長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1496 寺(5)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:1496 寺(5)
〔画像解説〕
正面奥に本堂らしい建物が見えるが、道の左右は何であろうか。木組みの仮小屋のような物や石塔などがあり、雑然としている。父親と娘らしい人物が本堂の方へ歩いている。
■ 確認結果
目録番号:1496「寺(5)」は、撮影地域:未詳とあるが、東京都墨田区両国2丁目にある「両国回向院」である。
平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二刷発行の157頁 本所区部に同じような写真が「向両国回向院」として掲載されている。同解説は次のとおり。
① 向両国回向院 国豊山無縁寺と号す。明暦3年(1657)の大火で没した10万7千余人を葬るために建立された寺。その後、安政2年(1855)の大震災での死者や、関東大震災(1923年)の死者など、無縁の人が葬られるようになった。
ウィキペディア フリー百科事典による説明は次のとおり。現在の写真は回向院HPから。
両国回向院
東京都墨田区両国二丁目にある寺。山号は諸宗山。正称は諸宗山(一時期、国豊山と称す)無縁寺回向院。寺院の山門には諸宗山回向院とある。本所(ほんじょ)回向院とも。
振袖火事(ふりそでかじ)と呼ばれる明暦の大火(1657年(明暦3年))の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まり。のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬する。あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、ペットの墓も多数ある。
著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉など。 参拝客のために両国橋が架けられた。
1781年(天明元年)以降には、境内で勧進相撲が興行された。これが今日の大相撲の起源となり、1909年(明治42年)旧両国国技館が建てられるに至った。国技館建設までの時代の相撲を指して「回向院相撲」と呼ぶこともある。1936年(昭和11年)1月には大日本相撲協会が物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を建立した。
江戸三十三箇所観音霊場の第4番札所である。