防災情報新聞Webで公開された「昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑」記事 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

防災情報新聞Webで公開された「昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑」記事

防災情報新聞Web 2014年12月の周年災害/日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集)
http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6871.html を参照。掲載内容は、以下のとおり。
出典として本ブログ「昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑 長崎市向町淡島神社境内」記事が、リンクされた。
https://misakimichi.com/archives/2449

○連絡船近海丸、定員の4倍乗せ激浪のため転覆沈没、これも戦争の犠牲なのだ(70年前)
1944年(昭和19年)12月24日
太平洋戦争(1941年:昭和16年12月〜)の末期、戦局が厳しくなり、新聞も大幅にページ数が減り大きさも小さくなっていた頃である。毎日新聞12月25日付き2面に1段10行ほどの記事が掲載された。
“連絡船沈没”“【長崎発】廿四日午後一時頃長崎汽船会社所有長崎大波止−西波瀬戸町間連絡船近海丸(二六トン)が瀬戸町(現・西海市)より長崎に帰航中福田村(現・長崎市)小浦沖合にさしかゝった際突如激浪のため転覆沈没し乗客百五十名は行方不明となった、長崎水上署及び地元警防団(現・消防団)員ら現場に急行、午後五時までに判明せる死亡者は十一名である”
毎日新聞はその後も追跡記事を掲載、27日付では“原因は定員超過 近海丸遭難で積載制限の御達し”と見出しを付け、監督官庁から乗船定員を守るよう、各旅客船会社等に通達が出たことを報じている。
1994年(平成6年)12月24日、遭難50年を期して、近海丸殉難者之碑が長崎市向町の淡島神社境内の海の見える高台に建立された。この神社の高台からは式見の街と港が足下に見え、殉難者之碑の台座には、大きく手を天に広げている若い女性像が立ち、碑には殉難者の氏名と追悼の記が刻まれ、追悼の記は遭難の状況と背景を伝えている。そこで、この追悼の記を抜粋し、遭難の真相をお伝えする。
“午後1時頃、長崎交通船株式会社の連絡船近海丸(26トン)が、当時、西彼杵郡福田村小浦沖合いに差しかかった際、激浪を受けて転覆沈没した。近海丸は三重式見から長崎市大波止に帰航中、乗客、乗組員は疎開学童、婦女、老人らを含め計338人。戦争故に殊のほか食糧欠乏の時局下、乗客の殆どは食糧買い出しで乗船していた。(中略)救助者僅かに65人。死亡、行方不明者は実に273人にものぼった。長崎水上署、稲佐署、地元消防団の懸命の救助活動も遂に及ばない悪天候下のこと、まさに痛恨の極みというべき一大海難事故ではあった。原因は激浪のなかで定員の4倍もの乗客が背負い荷ともども右舷に傾いて均衡を失ったためとわかった”
当時、この近海ではアメリカ海軍の潜水艦が横行していた。沿岸航路とはいえ、魚雷攻撃される危険があったのだろう、また燃料オイルなども不足しており、運行回数も平和な時にくらべ少なかったと思われる。食べるものがない時代なのだ。無理をして手に入れた食料がここにある。殉難者名を見るとほとんどが女性である。家庭の主婦ではないのだろうか。船が出るからそれにぜひ乗ろう……。という気持ちが働き、船員たちもそれを止める事が出来なかったのではないか。
碑文にあるとおり“家族肉親のため幾許かの食糧を背負い、夕餉の楽しさに心はずませ”と、はやる気持ちが無理をさせたのだろう。正月前である、久しぶりのお餅も……、碑文はいう“あの憎むべき戦争なかりせば碑名の遭難者の犠牲はあり得べきものではなかった”と。
(出典:昭和19年12月25日付け毎日新聞」、「27日付け毎日新聞」、ブログ みさき道人「長崎・佐賀・天草etc風来紀行>昭和19年の海難 近海丸殉難者之碑 長崎市向町淡島神社境内」。参照:2006年3月の周年災害「巡航客船金華丸沈没事故」)