旅する長崎学「21歴史の道 Ⅳ長崎街道・脇往還ウォーキング」が発刊

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旅する長崎学「21歴史の道 Ⅳ長崎街道・脇往還ウォーキング」が発刊

歴史ガイドブック「旅する長崎」は、長崎県が推進する「歴史発見・発信プロジェクト」から誕生したシリーズ本。「21歴史の道 Ⅳ長崎街道・脇往還ウォーキング」が、最終刊として長崎文献社からこのたび発刊された。
時津街道・諫早街道・茂木街道とともに、「みさき道」がこの本に取り上げられているので、一読をお願いしたい。A5判 並製 フルカラー 定価600円。有名書店で発売。

拙文の江戸期の「みさき道」ウォーキングのすすめは、次のとおり。文は一部直されている。ルート図も少し正確さを欠く地図が掲載されているので、あくまで本会の研究レポート(第1〜3集があり、長崎県立図書館や長崎市立図書館などで借りられる)や、本ブログの地図を正しいものとして利用してもらいたい。

江戸期の「みさき道」ウォーキングのすすめ
—医学生関寛斎日記の推定ルート—

「みさき道」(御崎道)は、長崎市中から長崎半島の南端、脇岬へ至る7里(約28km)の道をいいます。古代から道はありましたが、江戸時代盛んになった“みさき観音参り”の道として、整備されました。道筋に今魚町が建てた「みさき道」など刻む道塚が、今でも12本残っています。脇岬は海上交通の要所でした。「観音寺」(曹洞宗)は、行基が開基したという古い寺です。江戸時代に再建されたお堂にある十一面千手観音立像(国指定重要文化財)や、150枚の天井絵(県指定文化財)は有名で、長崎の町人をはじめ遊女たちからも信仰を集めました。

景勝の地である脇岬や野母には、天明8年(1778)画家・文人の司馬江漢や、文化10年(1813)修験者の野田成高が訪れた日記を残していますが、断片的な記述に過ぎません。最も参考となる文献は、文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、仲間3人で脇岬観音寺に詣でた長崎医学伝習所生関寛斎「長崎在学日記」(北海道陸別町関寛斎資料館所蔵)の紀行です。簡潔な文章の中に具体的な地名・距離・時間・方角・状景描写が、当時としては驚くような正確さで記されています。

「関寛斎」は、天保元年(1830)千葉県東金市生まれ。ヤマサ醤油当主の知遇を得、長崎医学伝習所にきたのは30歳の頃です。松本良順の63番目の弟子となり、オランダ人医師ポンペに蘭方医学を学びます。後に阿波徳島藩の典医など勤め、晩年は北海道足寄郡陸別町(阿寒湖近く)に渡り、長男とともに未開の地の開拓にあたり、83歳で亡くなりました。同町の駅には開拓の祖として資料館があります(同町HPから)。司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」の主な登場人物です。「みさき道」は、故市川森一先生の小説「蝶々さん」にも登場します。ぜひ読んでください。

今から153年前、「関寛斎」という人がおり日記を残したことによって、「みさき道」が解明できることとなりました。彼の記述を私たちなりに実地で検証しながら、現存する道塚12本を手がかりに、平成17年に調査した結果がこの推定ルート図です。 このほか参考にした資料は、①安政・萬延・文久年間の南佐賀領各村地図及び街道図 ②国土地理院旧版地図(明治34年測図) ③旧町字図・地番図 ④真鳥喜三郎著「ふるさと地名の研究」などです。

「みさき道」のルートは、さまざま諸説が言われます。旧「三和町郷土誌」や最新の「長崎市史 近世編」も読んで感じるのは、時代を混同し推測をもって語られ、史実にない道を説明しています。 私たちが最も知りたいのは、観音参りが盛んだった江戸時代の頃の、道塚が残るほんとうの「みさき道」ではないでしょうか。諸説があるなら、なおさら正しい古道のルートをお互い研究しましょう。私たちにも間違いがありますから、疑問の点は遠慮なく指摘してください。

道は時代とともに変ります。特に長崎半島は海岸埋め立てと消波ブロックによって、直線的な効率のよい新しい国道や県道が完成しつつあります。しかし、自然環境が厳しかった頃の半島の先人の苦労を偲び、ときにはこの古道「みさき道」を歩いていただければと思います。 推定ルート図では、現在荒れて歩けない区間がどうしてもあります。適当に迂回して先へ進み、古道発見を楽しむウォーキングをしてください。長崎学さるく行事でも数回実施しました。
「長崎半島東回りの道」も考えられ、研究レポートやブログにおいて具体的な考察をしていますから、参考としてください。

(注) 関寛斎「長崎在学日記」(北海道陸別町同資料館所蔵)の原文写しは、「みさき道歩会」の研究レポートに掲載しています。
資料名:江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルート
長崎歴史文化博物館の郷土資料閲覧室にも蔵書があります。