月別アーカイブ: 2011年3月

長崎外の古写真考 目録番号: 745 大八車を引く男たちと富士山

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 745 大八車を引く男たちと富士山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 745 大八車を引く男たちと富士山

■ 確認結果

目録番号: 745「大八車を引く男たちと富士山」は、東海道「保土ヶ谷」あたりでないだろうか。
WEB「浮世絵」氏は、北斎・広重の浮世絵と東海道の古写真その5 保土ヶ谷 において、葛飾北斎「富嶽三十六景」より「東海道保土ヶ谷」に対比させ、「撮影データ不明 長崎大附属図書館提供」とし、この写真を掲載している。
「信濃坂」の次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2620
現在の保土ヶ谷から見た富士山は、HP「<<梅>>備忘録〜Random Walk」から。

長崎外の古写真考 目録番号: 598 屋形舟(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 598 屋形舟(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 598 屋形舟(2)
〔画像解説〕
整理番号12-28と同じ。川を航行する屋形船に多くの人が乗船している。船頭2人が櫓をこぎ、他の12人は客か。男女入り交じった客はそれぞれ思い思いの場所でポーズをとっているが、川遊びか渡し船の演出写真と思われる。

目録番号: 628 屋形舟(3)
〔画像解説〕
整理番号12-28と同じ。川を航行する屋形船に多くの人が乗船している。船頭2人が櫓をこぎ、他の12人は客か。男女入り交じった客はそれぞれ思い思いの場所でポーズをとっているが、川遊びか渡し船の演出写真と思われる。

■ 確認結果

目録番号: 598「屋形舟(2)」と、目録番号: 628「屋形舟(3)」は、同じ光景の写真。山谷堀が隅田川に流れ込む河口にあった有明楼(ゆうめいろう)前の今戸河岸で撮影。背景は向島で牛島神社や長命寺のある辺りだろう。

大正14年(1925)東京朝日新聞社発行『アサヒグラフ臨時増刊写真百年祭記念号』に同じ写真が、「内田九一氏と東京隅田川の舟遊」として載っている。
説明に「明治七年頃の撮影で舟中欄干にもたるるは内田九一氏 平田健一氏所蔵」となっている。内田九一の弟子か、「臼井秀三郎」の撮影とされる。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2230

今回、目録番号: 598「屋形舟(2)」と、目録番号: 628「屋形舟(3)」の2作品を取り上げたのは、カラーが鮮明。一見、同じような写真に見えるが、比べてみると「背景の富士山が消えた」「着物の色が変った」「別物がある」など、違う点がある。
比較写真で主なものに青囲み線をした。カラーの技術上のことだろうが、写真がこんなに変る見本として見てもらいたい。

長崎外の古写真考 目録番号: 438 柏原からの富士山(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 438 柏原からの富士山(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 438 柏原からの富士山(2)
〔画像解説〕
柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。河口付近の低湿地帯であろうか、中央の近景に帆船、遠景に富士を配している。撮影者が船上から撮ったのかどうか、気になるアングルである。

目録番号: 499 柏原からの富士山(3)
〔画像解説〕
柏原は駿河湾に注ぐ勝間田川河口左岸に位置する。河口付近の低湿地帯であろうか、左手前に帆船、中央に富士を配している。撮影者は船上から撮ったのであろうか?セイラム・ピーボディー博物館のモース・コレクションの中に同じネガから現像したと思われる写真がある。『モースの見た日本』(小学館)

目録番号:4205 柏原からの富士山(5)
〔画像解説〕
富士市柏原新田付近の浮島沼(沼川の上流)から北方の山頂に雪の積もった富士山を遠望したもの。沼の水は沼川を通り、田子ノ浦に注ぐ。浮島沼の周辺は浮島ケ原の湿地帯で、川舟で移動するため、水路網が発達していた。帆をあげた川舟には男性2人が乗る。

■ 確認結果

目録番号: 438「柏原からの富士山(2)」と、目録番号: 499「柏原からの富士山(3)」は、ほぼ同じ場所から撮影している。カメラ目線は高く、船上からの撮影ではない。現在の富士市柏原新田付近、浮島沼(沼川の上流)沿いの東海道から、北方の沼と富士山を遠望している。
1枚目の目録番号: 438「柏原からの富士山(2)」と、3枚目の目録番号:4205「柏原からの富士山(5)」は同じ写真。

2枚目の目録番号: 499「柏原からの富士山(3)」についても、掲載を略したが、目録番号:2245「東海道沼川からの富士山(1)」、目録番号:2914「田子ノ浦沼川からの富士山(15)」、目録番号:2960「田子ノ浦沼川からの富士山(16)」が同写真としてある。
いずれもタイトル、撮影者など調整が必要。

なお、目録番号: 499「柏原からの富士山(3)」の画像解説にある「セイラム・ピーボディー博物館のモース・コレクションの中に同じネガから現像したと思われる写真がある。『モースの見た日本』(小学館)」460頁の掲載写真は最後のとおり。
「460 和船 Cargo vessel(model) ca.1880」とあり、撮影年代は「1880年頃」となっている。

長崎の古写真考 目録番号:6243 下関戦争のメタレン・クルイス号の乗組員 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6243 下関戦争のメタレン・クルイス号の
乗組員 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6243 下関戦争のメタレン・クルイス号の乗組員

目録番号:6244 下関戦争のジャンビ号の乗組員

■ 確認結果

目録番号:6243「下関戦争のメタレン・クルイス号の乗組員」、目録番号:6244「下関戦争のジャンビ号の乗組員」は、朝日新聞長崎地域版2010年7月24日【長崎 今昔】に掲載があった。
” asahi.com マイタウン長崎 ”による記事は次のとおり。
1864年5月長崎に寄港した際、アルベルト・ボードインが、両号の士官らを出島で撮影したらしい。〔撮影者:A.F.ボードイン〕、〔撮影地域:長崎〕となろう。

【長崎 今昔】  海舟と会談の艦長か    2010年07月24日
オランダ海軍のメタレン・クルイス号(左)とドゥジャンビ号の士官ら(右)=長崎大学付属図書館提供

《オランダ海軍士官の記念写真》
オランダ海軍の軍艦メタレン・クルイス号(左)とドゥジャンビ号(右)の乗組員の軍服正装での記念写真です。下関戦争(新暦1864年9月)が始まる4カ月前、準備のため長崎に寄港した際に撮影しています。ボードイン・コレクションに入っています。光を散らすため背後に白い屏風が立てられています。撮影者はアルベルト・ボードイン、場所は出島と思われます。

記録によれば艦の大きさは各2100トン、乗組員数は240人でしたので、写されているのは士官だけです。袖章や襟章からもそれが分かります。左の写真で袖口が丸に4本線なのはオランダ海軍大佐のドゥマン艦長です。手にするカップは戦功の証し、巻かれた旗は艦旗でしょうか。右の写真前列でステッキを持ち、袖口が丸に3本線の海軍中佐はリース艦長とみられます。右端の日本人女性は給仕のようです。

このとき出島に住んでいた長崎領事のアルベルトは、4月18日の日記に「2週間後にポルスブルック総領事を乗せたジャンビ号が入港する予定です。またメデュサ号と交代するメタレン・クルイス号も来港します。士官一同の宿舎や夕食の手配は結構できるでしょう」と書いています。

幕府の軍艦奉行をしていた勝海舟はこのとき坂本龍馬を伴い、外国の軍艦が長州を攻撃しないように交渉するため長崎に滞在していました。海舟は5月1日の日記に「立山にて、蘭将、並びにコンシュル、ポルスビュルクへ逢接(おうせつ)。下関戦争の事を止(と)む」(『海舟日記』)と書いています。

つまり横浜からドゥジャンビ号に乗って長崎に着いたばかりのオランダ総領事ポルスブルックは、すぐに海舟との会談に臨んだということです。そのとき同席した「蘭将」が、ドゥマン艦長だったと思われます。
(長崎大学環境科学部教授 姫野順一)

長崎の古写真考 目録番号:3416 母子と乳母

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3416 母子と乳母

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3416 母子と乳母
〔画像解説〕
左の乳母(めのと)らしい女性は上半身裸。幕末に来日した外国人が、日本の女性が人前で平気で裸になることに驚いているが、明治になっても変わらないようだ。日本の風俗をスタジオで撮影したお土産写真か。二つ並んだこの写真は、ステレオスコープで立体画像を見るためのステレオ写真である。

■ 確認結果

目録番号:3416「母子と乳母」は、朝日新聞長崎地域版2010年9月11日【長崎 今昔】に掲載があった。” asahi.com マイタウン長崎 ”による記事は次のとおり。
1860年春に長崎を訪問したスイス人写真家ピエール・ロシエが出島内部で撮影した。〔撮影者:ピエール・ロシエ〕、〔撮影地域:長崎〕、〔年代:1860年〕となる。

【長崎 今昔】  開港期の生活を描く  2010年09月11日
オランダ商人カール・J・テキストルの妻子と乳母=長崎大学付属図書館提供

《オランダ商人妻子と乳母》
出島のオランダ商人、カール・J・テキストルの日本人妻「マサナギ・ナオ」親子と、乳母のステレオ写真です。ナオが抱いているのは、テキストルとの間に1859年に生まれた長女カロリーナ・マリアです。60年春に長崎を訪問したスイス人写真家ピエール・ロシエが出島内部で撮影し、ロンドンのネグレッティ・アンド・ザンブラ社から開国直後の「日本の風景」として販売された1枚です。シリーズには「出島の娘」と題されたナオの単身写真もあります。

テキストルは06年にドイツのボッケンハイムで生まれました。43〜45年に出島商館で補助官を務めた後、一時帰国。57年に再来日し、出島商館で2等補助官として商館長ドンケル・クルチウスの秘書を務めました。ナオとは58年ごろに結婚したようです。59年に退職し、同僚のポルスブルックとともにテキストル商会を設立しています。オランダの古写真研究家ヘルマン・ムースハルトの著書「日本における医師と商人」はテキストルの子どもたちとして、マリアと61年に生まれたソフィア、62年に生まれたカール・ジュリウス・ジュニアの3人の写真を紹介しています。

59年7月にジャワから長崎にやって来たポルスブルックの日記には、出島の湾曲した海側、弁務官の大きな家の並びにある6世帯用アパートに、テキストルらが住んでいたと書かれています。
開港期の日本人女性とオランダ商人との交流、出島の生活の一側面を描き出す写真として貴重です。
(長崎大学環境科学部教授 姫野順一)

JR東海道本線下の円明寺ねじれトンネル  京都府乙訓郡大山崎町字円明寺

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JR東海道本線下の円明寺ねじれトンネル  京都府乙訓郡大山崎町字円明寺

京都市在住の近代測量史を研究されている上西先生から、3月29日送られてきた次のメールと画像。京都府大山崎町のJR東海道本線下「円明寺トンネル」(鉄道煉瓦橋梁)。
古いレンガ造りだが、レンガの積み方がねじれていて、トンネルが曲がっているようなのが珍しい。トンネル内は水路を兼用した道路と思われる。

通称「ねじりまんぽ」は、京都では琵琶湖疏水のインクライン跨道橋が有名だが、円明寺橋梁の他に、京都、大阪に少なくとも4基はあるみたいと、石橋・煉瓦橋梁研究の宮崎県にえもんさんの話し。「ねじりまんぽ」と円明寺架道橋は、次のHPを参照。
http://kitahata55.co.jp/untiku/kengaku/neziri-manbo/ooyamazaki-enmyouzi/enmyouzi.htm

関東東北震災のあと標石探索は自粛しております。たまたま先日、JR山崎近傍(過日お送りした桂川鉄橋よりずっと大阪より)で東海道本線の下をくぐっている古いレンガ造りのトンネルを見ました。レンガの積み方がねじれているように見えます。同類のトンネルは琵琶湖疏水にもありますが、鉄道でははじめて見ました。参考になれば幸いです。     上西 勝也

長崎の古写真考 目録番号:1093 鯉のぼり(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1093 鯉のぼり(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1093 鯉のぼり(1)
〔画像解説〕
町中の鯉のぼり。4本の高い棒に取り付けられた4組の鯉のぼりは、風があまりないのか少し垂れ下がっている。町並みは二階建ての家が続き、手前の家の前には大八車や積み上げられた商品らしい荷物が見える。

目録番号:3805 鯉幟の揚がる町並

■ 確認結果

目録番号:1093「鯉のぼり(1)」は、次の目録番号:3805「鯉幟の揚がる町並」と同じ写真で、〔撮影地:長崎〕である。タイトルの調整が必要。関連作品で出てこない。
HP「古写真.jp: 幕末明治時代 日本古写真 販売」でも「鯉幟 長崎」となっている。

長崎外の古写真考 目録番号:1617 田舎の子供たち

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1617 田舎の子供たち

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1617 田舎の子供たち
〔画像解説〕
写真中にCOUNTRY CHILDRENとある。場所は特定できないが、背景などから見て庭園に遠足で来た子供たちであろう。中央に男の先生らしい人が見える。大きな子から小さな子まで多学年にわたっている。子供たちの服装、表情など見る上で貴重な写真である。

■ 確認結果

目録番号:1617「田舎の子供たち」は、「庭園に遠足で来た子供たちであろう」か。灯籠があるから神社の水舎だろう。前かけをほとんど付けた子供たち。ある作業の休憩風景のように見える。
撮影者「日下部金兵衛」(1841−1932)は、甲府の出身。イギリス人カメラマン、F・ベアトの助手として修業。明治14年(1881)頃独立し、横浜に金幣写真館をひらいた。

山梨県南巨摩郡富士川町(旧鰍沢町)教育委員会が、明治時代?の同じような子供たちを写した貴重な写真を所蔵している。山梨県HPの「山梨県埋蔵文化財センター」の項に、次のとおり記事と写真がある。 http://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/101-200/0188.html

遺跡トピックス№0188 鰍沢河岸跡[かじかざわかしあと]

鰍沢河岸跡は、富士川町(旧鰍沢町)明神町〜横町地区にある遺跡で、国道52号の改築工事や護岸工事に伴い、平成8年から19年度まで発掘調査が行われました。鰍沢河岸は、江戸時代初めに開かれた富士川水運の船着き場で、青柳河岸[あおやぎかし](富士川町)・黒沢河岸[くろさわかし](市川三郷町)とともに甲州三河岸と呼ばれました。
江戸時代には年貢米や塩の運搬、明治時代以降は様々な生活物資や人々の輸送を行い、昭和3(1928)年の富士身延鉄道(現在のJR身延線)全線開通により舟運の役割を終えるまで、甲府盆地の経済・文化の玄関口としての役割を担いました。発掘調査によって、富士川水運に関わる様々な施設や河岸を中心として発達した町並が発見されました。

河岸には欠かせない荷物置き場
平成8年度には、年貢米などを保管した御米蔵[おこめぐら]や検査場などの施設があったとされる御蔵台[おくらだい]周辺の発掘調査が行われ、建物跡や道路跡・杭列などが発見されました。また、御米蔵の前面にあたる場所から、カマボコ状の高まりが並ぶ施設が発見されました。
発掘当初は、この連続する高まりが何に利用されたのかわかりませんでしたが、鰍沢町教育委員会が所蔵する写真に、この高まりの上に荷物が置いてある様子が写っていたことから、荷物を置くための荷積み台[につみだい]であることがわかりました。荷物置き場は、荷物がたくさん集まる河岸には欠かせない施設です。写真では、たくさんの荷物が荷積み台に置かれ、鰍沢河岸が栄えていた様子がうかがえます。…

以上が「鰍沢町教育委員会が所蔵する写真」によって判明した、当時の富士川水運「鰍沢河岸船着き場の荷物置き場」。子供たちが荷物運搬に従事していた様子でないだろうか。
類推するとこの写真も、日下部金兵衛撮影と思われる。鰍沢河岸近くには、「妙法寺神社」がある。目録番号:1617「田舎の子供たち」の水舎はここと考えられるが、地元に検証をお願いしたい。

長崎外の古写真考 目録番号: 298 湯本茶屋付近の箱根旧街道(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 298 湯本茶屋付近の箱根旧街道(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 298 湯本茶屋付近の箱根旧街道(1)
〔画像解説〕
湯本茶屋をやや下ったところから見た箱根旧街道の石畳の様子である。当時の写真は重いガラス板と電話ボックスのような暗室を数人の人夫で担いで行く必要があったので、茶店で休憩の際に撮影されたものが多い。

目録番号: 631 湯本茶屋付近の箱根旧街道(2)
〔画像解説〕
湯本茶屋をやや下ったところから見た箱根旧街道の石畳の様子である。遠くの山は双子山である。現在、写真の松は残っていない。電柱が見え、湯本の電化された明治25年以降と判断される。

目録番号:2111 箱根旧街道畑宿付近(1)
〔画像解説〕
湯本茶屋付近からの双子山と箱根旧街道の眺望。明治6年(1873)に敷設された東京・長崎間の電信線が見えず、それ以前の撮影であろう。石畳は文久年間(1861-64)に大改修されたもの。ここは休憩場所であったらしく、職人風の男二人が休憩している姿が見える。この写真と似た構図のものは極めて多い。

目録番号:4742 箱根旧街道畑宿付近(2)
〔画像解説〕
湯本茶屋付近からの双子山と箱根旧街道の眺望。明治6年(1873)に敷設された東京・長崎間の電信線が見え、それ以降の撮影と分る。丸石の石畳は文久年間(1861-64)に大改修されたもの。ここは休憩場所で、やせ馬を背負った男と職人風の男の休憩姿が見える。この写真と似た構図のものは大変多い。

目録番号:4259 箱根畑       (掲載略)

目録番号:4414 湯本からのニ子山  (掲載略)

■ 確認結果

1枚目の目録番号: 298「湯本茶屋付近の箱根旧街道(1)」は、撮影年代が違うが、3枚目の目録番号:2111「箱根旧街道畑宿付近(1)」と構図が似る。
2枚目の目録番号: 631「湯本茶屋付近の箱根旧街道(2)」と、4枚目の目録番号:4742「箱根旧街道畑宿付近(2)」は、同じ写真と思われる。

ここには掲載を略したが、目録番号:4259「箱根畑」、目録番号:4414「湯本からのニ子山」の作品もあるので次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2527
いずれも、タイトル、撮影者、撮影場所、画像解説の調整が必要。

人面石? 長崎市風頭町の風頭公園

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人面石?  長崎市風頭町の風頭公園

長崎市風頭町の風頭公園。小川ハタ店の方の公園入口から入った坂道の、右側の石積みを見て行く。人面のような石が多くある。かわいいひよこのような石もあった。
この日の本来の目的は、「晧境目」石探し。https://misakimichi.com/archives/2640