長崎の西空の夕日 13−02
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
写真 1〜 3 2013年 4月 3日の18時36分頃
写真 4〜 6 2013年 4月 4日の18時42分頃
写真 7〜 10 2013年 4月19日の18時40分頃
写真 11〜 12 2013年 4月27日の18時51分頃
長崎の西空の夕日 13−02
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
写真 1〜 3 2013年 4月 3日の18時36分頃
写真 4〜 6 2013年 4月 4日の18時42分頃
写真 7〜 10 2013年 4月19日の18時40分頃
写真 11〜 12 2013年 4月27日の18時51分頃
2013ながさき帆船まつり閉幕
2013年4月29日午後3時過ぎ、長崎港を出港する帆船「日本丸」。女神大橋近くから。あとは松が枝国際観光埠頭に接岸中の「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」と、水辺の森公園のにぎわい。夜の写真は午後7時過ぎ、小ヶ倉沖を出港するシーズ。
朝日新聞長崎地域版の30日記事は、次のとおり。
長崎帆船まつりが29日、閉幕した。長崎市は5日間の集客が20万3千人だったと発表した。
20万人を超えたのは2年連続で、5日間とも好天に恵まれたことなどが要因。29日は豪華客船ボイジャー・オブ・ザ・シーズ(バハマ船籍、13万7276㌧)も寄港し、にぎわいに彩りを添えた。
市観光政策課によると、今年は初めてキャラクターショーなどの子ども向けイベントを取り入れ、家族連れの集客につながったという。今年は過去7番目の集客で、目標の18万人を上回った。
大正十一年頃のガラス写真 018ほか 茂木街道
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「大正十一年頃のガラス写真」
018,019,096 (茂木街道)
目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕 超高精細画像
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。
■ 確認結果
「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。
整理番号018,019,096は、「茂木街道」の風景と思われる。長崎大学データベース目録番号:1365「茂木街道(2)」にもあるとおり、明治20年(1887)に完成した旧県道。田上峠の転石から若菜川支流の河平川谷間へ下り、黒橋へ出て茂木へ至る。
大正十一年頃のガラス写真 003ほか オランダ坂
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「大正十一年頃のガラス写真」
003,245 (オランダ坂)
■ 確認結果
「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。
整理番号003,245は、長崎市東山手町の活水大学登り口の「オランダ坂」と思われる。遠くに写る山の稜線は稲佐山だろう。
ステッセル将軍一行上陸の碑 長崎市丸尾町
日露戦争において、乃木希典大将とロシアのステッセル将軍が旅順開城の交渉をし、ステッセル将軍とロシアの将兵は、明治38年(1905)1月14日、長崎に上陸した。
この上陸の碑が、長崎市丸尾町の旭橋近く川岸に建立されている。碑文は次のとおり。
碑の下部にある上陸の古写真は、このあたりの景色に間違いないだろう。
日露戦争で旅順を守った勇将にして仁将
ステッセル将軍一行上陸の碑 明治三十八年(1905)一月十四日上陸
日ロ親善を期して 平成22年(2010)7月建立 長崎日ロ協会
「(明治)天皇陛下はステッセルの(旅順)苦戦を嘉(よ)みし、武士の名誉を保たしむ可き旨、攻団(乃木)軍司令官に電命せらる。ステッセル将軍は帯勲帯剣のまま、敬すべき軍人として、最上の早き時間内に於て放還されるべき事に我が大本営は夙(つと)に決議しあり」
明治38.1.3 東洋日の出新聞
ステッセル将軍及び家族の宿舎は、長崎ホテルに非ずして、ロシア人との縁で平戸小屋の道永お栄の宅に定められ…又、稲佐諸岡お松宅には将官四名を始め、福田(甚八)、中村(七平)、山野辺(右左吉)等有志の宅には夫々上級将をして予定され、諸岡お松宅にては六十人分の賄を仕出すべき用意を命ぜられ、「…一千名に近き一行なれば…事務所は悟真寺…」
明治39.1.9 東洋日の出新聞
旅順要塞司令官 ステッセルの評価については、坂の上の雲 司馬遼太郎 五巻 「水師営」
P237より、「司馬遼太郎を勝手に語るブログ」に記事がある。
http://tea-time7.com > Top > 坂の上の雲
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6263 悟真寺の墓地とボードイン
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:6263 悟真寺の墓地とボードイン
〔画像解説〕 超高精細画像
オランダ人墓地(奥に見える)の入口付近で悟真寺の住職および伴僧と二人のオランダ人が撮影されています。住職はこのときまだ袈裟をつけていません。右端はボードイン博士です。このとき博士は同伴の者にカメラを持たせて撮影させたわけです。
■ 確認結果
ボードイン、F.ベアト、上野彦馬が、長崎の墓地を撮影した作品は数点ある。長崎大学データベースでは、墓地を現地確認しないで間違った解説をしていると思われるものもあり、どこの墓地か確認が必要である。
目録番号:6263「悟真寺の墓地とボードイン」も、念のため調査したが、この作品は、画像解説どおり長崎市曙町の「悟真寺墓地」に間違いないだろう。
墓地の背後に写っているのは、現在では木立が茂り完全に見えなくなっているが、「稲佐山」とその稜線である。この向きからすると、撮影地は「オランダ人墓地(奥に見える)の入口付近」に間違いないと思われる。
長崎半島東回り「脇岬村路」の踏査と草刈り整備 2013年4月
2013年4月21日(日)晴。長崎半島東回り「脇岬村路」の踏査と草刈り整備。参加9人。みさき道歩会の例会だが、新聞により広報し、一般参加行事として実施した。
三和行政センター前9:10—為石9:40—宮崎橋10:25—川原小池上道塚地点10:45—川原木場昼食地点12:00(昼食)12:40—川原木場公民館13:05—生目八幡神社前13:
50—サイクリング道路終点14:10—殿隠山鞍部14:50—旧野母崎町取水場16:50—観音寺前バス停17:15(徒歩距離 約15km)
「みさき道」の別ルート紹介と草刈り整備は、一般参加行事で4,5月にかけ4回実施の予定。今回はその第2回目。長崎半島東回りのみさき道。明治道塚が残る「脇岬村路」を解明する。
為石大川は兵隊さんの別れを飛び石で渡り右岸を行く。どんどん坂という渕上を巻いて為石へ出る。長崎往還道の起点が為石だった。
川原本町へ丘を越し、住吉神社へ寄る。市指定天然記念物の大楠がある。蛭子崎は手前から山道へ入り、モータレ川(馬渡川のこと。現在の宮崎橋のところ)を渡る。川原小池跡の三和記念公園から上の高台に上がる。現在、三和公民館展示ホール奥の中庭に保存している明治道塚は、ここに建っていた。「東脇岬 西高濱」と刻む。小池上が分岐だった。
池田へ下り途中から山道をたどる。谷間に大きな桁石が散乱している。県道へ上り、すぐ植林地の山腹道へ入って、また県道と出合ったところで昼食。
川原木場の集落内は旧道を進む。木場公民館へ上がると、広場奥に「熊川力士碑」がある。昔からの川原村と脇岬村の村境が熊川。長崎半島一と思われる桁石橋「界橋」が今でも残る。
あとは県道や旧道を伝いながら生目八幡神社前へ上り、野母崎ゴルフ場入口に出る。岬木場集落を通り、サイクリング道路終点で休憩。モトクロス場の風車へ向い、殿隠山の鞍部に着く。
誤解があるが「みさき道」は、ここから殿隠山や遠見山へ向っていない。明治地図に道の連続がない。脇岬へそのまま下るのが楽なのである。
カーブした林道に出入りしながら、直線的に荒れた旧道を下ると、まもなく脇岬や樺島が見えてくる。旧野母崎町取水場へ出るのが正しいのだが、最後に道を間違い思わぬ時間を要した。前回は2回に分けたコースを1日で歩いたから、距離も長かった。観音寺前に着いたのは17:15。
第3回は、長崎半島東回り「高浜村路」の踏査。5月3日(金)午前9時30分、長崎市宮崎町の川原公園前バス停に集合。ルート説明と草刈り整備。黒浜まで約10kmを歩く。折込鋸・弁当持参。無料。申し込み不要。雨天のときは、5日(日)に延期。
長崎医学伝習所生「関 寛斎」の日記 文久元年(1861)
長崎医学伝習所生「関 寛斎」は、文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、仲間3人で1泊2日の御崎観音に詣でた。
原文を解読している陸別町平成6年発行「陸別町史別巻 史料編補稿」などを参考に、現代文を次に掲げるが、字句についてはまだ疑義がある部分があり、正確なものではない。
北海道足寄郡陸別町関寛斎資料館所蔵
関寛斎「長崎在学日記」脇岬紀行部分の抜粋 文久元年(1861)
(4月)三日 日曜日
昨日より佐々木と長嶺氏を案内として相約して三崎行を催す 〇暁を浸して起て晴る明らんとする時微雨忽ち晴る 朝課を終り行囊を作す 佐々木氏を待つ 然れども来らす 故に彼の旅宿を訪ひ未だ朝餐を喫せすと暫時待つにまた雨す 然れども雨を浸して発途す 濱ノ町に至りて止む 南風殊に温熱すること甚し 十町峠にて襯衣を去り単物一枚になる 此の峠頗る嶮東は崎陽を一望し北は港内の諸嶋を観る 且つ峠に路を隔ること一丁許の処に大なる石突起し 峠を抜くこと二十間許 殆ど人工を奪ふ 〇子ヶ倉の入口にて小憩す 右に笠山ヶ岳あり此より加能峠の麓にして良ゝ登る五六町にして平地あり 望遠鏡を用ゆるに最も佳なり 真下は子ヶ倉港内の小嶋眼前に見へ西南は西海緲々たり 〇加能の下り口は海面に張出し望尤も好し 両岸の砲台 或は隠れ或は顕る 両岸は湾あり 張出あり 〇下りて一湾に出て岸上の危石を渡り一の間路を行く 小渚あり一二小魚あり且つ一の烏賊を見る 同行の人直に入り刀を以て切て得たり 自ら携て午飯の料とす
〇迂路して深堀に出つ 入口の峠あり直に下り深堀に至る 小港あり荷船四五個あり且つ佐賀侯の船数十艘あり 此の処は佐賀の臣深堀某の居なり 戸数百口許 一の家に至り艾餅を喫す 且つ温熱偲忍びざるに由て草鞋をとりて襟を開き汗を去る一快を取る后行厨を開き 且つ鯛一尾を調へ煮て行厨の料とす 共に手取の烏賊を供す味極めて佳
〇午後発途す 二十丁許にして八幡山峠あり 上りの中央にて異船を見る 望遠鏡を用ゆるに竪に赤白青の旗号あり 日午殊に峠ゆへ 炎熱蒸すが如く 汗を以て単物を濡すに至る 三十許にして蚊焼峠の入り口の茶店にて喫水して汗を拭ふ 〇西北は港内にて其の西岸は遥へ絶へ 高野木嶋 マゴメ嶋 硫黄嶋 高嶋 遥に松嶋の瀬戸(大角力・小角力岩礁図があり、「高さ六七間」としている)見ゆる 之れを相撲の瀬と言ふ 〇四郎ヵ嶋 かみの嶋 右二嶋は佐賀公の砲台にして最も勝るの由 〇蚊焼峠の上三十丁許を長人(ながひ)と云ふ 此の処東西狭くして直に左右を見る 東は天草 嶋原あり遥に其の中間より肥後を見る 〇下りて高濱に至る 此の処漁処なり水際の危岩上通る 凡そ二十丁此の処より三さき迄一里なりと則ち堂山峠なり 此の峠此の道路第一の嶮なり 脚疲れ炎熱蒸すが如く困苦言べからず 下りて直に観音堂あり 淸人の書にて海天活佛の額あり 〇三四丁にして脇津に至り蒟蒻屋に二百銅を出して鏡鯛を求め 鮮肉を喫す頗る妙 郷里を出るの后初めて生鮮の肉を食し総州に在るか如きを覺ふ 処々蝉鳴を聞く 七ッ時より時々雨ならんとす夜に入りて大雨
四日 晴
雨止む 然れども北風強し 炎熱なし 客舎を発し 往昔蒙古の船此の処に破変し化石となり 其の木板材帆柱の形を存すと 然れども潮満ちて見る事能はすと只聞くのみ西向して海辺を通る 此の時蒸汽船を見る 望遠鏡を用ゆるに白に丸紅の旗号あり 長崎港を向く 此の疾きこと我一丁許を行きに四五里をはしる 四五丁にして野母に届る 船場に至り訪ふに 北風強きに由て向風故出船なしと 由て只一望のみにて漁家にて喫茶す此の処二百戸許漁士なり 南西に高山あり 四五年前は絶へす 此の頂にて望鏡を用て異船を見しと云し長崎迄一望し且つよく遠方を見殊に景地なりと 〇五ッ半時発足し 堂山の西を通り高濱に出て 八ッ時蚊焼峠にて行厨を喫し 且つ「ゴロタメシ」と唱ふる麦米豌豆の飯を一椀つつ喫す 其の味頗る妙 尚コッパ飯と唱へる飯とゴロタ飯は此邊の常食の由 ゴッパ飯はさつま芋を片切れ乾し 兼□とし飯に加ふるなりと 〇夫より半里許を行て昨日の道を換ふ 西方は深堀東方長崎道なり 八幡山峠を西に見 八郎ヵ岳を東に見る 其の中間と見ふ 八郎ヶ岳九州第八の岳なりと 此邊第一の高山なり 一農家に憩して新茶を喫し味最好なり 高低の山路を経て昨日と道を同し加能峠に子ヶ倉にて少憩す 十町峠にて新茶を求め 家産と土産の料とす 〇黄昏大浦に着し飢あり 三人共に一麺店にて三椀つつを喫し別る 予は直に浴室に至り 浴后高禅寺に帰塾す 復習已に終るの后なり
旅する長崎学「21歴史の道 Ⅳ長崎街道・脇往還ウォーキング」が発刊
歴史ガイドブック「旅する長崎」は、長崎県が推進する「歴史発見・発信プロジェクト」から誕生したシリーズ本。「21歴史の道 Ⅳ長崎街道・脇往還ウォーキング」が、最終刊として長崎文献社からこのたび発刊された。
時津街道・諫早街道・茂木街道とともに、「みさき道」がこの本に取り上げられているので、一読をお願いしたい。A5判 並製 フルカラー 定価600円。有名書店で発売。
拙文の江戸期の「みさき道」ウォーキングのすすめは、次のとおり。文は一部直されている。ルート図も少し正確さを欠く地図が掲載されているので、あくまで本会の研究レポート(第1〜3集があり、長崎県立図書館や長崎市立図書館などで借りられる)や、本ブログの地図を正しいものとして利用してもらいたい。
江戸期の「みさき道」ウォーキングのすすめ
—医学生関寛斎日記の推定ルート—
「みさき道」(御崎道)は、長崎市中から長崎半島の南端、脇岬へ至る7里(約28km)の道をいいます。古代から道はありましたが、江戸時代盛んになった“みさき観音参り”の道として、整備されました。道筋に今魚町が建てた「みさき道」など刻む道塚が、今でも12本残っています。脇岬は海上交通の要所でした。「観音寺」(曹洞宗)は、行基が開基したという古い寺です。江戸時代に再建されたお堂にある十一面千手観音立像(国指定重要文化財)や、150枚の天井絵(県指定文化財)は有名で、長崎の町人をはじめ遊女たちからも信仰を集めました。
景勝の地である脇岬や野母には、天明8年(1778)画家・文人の司馬江漢や、文化10年(1813)修験者の野田成高が訪れた日記を残していますが、断片的な記述に過ぎません。最も参考となる文献は、文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、仲間3人で脇岬観音寺に詣でた長崎医学伝習所生関寛斎「長崎在学日記」(北海道陸別町関寛斎資料館所蔵)の紀行です。簡潔な文章の中に具体的な地名・距離・時間・方角・状景描写が、当時としては驚くような正確さで記されています。
「関寛斎」は、天保元年(1830)千葉県東金市生まれ。ヤマサ醤油当主の知遇を得、長崎医学伝習所にきたのは30歳の頃です。松本良順の63番目の弟子となり、オランダ人医師ポンペに蘭方医学を学びます。後に阿波徳島藩の典医など勤め、晩年は北海道足寄郡陸別町(阿寒湖近く)に渡り、長男とともに未開の地の開拓にあたり、83歳で亡くなりました。同町の駅には開拓の祖として資料館があります(同町HPから)。司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」の主な登場人物です。「みさき道」は、故市川森一先生の小説「蝶々さん」にも登場します。ぜひ読んでください。
今から153年前、「関寛斎」という人がおり日記を残したことによって、「みさき道」が解明できることとなりました。彼の記述を私たちなりに実地で検証しながら、現存する道塚12本を手がかりに、平成17年に調査した結果がこの推定ルート図です。 このほか参考にした資料は、①安政・萬延・文久年間の南佐賀領各村地図及び街道図 ②国土地理院旧版地図(明治34年測図) ③旧町字図・地番図 ④真鳥喜三郎著「ふるさと地名の研究」などです。
「みさき道」のルートは、さまざま諸説が言われます。旧「三和町郷土誌」や最新の「長崎市史 近世編」も読んで感じるのは、時代を混同し推測をもって語られ、史実にない道を説明しています。 私たちが最も知りたいのは、観音参りが盛んだった江戸時代の頃の、道塚が残るほんとうの「みさき道」ではないでしょうか。諸説があるなら、なおさら正しい古道のルートをお互い研究しましょう。私たちにも間違いがありますから、疑問の点は遠慮なく指摘してください。
道は時代とともに変ります。特に長崎半島は海岸埋め立てと消波ブロックによって、直線的な効率のよい新しい国道や県道が完成しつつあります。しかし、自然環境が厳しかった頃の半島の先人の苦労を偲び、ときにはこの古道「みさき道」を歩いていただければと思います。 推定ルート図では、現在荒れて歩けない区間がどうしてもあります。適当に迂回して先へ進み、古道発見を楽しむウォーキングをしてください。長崎学さるく行事でも数回実施しました。
「長崎半島東回りの道」も考えられ、研究レポートやブログにおいて具体的な考察をしていますから、参考としてください。
(注) 関寛斎「長崎在学日記」(北海道陸別町同資料館所蔵)の原文写しは、「みさき道歩会」の研究レポートに掲載しています。
資料名:江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルート
長崎歴史文化博物館の郷土資料閲覧室にも蔵書があります。
感覚を疑う長崎市広報資料HP「茂木をたずねて」
長崎市編入50周年記念「茂木今昔」の編集内容については、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3603
長崎市政への提案に対して、前向きな反省がほとんどうかがえない長崎市茂木支所の回答といえよう。
「茂木今昔」は、長崎市編入50周年記念「茂木今昔」となっていますが、「茂木をたずねて」のことではないかと思いますとのことで、これを見てみた。
「茂木をたずねて」は、長崎市茂木支所が2012年7月頃発行した郷土資料のよう。
長崎市公式ホームページの「観光案内 >観光・文化的施設 >長崎の隠れたスポットをさるく >茂木をたずねて」にある。
長崎市茂木支所の企画や編集の意気込みは理解しないのではないが、長崎市全体の広報として考えた場合、HPの内容には疑問がある。
なぜ、茂木支所のみこのように大きく扱うのか。全体の支所業務の均衡が必要ではないか。
「茂木をたずねて」の目次で、「茂木のあゆみ」「茂木の散歩道」「古写真をたずねて」をクリックしても、記事と写真は出てこない。不完全なHP。用をなさない。
「茂木四国八十八ヶ所」は、全部載せ多くの頁をさいている。支所業務とは思われない。HPが重たくなる。ほかに紹介することが多くあるだろう。
このような内容を、長崎市全体の広報として紹介するのはどうかと思われる。
「茂木をたずねて」は、本来は地元の活力をなるべく生かすため、長崎市茂木支所、茂木地区連合自治会、茂木史談会、茂木愛創会などが協力して編集発行するべき郷土資料。HPもそのような連名で、独自にHPを作り公開した方が、市民に誤解を与えないのではないか。
長崎市公式ホームページでは、リンク先程度にとどめてもらいたい。