misakimichi.com/archives/3670
後ろの写真は、千本松原の前面海岸を埋め立てた海の駅「長崎サンセットマリーナ」の風景。 

三、千本松原

福田の千本松原については、「福田長兵衛の墓」でも述べましたとおり、24代福田長兵衛兼明が疱瘡で死亡する前年の元文元年(1736年)、その兼明が福田大番所加番中において、津波よけとして田子島から崎山までの海岸沿いに多くの松を植えたことからその名が付けられたと伝えられています。
かつては大人が数人で手を回す程の大松もあったそうですが、その松も虫食いなどで次第に枯れて、福田本町の田尻正年氏などによれば、昭和19年頃にはほぼ全滅状態だったと言うことです。
現在、千本松原に僅かに残る松は、由緒ある史跡でもあったことを考慮し、昭和24年昭和天皇が長崎御巡幸に際し、長崎県に対し「松の苗木100本分」の御下賜があったうちから、特にそのうちの50本分を福田村に賜り、松の苗木を千本松原に植樹したものであるようです。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータに、次のとおり登載された。

福田の千本松原 ふくだ
長崎市 海岸防潮林 長約1.4㎞(当初) 元文元(1736) WEB(みさき道人) 植樹後120年の安政4(1857)には162本、昭和5には80数本、昭和25にすべて枯れ、補植の松も少ない 福田の地頭・福田長兵衛兼明が津波の波除けとして田子島〜崎山まで植樹したとされる/宝永地震(1707)による津波被害を受けたものと推測できる/津波除けの防潮林は、現在判明している限り、他には和歌山県にしか存在しない 4 A

「神ノ島台場跡(長崎市神ノ島町)」の写真の場所は? ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

「神ノ島台場跡(長崎市神ノ島町)」の写真の場所は?

平幸治氏著「肥前国 深堀の歴史」(新装版)479頁に、「神ノ島台場跡(長崎市神ノ島町)」の写真があったので、現地確認に行った。次頁まで良く読めば良かったのに、これは神ノ島公園から下ったところから撮影した四郎ケ島の渡り口である。
文献には「神ノ島」とあるが、「神ノ島」(四郎ケ島を含む)と伊王島の台場築造話のようだ。

左奥が神ノ島から四郎ケ島へ佐賀藩が埋め立て築造した海道で、現在の神ノ島一周市道ではない。電柱が対岸まで立っているのは、四郎ケ島の沖波止建設工事当時の写真だろう。今は電柱は撤去されている。右端の一周市道は海側に拡幅され、車道中央に立たないと、これと同じような写真は写せなかった。

平幸治氏からさっそく教示いただいた。史料のモノクロは『佐賀藩海軍史』からのもの。絵図には、神ノ島側に「崎雲岬?台場」と「崎雲山上台場」、四郎ケ島側に「四郎島台場」と「小島台場」が描かれている。全体を総称して「神ノ島台場」となる。
両方が入るようにとアングルしたつもりでしたとのことであるが、1枚に写すのは、私にもむつかしかった。

(2015年6月23日 追 記)
前伊能忠敬研究室入江氏から、神ノ島の台場は「兜崎(カブトザキと読むのか、地元の人の言うドンクが正しいのか不明)」「飛渡(神ノ島工業団地の造成時に削られて消滅し、危険な崖になっている)」「崎雲浜手」「崎雲山上」の台場が在り、他に「四郎ヶ島」「小島」が在りましたという教示があった。
嘉永5年の台場計画の場所として、『佐賀藩銃砲沿革史』160頁から、台場地図を載せる。

防災情報新聞Webで公開された「昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑」記事 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

防災情報新聞Webで公開された「昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑」記事

防災情報新聞Web 2014年12月の周年災害/日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集)
http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6871.html を参照。掲載内容は、以下のとおり。
出典として本ブログ「昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑 長崎市向町淡島神社境内」記事が、リンクされた。
https://misakimichi.com/archives/2449

○連絡船近海丸、定員の4倍乗せ激浪のため転覆沈没、これも戦争の犠牲なのだ(70年前)
1944年(昭和19年)12月24日
太平洋戦争(1941年:昭和16年12月〜)の末期、戦局が厳しくなり、新聞も大幅にページ数が減り大きさも小さくなっていた頃である。毎日新聞12月25日付き2面に1段10行ほどの記事が掲載された。
“連絡船沈没”“【長崎発】廿四日午後一時頃長崎汽船会社所有長崎大波止−西波瀬戸町間連絡船近海丸(二六トン)が瀬戸町(現・西海市)より長崎に帰航中福田村(現・長崎市)小浦沖合にさしかゝった際突如激浪のため転覆沈没し乗客百五十名は行方不明となった、長崎水上署及び地元警防団(現・消防団)員ら現場に急行、午後五時までに判明せる死亡者は十一名である”
毎日新聞はその後も追跡記事を掲載、27日付では“原因は定員超過 近海丸遭難で積載制限の御達し”と見出しを付け、監督官庁から乗船定員を守るよう、各旅客船会社等に通達が出たことを報じている。
1994年(平成6年)12月24日、遭難50年を期して、近海丸殉難者之碑が長崎市向町の淡島神社境内の海の見える高台に建立された。この神社の高台からは式見の街と港が足下に見え、殉難者之碑の台座には、大きく手を天に広げている若い女性像が立ち、碑には殉難者の氏名と追悼の記が刻まれ、追悼の記は遭難の状況と背景を伝えている。そこで、この追悼の記を抜粋し、遭難の真相をお伝えする。
“午後1時頃、長崎交通船株式会社の連絡船近海丸(26トン)が、当時、西彼杵郡福田村小浦沖合いに差しかかった際、激浪を受けて転覆沈没した。近海丸は三重式見から長崎市大波止に帰航中、乗客、乗組員は疎開学童、婦女、老人らを含め計338人。戦争故に殊のほか食糧欠乏の時局下、乗客の殆どは食糧買い出しで乗船していた。(中略)救助者僅かに65人。死亡、行方不明者は実に273人にものぼった。長崎水上署、稲佐署、地元消防団の懸命の救助活動も遂に及ばない悪天候下のこと、まさに痛恨の極みというべき一大海難事故ではあった。原因は激浪のなかで定員の4倍もの乗客が背負い荷ともども右舷に傾いて均衡を失ったためとわかった”
当時、この近海ではアメリカ海軍の潜水艦が横行していた。沿岸航路とはいえ、魚雷攻撃される危険があったのだろう、また燃料オイルなども不足しており、運行回数も平和な時にくらべ少なかったと思われる。食べるものがない時代なのだ。無理をして手に入れた食料がここにある。殉難者名を見るとほとんどが女性である。家庭の主婦ではないのだろうか。船が出るからそれにぜひ乗ろう……。という気持ちが働き、船員たちもそれを止める事が出来なかったのではないか。
碑文にあるとおり“家族肉親のため幾許かの食糧を背負い、夕餉の楽しさに心はずませ”と、はやる気持ちが無理をさせたのだろう。正月前である、久しぶりのお餅も……、碑文はいう“あの憎むべき戦争なかりせば碑名の遭難者の犠牲はあり得べきものではなかった”と。
(出典:昭和19年12月25日付け毎日新聞」、「27日付け毎日新聞」、ブログ みさき道人「長崎・佐賀・天草etc風来紀行>昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑 長崎市向町淡島神社境内」。参照:2006年3月の周年災害「巡航客船金華丸沈没事故」)

長崎市稲佐山公園の行楽風景

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

長崎市稲佐山公園の行楽風景

2014年5月16日(金)、病院回りの昼休み時間をつぶすため、稲佐山公園へ登ってみた。つつじは終わっていたが、初夏を感じさせる絶好の行楽日和。さくらんぼ園と高田保育所や老人施設の団体客で、水辺が賑わっていた。

外海の風景・行楽  2014年3月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

外海の風景・行楽  2014年3月

2014年3月21日(春分の日)は絶好の行楽日和。東京から帰省した長男の案内と、市内に住む孫娘の遊びのため、家族5人で五島灘を望む西彼杵半島外海方面へ出かけた。松が枝国際観光埠頭で「クイーン・エリザベス」を見てから、まず三重へ車で走る。

写真は、長崎魚市場食堂の昼食、がんばランド販売の魚・貝類、夕日が丘そとめからの展望、遠藤周作文芸館、出津教会、黒崎教会、あぐりの丘(石橋は畦別当から移築している2号橋)。
夕食は自宅で、朝からみさき駅三和で仕入れていたアコウ(ハタの仲間)の刺身と鍋。

「四郎ケ島台場跡」国史跡指定と、「神の島低砲台跡」

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

「四郎ケ島台場跡」国史跡指定と、「神の島低砲台跡」

「四郎ケ島台場跡」の国史跡指定について、長崎市市史編さん室編集「長崎市史だより」平成
26年3月発行第9号4頁に、次のとおり記事があった。
「国の文化審議会は平成25年11月15日、国史跡「長崎台場跡魚見岳台場跡」に「四郎ケ島台場跡」を追加し、「長崎台場跡魚見岳台場跡四郎ケ島台場跡」と名称を変更しました。…今回、追加指定された四郎ケ島台場は年代が少し下った嘉永6年に作られました。…」との内容。
なんでこんな大事なことが「コラム」なのだろうか。「トピックス」ならまだわかる。「広報ながさき」や「長崎市の文化財」HPでは、今もって大がかりな広報がないようである。はたして答申を文部科学相がいつ正式に追加指定したのか、わからない内容の記事である。きょうの新聞は報じていなかった。(市文化財課に確認すると、文部科学省から3月18日決定と通知があったという)

次は、3月2日(日)午前実施された、長崎市文化財課主催「−文化財めぐり− 国史跡指定答申(?)記念〜長崎台場跡四郎ケ島台場跡とその周辺をめぐる〜」の参加者配布資料。私は参加していない。2頁に「神ノ島台場跡(埋蔵文化財)」があるが、その説明は不備である。
「明治に至り、四郎ケ島台場を含めた長崎台場の役割が終わったのち、明治31年(1898)に神ノ島は28cm榴弾砲8門を有する「神ノ島高砲台」が竣工され、「神ノ島低砲台」とともに近代の要塞へと化しました。現在も高砲台跡の一部は神ノ島公園内に残っています。…」

この項は、本ブログ次を参照。浄法寺朝美氏著「日本築城史」原書房昭和46年発行228〜
234頁に記した「長崎要塞 2)神の島低砲台」の調査がまったく行われていない。
神の島公園の西南部、すぐ下の堂の下部落の民家前に、庭のようにして遺構が現存するのを、ピースバトン長崎学さるくも知らないのだろう。長崎市文化財課は、文化財めぐりで参加者を案内していない。佐賀から大勢が参加している。答申資料に重大な記載洩れではないか。
https://misakimichi.com/archives/1694
https://misakimichi.com/archives/3878

「神の島低砲台」跡は、私たちが陸軍省要塞標の調査で、現地写真のとおり早くから遺構を確認していた。場所は神の島公園から四郎ケ島へ下る車道右脇の民家道に入る。カトリック墓地下となる。地元の年配者ならだれでも知っている。「日本築城史」による記録は、次のとおり。
2)神の島低砲台
神の島の西南部、堂の下部落の西約100メートル、海岸線より50メートル、標高18メートルの地に、明治31(1898)年8月着工、同32年7月竣工した、スカ式9センチ速射カノン4門の砲台である。備砲は34(1901)年3月着手し、35年2月に完了した。備砲費は3万8100円であった。首線方向はSE10°で、長崎湾口に向いている。射界は120°である。(略)

なお、長崎市文化財行政に対する同じような疑問は、次の例にもあるので、コメントとも参照。
深堀陣屋跡の現況 (5)
https://misakimichi.com/archives/3922
深堀景観まちづくりガイドライン (タッちやんブログ報告)
http://blogs.yahoo.co.jp/turbobf1516/54606782.html