長崎の古写真考 「全国名所一覧」 高島石炭鉱・西浜町付近

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    長崎の幕末・明治期古写真考 「全国名所一覧」 高島石炭鉱・西浜町付近

平凡社「大日本全国名所一覧 イタリア公使秘蔵の明治写真帖」2004年11月 初版第二版発行から、気付いた作品を取り上げる。本写真集は、長崎市図書館の蔵書である。

72頁  高島石炭鉱
〔画像解説〕
長崎の港外、高島の高島鉱業所二子坑における石炭積み込み風景。後景は飛島。坑口から運び出される石炭を人夫が箱型のトロッコで桟橋まで押し、桟橋にあけられた穴の所で箱の底板を抜き、海上の石炭運搬船に石炭を落下させている。運搬人夫は和服を端折ってトロッコを押し、長崎港に石炭を運ぶ運搬船5艘のうち2艘は桟橋の下に船腹を入れている。当時の石炭荷役における船舶積み込み方法がわかる。手前の和船の名前は「栄力丸」と読める。桟橋には子供2人が座り、左側には炭鉱技師と思われる外国人がこれを見物している。高島炭坑は慶応4年(1868)、佐賀藩とグラバーが共同経営契約を結び開発した。明治6年(1873)に官営となり、同7年後藤象二郎の手に渡ったが、同14年三菱の岩崎弥太郎がこれを引き継いだ。この写真は同5年頃。上野彦馬が撮影したとされているが、同じ頃長崎の薛(せつ)信一も高島炭鉱のグラバーを撮影しており、撮影者は特定できない。

72頁  西浜町付近
〔画像解説〕
「小路屋町町屋の図」と題されているが、これに該当する麹屋町(旧名)は中島川の上部内陸で、原題は間違っている。同じ場所を撮影したこれより古い写真(ベアトの撮影と推測される)が「Views & Costumes of Japan by Stillfreid & Andersen,Yokohama」と題されたアルバム(長崎大学附属図書館所蔵)に収載されている。これは中島川河口の西浜町(旧名)付近、おそらく長久橋の上から上流の大橋を撮影したものである。後景の山は三ッ山と彦山。時代は明治初年で、撮影者は内田九一か。河口に近い長久橋の右背後に新地の唐人荷物蔵があり、左背後に旧表物役所(現、十八銀行本店)が見えたはずである。写真では右側が西浜町で左側が東築町(旧名)である。この写真から中島川河口の幅は明治初年にはまだ広くて深いことがわかる。川岸に多くの船が係留されている。ここ一帯は海産物問屋が多く、貿易で大いに発展した。

■ 確認結果

最初の「高島石炭鉱」の画像解説の中、高島鉱業所「二子坑」における石炭積み込み風景は、飛島が正面となる「北渓井坑」が正しい。「二子坑」は高島の南端、反対側の小島の坑である。
撮影者は内田九一と特定された。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2237
二子坑は、           https://misakimichi.com/archives/1620

次の「西浜町付近」の画像解説の中、この写真は「長久橋の上から上流の大橋を撮影したもの」でなく、「新大橋から上流の長久橋を撮影したもの」である。したがって、唐人荷物蔵や旧俵物役所(「表物」は誤り)の場所説明も変わってくる。
後景の山の「三ッ山と彦山」は、「三ッ山と健山」が正しい。撮影年代、撮影者は要調。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2159