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長崎外の古写真考 目録番号:1496 寺(5)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1496 寺(5)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1496 寺(5)
〔画像解説〕
正面奥に本堂らしい建物が見えるが、道の左右は何であろうか。木組みの仮小屋のような物や石塔などがあり、雑然としている。父親と娘らしい人物が本堂の方へ歩いている。

■ 確認結果

目録番号:1496「寺(5)」は、撮影地域:未詳とあるが、東京都墨田区両国2丁目にある「両国回向院」である。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の157頁 本所区部に同じような写真が「向両国回向院」として掲載されている。同解説は次のとおり。

① 向両国回向院  国豊山無縁寺と号す。明暦3年(1657)の大火で没した10万7千余人を葬るために建立された寺。その後、安政2年(1855)の大震災での死者や、関東大震災(1923年)の死者など、無縁の人が葬られるようになった。

ウィキペディア フリー百科事典による説明は次のとおり。現在の写真は回向院HPから。

両国回向院

東京都墨田区両国二丁目にある寺。山号は諸宗山。正称は諸宗山(一時期、国豊山と称す)無縁寺回向院。寺院の山門には諸宗山回向院とある。本所(ほんじょ)回向院とも。
振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、ペットの墓も多数ある。

著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉など。 参拝客のために両国橋が架けられた。
1781年(天明元年)以降には、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、1909年(明治42年)旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。1936年(昭和11年)1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。
江戸三十三箇所観音霊場の第4番札所である。

長崎外の古写真考 目録番号:1486 海岸の洞窟

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1486 海岸の洞窟

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1486 海岸の洞窟
〔画像解説〕
遠景にアーチ型のトンネルが見える。しかしこれは自然の洞窟であるらしい。洞窟の入口に人が立っているが、非常に小さく見えるので、この洞窟がいかに大きいかが分かる。場所は特定できない。

■ 確認結果

目録番号:1486「海岸の洞窟」は、場所を特定できないとあるが、新潟県柏崎市鯨波の「鯨波海岸」である。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の261頁 越後之国に同じような写真が「鯨波之図」として掲載されている。同解説は次のとおり。

② 鯨波の図  米山の山麓が日本海に落ちこんで海蝕崖の奇景を呈し、景勝の地とされてきた。慶応4年(1868)、北国街道を下ってきた西軍と、桑名藩を主力とする東軍が最初に合戦した地である。

「御巡幸」とあるのは、明治天皇が明治11年8月30日〜11月9日、北陸・東海道を巡幸している(一覧307頁)。「内田九一」撮影かはかわからない。
鯨波海岸は、明治時代から「塩湯治」で賑わった。現在は「日本の渚百選」に選ばれた新潟県を代表する海水浴場となって、県内外から人が多い。
現在の写真は、新潟県公式観光情報サイト「にいがた観光ナビ」などから。

古写真の遠景に、アーチ型のトンネル?が見えるのは「鬼穴」と思われるが、状景がぴったり来ない。地元で検証をお願いしたい。
資料・写真は、「GPSウォーキング GPSwalking e旅歩き旅69日目 柏崎〜柿崎」による。
http://www.55walking.com/tabi/061101/index.html

長崎外の古写真考 目録番号:1483 寺(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1483 寺(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1483 寺(4)

目録番号:1462 成田山新勝寺(1)     関連作品 目録番号:1515 同(2) 
〔画像解説〕
成田不動の名で親しまれる真言宗智山派の大本山、成田山明王院神護新勝寺。門塀越しに見えるのは、安政5年(1858)に釈迦堂が造営されるまで本殿であった光明堂。元禄14年(1701)の建立。整理番号37-61と同一。

■ 確認結果

目録番号:1483「寺(4)」は、撮影地域:未詳となっているが、千葉県成田市の「成田山新勝寺」境内の「仁王門」を撮影している。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の234頁 下総之国に、目録番号:1462「成田山新勝寺(1)」及び目録番号:1483「寺(4)」と同じような写真が掲載されている。同解説は次のとおり。

④ 成田新勝寺  成田市成田にある真言宗智山派大本山。山号の成田山で知られ、成田不動と通称される。
⑤ 不動山門   中央右手の門は現在の仁王門(国指定の重要文化財)。その右手に水行場が見え、その前に堂庭が広がる様子は現在と大きく変わっていない。

現在の「仁王門」写真は、大本山成田山HPから。同説明は次のとおり。

仁王門(国指定重要文化財)
天保2年(1831)再建。左右に密迹(みっしゃく)金剛、那羅延(ならえん)金剛の2尊、裏仏には広目天、多聞天の2天が奉安されており、大提灯(800kg)は、寺門の守護の役目をはたしております。隣接する仁王池は、放生池として「不殺生」を教えています。

長崎外の古写真考 目録番号: 741 海岸の民家 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 741 海岸の民家 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 741 海岸の民家
〔画像解説〕
大きな石の連なる海岸。岸辺からすぐ山が立ち上がっているのであろう。山から引いた水が樋から勢いよく流出し、その下で男がその水を浴びている。単なる水浴びなのか、別に意味があるのか不明である。

目録番号:1473 伊豆熱川海岸
〔画像解説〕
詳細不明。東海道に隣接する海岸の風景と思われる。海に面したわずかな平地に、民家がへばりつくようにして軒を並べている。

■ 確認結果

目録番号: 741「海岸の民家」と、目録番号:1473「伊豆熱川海岸」は、同じ場所を撮影していると思われる。 目録番号:1473 は、場所詳細不明。タイトルを「伊豆熱川海岸」としている。東伊豆町「熱川海岸」は、伊豆半島南東端の下田近くとなる。

2作品とも海岸温泉の風景であろう。これは伊豆の「熱川温泉」ではなく、熱海の「伊豆山温泉」ではないだろうか。伊豆山温泉観光協会HPによる説明は下記のとおり。
なお、同じ場所と思われる古写真が、平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の、224頁東海道之部(掲載略)にある。
タイトルは「伊豆山権現湯滝」。「伊豆山神社走湯。伊豆山権現は明治元年伊豆山神社と改称された。その創建は古く祭神も時代により諸説がある」と解説している。
また、HP「古写真.jp: 幕末明治時代 日本古写真 販売」によると、同じ作品はタイトル「熱海」となっている。

おって、学習院大学史料館編「明治の記憶ー学習院大学所蔵写真」吉川弘文館2006年刊49〜57頁に、「4 明治11年(1878)明治天皇北陸・東海両道巡幸写真」として掲載されている。同解説は次のとおり。
21 熱海山之湯滝
静岡県熱海市の中央部にある熱海温泉は、奈良時代から万病に効く霊湯として知られ、近世には将軍家をはじめ、東海道を往来する諸大名や江戸の町人まで湯治に利用した。2枚の写真は、海岸の温泉宿から流出する筧の湯を浴びる男性を撮影したもので、明治天皇の巡幸路とは無関係だが、台紙の状況等から明治5年(1872)巡幸時に撮影したもので、明治8年に没した写真師内田九一の撮影と推定できる。

日本三大古泉「走り湯」あれこれ (伊豆山温泉観光協会HPから)

走湯山は湯の湧き出る場所があり、走り湯と名づけられていました。…
走り湯は源頼朝・北条政子をはじめ三代将軍や北条氏早雲などの領主たちが入浴した。1590年(天正18年)秀吉による小田原征伐によって伊豆山は焼け野原となり、その際は仮小屋草葺き屋根の粗末な風呂場であったという。

しかしながら江戸時代の大名、歌人、茶人利休、古田織部などもお参りの際に入浴した。江戸城構築の為に伊豆山から沢山の大石が船で運ばれ、多くの者が書く大名のもとで働いており、その為怪我人も絶えず、走り湯に入っての治療も盛んで、治療効果もずば抜けていたという。江戸時代は、この温泉に一般庶民が入る為には旅籠の湯、または海に近い湯の捨て湯である波打ち際で入るしかなかったと言われる。

そのため、ますます走り湯と伊豆山権現は有名になり、東北地方からも団体の「講」がお参りしていた。海岸にあった旅籠の風呂に入ってから宿の主人御師(祈祷師)に引き連られて、伊豆山権現までの900段近い石段(現在は873段)を昇った。
温泉に入るときは前出の「無垢霊場 大悲心水 沐浴罪滅 六根清浄」と必ず唱え、昭和20年頃までは共同浴場に入る際にも地元で信仰の篤い者は唱えながら頭から湯をかぶっていたという。第二次大戦後間もない頃には馬の為の「馬の湯」もあった。

走り湯の効果と三大古泉
走り湯はかつて一昼夜に7千石(1296t・毎分900l)の湯を噴き出し、源泉温度が70度ほどあったと言われるが、乱掘が続いた結果現在は毎分180l、70度ほどとなっており、伊豆大島の噴火などで温度が上昇することもある。
この温泉はもともと石膏泉で硫酸カルシウムやマグネシウムが多く、骨の病気、怪我傷口、膿をもった腫れ物、水虫、皮膚病などに効果があるといわれる。現在は塩分・苦味も強くなり、胃腸や神経痛、リウマチなどにも良いとされている。

走り湯の1300年以上の歴史の中、関東大震災のときのみ噴出が止まり、土地の者たちが鉄棒でつつきまた湯が出るようになった。その際に、物凄い音が地底から響いてきたので、皆一斉に逃げ出したという逸話がある。
日本三大古泉とは、熱海伊豆山走り湯温泉・四国松山道後温泉・神戸六甲山有馬温泉となっている。

長崎外の古写真考 目録番号: 606 寺の境内(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 606 寺の境内(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 606 寺の境内(1)
〔画像解説〕
未詳の寺の境内である。二層の立派な蔵の構えからみて東京芝の増上寺の寺の一部か。左隅には大灯篭の端がみえる。水盤社の構えも大きく、井戸の横の銅製と思われる飾り水盤も大きい。木の鳥はご愛敬である。

■ 確認結果

目録番号: 606「寺の境内(1)」は、東京芝の増上寺ではないようである。二層の立派な付属建物の構えから調べると、浅草の「東本願寺」が考えられる。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の159頁に掲載されている。山門から入って、本堂の右側手前に写っている二層の白い建物が造りが似ている。

寺の境内図や写真がなく、位置関係ではっきりしたことを言えないが、本堂前から振り返って左側の飾り水盤の方を撮影すると、二層の建物がこのような角度で写るのではないか。現在「浄華堂」となっている建物と思われる。
土木学会図書館|戦前絵葉書ライブラリ 10.風水害 明治43年8月「1.浅草東本願寺前の浸水」に、二層建物は大きく写っているから参照。
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/card/10_image_thum.html

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による寺の説明は次のとおり。現在の本堂写真は、須藤石材株式会社HPから。

東本願寺(台東区)
東本願寺(ひがしほんがんじ)は、東京都台東区西浅草一丁目にある浄土真宗の寺院である。正式名称は浄土真宗東本願寺派本山東本願寺。真宗大谷派から独立し結成された浄土真宗東本願寺派の本山である。境内は4250坪。本尊は阿弥陀如来。住職は、浄土真宗東本願寺派第26世法主の大谷光見(聞如)。…
1923年(大正12年)には、関東大震災により本堂等を焼失。現在の本堂は、1939年(昭和14年)に再建されたものである。

長崎の古写真考 「全国名所一覧」 高島石炭鉱・西浜町付近

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    長崎の幕末・明治期古写真考 「全国名所一覧」 高島石炭鉱・西浜町付近

平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二版発行から、気付いた作品を取り上げる。本写真集は、長崎市図書館の蔵書である。

72頁  高島石炭鉱
〔画像解説〕
長崎の港外、高島の高島鉱業所二子坑における石炭積み込み風景。後景は飛島。坑口から運び出される石炭を人夫が箱型のトロッコで桟橋まで押し、桟橋にあけられた穴の所で箱の底板を抜き、海上の石炭運搬船に石炭を落下させている。運搬人夫は和服を端折ってトロッコを押し、長崎港に石炭を運ぶ運搬船5艘のうち2艘は桟橋の下に船腹を入れている。当時の石炭荷役における船舶積み込み方法がわかる。手前の和船の名前は「栄力丸」と読める。桟橋には子供2人が座り、左側には炭鉱技師と思われる外国人がこれを見物している。高島炭坑は慶応4年(1868)、佐賀藩とグラバーが共同経営契約を結び開発した。明治6年(1873)に官営となり、同7年後藤象二郎の手に渡ったが、同14年三菱の岩崎弥太郎がこれを引き継いだ。この写真は同5年頃。上野彦馬が撮影したとされているが、同じ頃長崎の薛(せつ)信一も高島炭鉱のグラバーを撮影しており、撮影者は特定できない。

72頁  西浜町付近
〔画像解説〕
「小路屋町町屋の図」と題されているが、これに該当する麹屋町(旧名)は中島川の上部内陸で、原題は間違っている。同じ場所を撮影したこれより古い写真(ベアトの撮影と推測される)が「Views & Costumes of Japan by Stillfreid & Andersen,Yokohama」と題されたアルバム(長崎大学附属図書館所蔵)に収載されている。これは中島川河口の西浜町(旧名)付近、おそらく長久橋の上から上流の大橋を撮影したものである。後景の山は三ッ山と彦山。時代は明治初年で、撮影者は内田九一か。河口に近い長久橋の右背後に新地の唐人荷物蔵があり、左背後に旧表物役所(現、十八銀行本店)が見えたはずである。写真では右側が西浜町で左側が東築町(旧名)である。この写真から中島川河口の幅は明治初年にはまだ広くて深いことがわかる。川岸に多くの船が係留されている。ここ一帯は海産物問屋が多く、貿易で大いに発展した。

■ 確認結果

最初の「高島石炭鉱」の画像解説の中、高島鉱業所「二子坑」における石炭積み込み風景は、飛島が正面となる「北渓井坑」が正しい。「二子坑」は高島の南端、反対側の小島の坑である。
撮影者は内田九一と特定された。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2237
二子坑は、           https://misakimichi.com/archives/1620

次の「西浜町付近」の画像解説の中、この写真は「長久橋の上から上流の大橋を撮影したもの」でなく、「新大橋から上流の長久橋を撮影したもの」である。したがって、唐人荷物蔵や旧俵物役所(「表物」は誤り)の場所説明も変わってくる。
後景の山の「三ッ山と彦山」は、「三ッ山と健山」が正しい。撮影年代、撮影者は要調。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2159

長崎外の古写真考 目録番号: 742 岸辺の旅館

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 742 岸辺の旅館

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 742 岸辺の旅館
〔画像解説〕
ベアトの写真の中に平潟湾の風景を遠望したものがある。そこでは水辺に立つ茶屋が数軒見える。そのたたづまいは本写真と非常に類似している。同一場所と断言はできないが海辺の茶屋か旅館を写したものに違いない。

目録番号: 914 塔ノ沢温泉(3)
〔画像解説〕
“塔の沢温泉の環翠樓(左)と一の湯(右)の写真である。環翠樓は元湯とも言い、公武合体の時のヒロイン皇女和宮が病気療養で逗留し、32歳で薨去したのは、この環翠樓である。 “”The Far East “”に初載。”

目録番号:1484 塔ノ沢温泉(6)
〔画像解説〕
早川の岸辺か川中の岩の上から撮ったと思われる塔の沢温泉の写真で、橋は千歳橋。橋を渡って左手は元湯環水(翠が正)楼(鈴木楼)、右手は一の湯である。橋の上は、現在、国道一号線が走る。このアングルの写真は多い。

■ 確認結果

目録番号: 742「岸辺の旅館」は、目録番号: 914「塔ノ沢温泉(3)」と、建物が少し違っているが、ほとんど似ている。塔ノ沢温泉であろう。橋は「千歳橋」でなく、「玉ノ緒橋」が正しいようだ。
安藤広重「箱根七湯 塔ノ澤」は、塔ノ沢一の湯本館HPから。

長崎外の古写真考 目録番号: 656 函館海岸

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 656 函館海岸

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 656 函館海岸
〔画像解説〕
入り江になった波静かな海岸。函館山の東端、立待岬付近かと思われるが、正確な場所は不明(鞍掛岩?)。前景中央に人物が一人配され、その背後、ほとんど波のない海面に屹立する巨岩がいくつか。遠景には対岸の山の稜線が見える。

目録番号:2423 小樽の海岸風景
〔画像解説〕
『小樽市史』第1巻(昭和33(1958)年刊)所収の同写真には「立岩附近のアイヌ 明治七年頃」というキャプションが付けられている。

■ 確認結果

目録番号: 656「函館海岸」は、「入り江になった波静かな海岸。函館山の東端、立待岬付近かと思われるが、正確な場所は不明(鞍掛岩?)」と画像解説している。
次の目録番号:2423「小樽の海岸風景」のとおり、小樽市堺町の海岸にあった「立岩」だろう。

同じ写真が、平凡社「大日本全国名所一覧 −イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年初版第二刷発行の、283頁後志国に掲載されている。同解説は次のとおり。
石黒コレクションHPでは、「小樽堺町の奇石「立岩」前のアイヌ」撮影年:明治初年とある。

④ 後志国小樽郡堺町立岩  小樽の奇岩「立岩」は有幌の常夜灯近くの堺町にあった。この付近は北前船の好停泊地でもあったが、現在でも小樽観光の中心地になっている。明治10年ころ、撮影者不明。

「現在でも小樽観光の中心地になっている」との解説は、古写真の海岸や岩が現存しているということではない。現在は観光客が集まる五差路付近に変貌したという意味だろう。
小樽市HPには、次のとおりある。現在のメルヘン交差点角にある小樽海関所灯台(レプリカ)写真は、北海道・小樽、観光の街、坂の街から。

おたる坂まち散歩 第26話 赤坂(後編) 小樽海港博覧会
「前回紹介した住吉町の赤坂の下の海岸が埋め立てられたのは昭和6年ごろでした。…このときの埋め立て工事は、堺町にあった立岩から勝納川河口までの区域を市で埋め立てたもので、昭和3年1月に起工し、昭和7年8月に完了しました。総埋め立て面積が約3万坪という大規模なものでした。
明治42年に北防波堤が、大正10年に南防波堤が完成し、近代港湾となった小樽港は、小樽運河造成に続いて行われたこの埋め立て工事で、現在の臨海部の原型がほぼ形作られました。
現在、メルヘン交差点と呼ばれている観光客の集まる五差路付近は、この工事の前は、船が入る入り江で、入船澗(いりふねま)と呼ばれていたそうです。まさに入船という地名がふさわしい場所でした。
この入船澗が埋め立てられて土地ができたころ、札幌で北海道拓殖博覧会が開催されることになりました。…小樽市でも博覧会を開催しようという機運が商工会議所を中心に起こりました。…昭和6年新春には博覧会開催の計画が発表されました。名称は「小樽海港博覧会」。会場は現在のメルヘン交差点を中心とした埋め立て地約6700坪でした。
博覧会は同年7月11日から41日間開催されました。…」

長崎外の古写真考 目録番号: 232 薩?峠と富士山

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 232 薩?峠と富士山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 232 薩?峠と富士山
〔画像解説〕
駿河湾上に庵原山地と重なって雄大な姿を見せる富士。この構図は安藤広重の東海道五十三次の「由比の図」にそっくりである。峠は海岸からかなり離れた山中にあり、難所として知られていた。

■ 確認結果

目録番号: 232「薩?峠と富士山」の峠名は、「薩埵峠」(さつたとうげ)。
薩埵峠は、静岡県静岡市清水区にある峠である。東海道五十三次では由比宿と興津宿の間に位置する。ワードプロセッサーでは「埵」の字が変換できないため、「薩た峠」と表記する例が増えている。

長崎の古写真考 「幕末 写真の時代」 138:飽ノ浦より長崎港を望む

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  長崎の幕末・明治期古写真考 「幕末 写真の時代」 138:飽ノ浦より長崎港を望む

筑摩書房「幕末 写真の時代(第2版)」2010年3月発行から、気付いた作品を取り上げる。

138頁  作品 138:飽ノ浦より長崎港を望む
〔画像解説〕
F・ベアト撮影 慶応年間(1865〜68)後半〜明治初期 鶏卵紙
文久元年(1861)長崎の対岸飽ノ浦の地に幕府はオランダの指導援助をうけ長崎製鉄所を完成している。この写真はその製鉄所の上の丘より港の入口、戸町・女神方面を撮し、遠景の山は長崎半島である。港内の軍艦はイギリスのバロッサ号であるという。

■ 確認結果

作品 138「飽ノ浦より長崎港を望む」は、横浜開港資料館蔵。F・ベアト撮影なのに、長崎大学テータベースでは見当たらない。横浜開港資料館はこんな画像解説をしているのだろうか。しかも筑摩書房の2010年3月15日発行最新写真集である。

この写真は、南山手の高台から造成中の松ヶ枝居留地越しに長崎港の湾奥を撮影していると思われる。左下隅の建物を調べてもらいたい。
撮影場所は「(飽ノ浦の長崎)製鉄所の上の丘より港の入口、戸町・女神方面を撮し、遠景の山は長崎半島である」とはならない。反対の方向を解説している。
写真左の尾根は、稲佐山からの尾根で、大鳥崎・稲佐崎・鵬ヶ崎の海岸となる。奥に岩屋山からの尾根と中央に浦上水源池近くの山、右は金比羅山の稜線となろう。

2枚目は、同写真集の作品 39「長崎港全景」ロシエ撮影 万延元年(1860)。53頁に掲載されている⑤の部分。イギリス国立公文書館蔵。
「現在グラバー邸の丘の上の写真機を据え…撮影。…⑤は飽ノ浦から続いている丘で、鵬ヶ崎。その岬の先端は浦上川河口」と解説している。左半分が、作品 138と同じような景色であることがわかるだろう。

参考のため長崎大学データベースから画像が鮮明な、目録番号:5301「南山手より長崎港湾奥を望む」を掲げる。上野彦馬撮影。画像解説は次のとおり。
現在の写真は、グラバー園内の下の方の展望台から写した。

南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である。船の形から、幕末から明治初期の写真である。上野彦馬アルバムに貼られているものである。長崎湾の中央におびただしい数の艦船が結集している。多くの船はまだ機帆船で、近代的な艦船になっていない。このことから、写真の撮影時期がわかる。写真の左手は、飽ノ浦・稲佐地区で、左隅の白い建物の一群は、官営飽ノ浦製鉄所の建物である。その先に、稲佐地区の岬が見えている。右岸側は長崎市街地の沿岸部であり、浦五島町から大黒町である。市街地の北の端が西坂の丘である。右上の山は立山で、山裾の建物は、筑後町の寺院群である。写真正面の岬の突端に聖徳寺が見えている。そこから下、写真中央の海岸線が浦上新田である。その後、明治・大正・昭和と長崎湾の埋め立てが進み、長崎湾のこのような広大な姿を見ることはできない。幕末から明治初期の開港後の雄大な長崎港の姿を撮影した写真である。