月別アーカイブ: 2010年6月

西彼町の巨樹・名木  西海市西彼町

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西彼町の巨樹・名木  西海市西彼町

西海市西彼町の巨樹・名木。西彼町教育委員会「西彼町郷土誌」平成15年発行の774〜
776頁による説明は次のとおり。

第二節 天然記念物(自然木)

町内の各地に年輪を重ね、住民に親しまれてきた古木の保存ならびに天然記念物指定について、以前から各郷の役員有志から陳情書が出され、教育委員会の文化財保護審議会でも研究を重ねてきた。
平成11年(1999)度から、県教育委員会文化課の協力を得て、それぞれの樹種、樹齢、環境などについて現地調査がおこなわれ、次の5件が(旧)町の天然記念物の指定を受けた。

写真  1〜  3    1 八木原天満宮の大楠と社叢(八木原郷)

拝殿左手のクスの巨木2本。社叢は古代の原植生の姿を残している。この森林群落は「シイ・ミミズバイ群集」と呼ばれる照葉樹林の断片である。タブ、ハゼ、アラカシなどの巨木は特筆に値する。
クスノキ…①幹回り5.5m ②同6.0m  ③同(2本)10.5m
ハゼノキ…幹回り2.7m
(参 照) https://misakimichi.com/archives/663

写真  4〜  6    2 洲崎神社の社叢(大串郷網代)

ムクロジとスダジイの巨木が多い。スダジイ(椎)が天然記念物に値すると評価された。
シイノキ・・・幹が4本に分かれ、幹回り各2m、根幹部8.4m。このほか幹回り5.0mの古木もある。
(参 照) https://misakimichi.com/archives/662 

写真  7〜  9    3 鳥加郷のユーカリの木(鳥加郷大徳寺下)

大村市西経寺の幹回り3.7mに次ぐ、県内第2位の大きさを持つ。幹回りが2.9mある。樹齢約130年、高さ15m。
(参 照) https://misakimichi.com/archives/661

写真 10〜 12    4 平原郷のカゴノキ(平原郷清正公参道)

樹齢4、5百年。山地中腹の照葉樹林に生えるクスノキ科の木本植物。この木はかつて森林の中に生えていた樹木の名残と思われる。県下有数の巨木で、天然記念物の評価を受けた。
カゴノキ・・・幹回り3.2m
(参 照) https://misakimichi.com/archives/657

写真 13〜 14    5 亀浦郷小干の大楠(亀浦郷)

西小干にあり、樹齢4、5百年といわれる。上の川と呼ばれる湧き水のすぐ上に生えていて、形状の整ったクスノキの巨木である。
幹回り5.6m、高さ約20m
(参 照) https://misakimichi.com/archives/659

石原岳堡塁  西海市西海町面高郷

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石原岳堡塁  西海市西海町面高郷

国道202号線の西海市立西海北小学校前から、案内標識により800m北(半島の先の方)へ入る。石原岳森林公園となっている「石原岳堡塁」遺構がある。西海市が管理するキャンプ場となっている。当時の堡塁構造が完璧に現存し、価値ある遺構である。

佐世保要塞のひとつ。明治32年(1899)12月竣工し、佐世保湾口南側の敵軍上陸侵攻にそなえた。「堡塁」は海岸砲台の背面を守る陸戦砲台だが、上空に対しては脆弱なため、航空機発達とともに廃れ、「石原岳堡塁」は昭和4年(1929)6月廃止された。
現在、同地の高台から崎戸大橋方面しか望めなかった。現地説明板は次のとおり。

石原岳堡塁の歴史

この堡塁は、記録によると、佐世保軍港防衛のために、1897年(明治30年)10月21日に起工し、1899年(明治32)12月31日に竣工したもので、全面積は約2haあります。
標高73から77mに備えられた砲種はクルップル式10センチカノン砲6門、鋼製9センチ臼砲4門、砲座数は7基となっておりました。
この後、1929年(昭和4年)6月14日には、陸軍の台帳から全部が除籍されました。(佐世保要塞築城史から)             平成7年3月   長崎県  西海市

7月1日に石原岳堡塁を再訪。正門入口及び駐車場から外堀を一周する遊歩道にある「側防窖室」と排水口遺構の写真を後ろに追加した。

長崎外の古写真考 「名所一覧」277頁 1 天艸島

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長崎外の幕末・明治期古写真考 「名所一覧」277頁 1 天艸島

平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行から気付いた作品を取り上げる。

277頁 肥前之国
1 天艸島

■ 確認結果

泊天草洋
雲耶山耶呉耶越水天髣髴青一髪萬里泊舟天草洋煙横篷窓日漸没瞥見大魚波間躍太白當船明似月

あれに見えるは雲であろうか。山であろうか。それともシナ大陸の呉の地か越の地か。水と空とがあたかも青い髪の毛を張ったように一線を画して連なっている。はるばる京洛より来て、この天草洋に舟泊まりする。夕靄は静かに船の小窓をこめて太陽は次第に西の海に沈んでいく。おりしも大きな魚が突然波間に跳ねるのをみた。空には宵の明星(金星)が出て船を照らしておりまるで月のように明るい。

頼山陽は,江戸時代後期の漢学者、修史家。頼山陽が文政元年8月(1818)西遊の途次、長崎より茂木を経て、天草へ船で渡った。当時富岡の城下に開塾されていた儒者渋江龍淵をたずね来遊されたと伝えられている。その時、西海天草灘の展望を詠じたのが、この名吟である。
この詩碑は、苓洋高校近くの山陽公園に建っている。
http://www.geocities.jp/amakusa_tanken/hakuamakusanada.htm

「名所一覧」277頁の「1 天艸島」は、肥前之国に掲載されている。タイトル以外、画像解説が何もないが、上記名吟があり、熊本県天草郡苓北町富岡の陸繋島、曲崎の光景と思われる。航空写真のとおり、現在の苓北町役場左上の志岐海岸あたりから撮影できる。現在の写真は、茂木〜天草富岡フェリー船上から曲崎の先端部を以前、ほぼ同じ方向で写していた。

「富岡の砂嘴」は、志岐平野の北西部に位置する陸繋島の先にある。この陸繋島は富岡半島とも呼ばれ、その北東端部にある元袋集落から巴湾をぐるりと囲むように、「砂嘴」という鳥のくちばしに似た「かぎ型」に曲がった美しい地形をつくっている。地元では、この砂嘴の先端部を曲崎(まがりさき)と呼んでいる。

長崎外の古写真考 目録番号:1213 富士山の遠望(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1213 富士山の遠望(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1213 富士山の遠望(1)
〔画像解説〕
場所は特定できないが、富士山が正面に見える。中景は川が流れ、川岸に沿った道路に篭に乗った人物、それを先導するこうもり傘をさした男などがはっきりと見える。前景窪みの工作物は何であろうか、識別できない。

■ 確認結果

目録番号:1213 富士山の遠望(1)は、現在の静岡県富士市沼田新田あたりの光景である。中景の川と見えるのは、富士沼(浮島沼)、前景窪みの工作物は、工事中の排水路と思われる。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の218頁 駿河之国に、同じような写真が「柏原富士沼」として掲載されている。同解説は次のとおり。

⑦ 柏原富士沼  (現、富士市沼田新田あたり) 原宿と吉原宿の間、柏原の排水路あたりから北を向き、浮島沼(富士沼、須津沼とも呼ばれた)とその先の富士山を撮影。

四本堂公園にある長崎要塞区域標  西海市西彼町白崎郷

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四本堂公園にある長崎要塞区域標  西海市西彼町白崎郷

国道206号線西彼町の旧オランダ村手前交差点から右折。総合体育館前を通り、北東の母衣崎へ約3.7km、「四本堂公園」の案内標識により進む。
「長崎要塞区域標」は、四本堂公園北端のオートキャンプ場下の海岸部にある。史跡「御腰掛岩」があるすぐ上の林間に、地元が設置した碑とともにある。碑文は次のとおり。
標石は「長崎要塞区域標」「第一五八号」「陸軍省」「明治三十二年七月十四日」である。

長崎要塞地帯 四本堂要塞
旧陸海軍は一八九八年(明治三十一年)要塞地帯法公布に基づき東京湾、広島湾、下関、対馬、長崎、佐世保などの重要な海岸等軍事施設の拠点として要塞地帯に指定し機密を守るための周辺への立ち入りを禁じた。
この四本堂要塞は敵国の侵略から軍都大村、長崎を守るため設置されたものである。
これまで、地元も存在を知っていなっかったが二〇〇八年(平成二〇年)五月標柱が発見された。長年の風化で刻字の判読が難しく、今後、永く戦争遺跡として継承していくため新たに標柱を設置する。                  平成二十年十月吉日 白崎郷

地元のせっかくの碑と新たな標柱だが、少し誤解がある。「要塞地帯法」の公布は、明治32年(1899)7月14日。ここに四本堂要塞が設置されたのではなく、標石は佐世保要塞の軍事機密を守るため、法に基づき外周約10kmの第三地帯に建てた警戒区域標である。里中にも多く立っていた。建立の「明治三十一年」も判読が違う。佐世保に残る標石はすべて「明治三十二年七月十四日」と刻まれている。

参考のため、当時の佐世保要塞地帯図を載せる。「佐世保要塞地帯は、佐世保市、佐世保湾、北松浦郡の西南部、西彼杵郡の西北部、大島、黒島、江ノ島、平戸島を加えた水陸一帯の区域で、佐世保市に佐世保要塞司令部と重砲兵聯隊が置かれた」と説明がある。
2008年標石発見の経過が不明だが、この標石は佐世保の高橋輝吉氏がすでに10年位前に見つけ、地元へ知らせていた。高橋氏地図の同地に「アリ 第158」とはっきり記している。
四本堂公園は、次のHPも参照。  http://hasamiooen.fc2web.com/2009-report-24.html

長崎外の古写真考 目録番号:6672 成田山下奥

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6672 成田山下奥

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6672 成田山下奥

■ 確認結果

目録番号:6672「成田山下奥」の、タイトルにある「下奥」と、時計の意味がわからない。石段上に立つ建物は、千葉県成田市の大本山、成田山新勝寺の「釈迦堂」である。埼玉県川越市の別院「恵比寿天 成田山」ではない。時計の文字盤は干支のようだ。
2枚目の目録番号:1483「寺(4)」( https://misakimichi.com/archives/2367 を参照。実は成田山新勝寺「仁王門」)の背後の建物。石段左右の大杉が同じ傾きで写っている。

「釈迦堂」は国の重要文化財。大本堂左手の広場に建つ入母屋造の仏堂で、1858年(安政5年)建立の旧本堂。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の234頁 下総之国に、同じ写真が「不動石坂並びに時計」として掲載されている。同解説は次のとおり。

⑧ 不動石坂並びに時計  仁王門をくぐり抜けた地点から旧本堂(現在の釈迦堂、国指定の重要文化財)を望んだものと思われる。現在時計は設置されていないが、階段両脇の狛犬や石段脇の樹木は変わっていない。

巻頭の貴重写真拡大編93頁にも掲載され、詳しい解説は次のとおり。昭和39年(1964)、大本堂を建設するため、写真に写っている釈迦堂は、現在の大本堂の左手に移築されたのである。
現在の写真は、solmare.com 成田山新勝寺の写真素材から。

不動石坂並びに時計  

表参道を過ぎ、現在の第一信徒会館前から門を入ると成田山境内になる。参道の右側に土産物店が軒を並べる広場を堂庭といい、客殿の光輪閣を左に見ながら、石段を登り仁王門(国指定重要文化財)をくぐる。その先の仁王池の橋を渡ると、急な石段が目の前に迫ってくる。写真は石段越しに、当時の本堂(現、釈迦堂。国指定重要文化財)を望んだものである。

石段の手前には、時計様のものが見えているが、現況では見あたらない。石段両脇の斜面は、当時よりも樹木が繁茂し、石造物も増えているが、景観上、当時と最も異なっているのは、大本堂が石段越しに見えている点である。昭和39年(1964)、大本堂を建設するため、写真に写っている本堂は、現在の大本堂の左手に移築され、その跡地に現在の大本堂が建設されたためである。前本堂は、安政5年(1858)の建立で、板壁の五百羅漢など、見事な浮き彫り彫刻が見られる。

長崎外の古写真考 目録番号:6149 鎌倉鶴岡八幡宮(?)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6149 鎌倉鶴岡八幡宮(?)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6149 鎌倉鶴岡八幡宮(?)

■ 確認結果

目録番号:6149「鎌倉鶴岡八幡宮(?)」は、タイトルに(?)があるが、「鎌倉鶴岡八幡宮」に間違いない。手前の橋は「太鼓橋」である。今は通行禁止にして、左横に朱橋ができている。
同じような光景で写した古写真が、2枚目のとおり「日本名勝百景 Archive – 明治をゆく(古写真)」に「相州鶴岡八幡(鶴岡八幡宮)」として掲載されている。
現在の写真は、「建物・オブジェ写真素材026 鶴岡八幡宮の石橋(鎌倉)」と「神奈川県HP かながわの橋100選 太鼓橋(鎌倉市)」から。

長崎外の古写真考 目録番号:4631 渓谷(4) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4631 渓谷(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4631 渓谷(4)        関連作品 目録番号:4604 渓谷(1)

目録番号: 618 保津川(4)

■ 確認結果

渓谷の流れの中に立つかなり大きな岩である。目録番号:4631「渓谷(4)」は、撮影地域:未詳だが、同じ写真の目録番号: 618 では、「保津川(4)」となっている。
「保津川」とあったので、以前に画像を探したが、保津川でこのような岩は見当たらなかった。
前の記事は、 https://misakimichi.com/archives/2298

平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の221頁 甲斐之国に、同じような写真が「岩殿山横身延山」として掲載されている。同解説は次のとおり。

⑦ 撮影場所不明  原題は意味不明。

手がかりとなるが、解説のとおり原題は意味不明で、撮影場所不明。身延山ではないようだ。
ポケットブックス | アンティーク絵葉書専門店 群馬県商品一覧に「118449群馬 川原湯温泉 弁天橋」ほかがあり、中央の岩がやや似ている。地元で検証をお願いしたい。

長崎外の古写真考 目録番号:4625 屋敷門前の断髪の男性

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4625 屋敷門前の断髪の男性

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4625 屋敷門前の断髪の男性

■ 確認結果

目録番号:4625「屋敷門前の断髪の男性」は、撮影地域:未詳とあるが、現在地と同じ東京都霞ヶ関にあり、旧外務省として接収された「福岡藩黒田家上屋敷」である。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の122頁 武蔵国東京に、同じような写真が「旧外務省同玄関」として掲載されている。同解説は次のとおり。

① 表霞ヶ関旧外務省  外務省は明治3年(1870)12月11日、福岡藩黒田家上屋敷を接収して木挽町から霞ヶ関に移った。現在の外務省と同じ場所。

② 同玄関  これは①の写真に写る門を入った所からの撮影。1873年1月16日発行の『ファー・イースト』に、同じ時に撮影されたほぼ同じ写真が載っている。

長崎外の古写真考 目録番号:2428 峠より富士山を見る

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2428 峠より富士山を見る

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2428 峠より富士山を見る

■ 確認結果

目録番号:2428「峠より富士山を見る」は、撮影地域:未詳とあるが、「乙女峠」である。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の225頁 相模之国に同じ写真が「ヲトメ峠」として掲載されている。同解説は次のとおり。

④ 乙女峠  仙石原から御殿場へ抜ける乙女峠の風景。明治45年(1912)長尾峠越えの特2号国道が開削されるまでは、唯一の道筋であり、富士を望む絶景地として知られていた。

ウィキペディア フリー百科事典による説明は次のとおり。

乙女峠(おとめ とうげ)

静岡県御殿場市と神奈川県箱根町の境に位置する箱根外輪山にある、峠の名称である。標高1,105m。古来、富士山の眺望に優れた景勝地として知られ、富士見三峠(ふじみ みつとうげ)の一つに数えられる(他の二つは、御坂峠と薩埵峠)。