長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6234 外国人の江戸散策
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:6234 外国人の江戸散策
目録番号:6215 長応寺のオランダ総領事館
■ 確認結果
目録番号:6234「外国人の江戸散策」に写されている寺は、次の目録番号:6215「長応寺のオランダ総領事館」のとおり、東京高輪にありオランダ総領事館であった「長応寺」でないだろうか。
外国人2人の姿(拡大)が似ている。ベアトが同行したスイスの使節団長アンベール一行やオランダ領事ポルスブルックが考えられる。
芝増上寺のような感じもするが、双方の寺とも建物を比べる写真が見当たらない。
神奈川発コミュニティーサイト「カナロコ」に、次のような記事がある。
最後の写真は、横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 −幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊の145頁にある「187.夜警の役人達」。同じ場所と構図で写している。役人のみ写し提灯を持っているが、同時に撮影された作品ではないだろうか。
【港都の黎明・17】ベアトが写真撮影、使節団の江戸散策
2011年3月3日
スイスの使節団長アンベールの著作「幕末日本図絵」には、14章から19章にかけて、江戸についての長い記述がある。これを読むと、宿舎の長応寺に滞在しながら、ゆっくり江戸市中を散策したように受け取れる。しかし、ブレンワルドの日記によると、実際にはそうでなかったようだ。
使節団が長応寺に入ったのは1863年5月28日だが、時あたかも生麦事件の解決をめぐるイギリスと幕府の交渉が難航しており、世情は騒然としていた。
江戸は危険だとして、日本側は横浜へ戻ることを要求し、使節団は夜になると船で宿泊するような生活をしばらく続けたのち、6月8日に横浜に退去した。6月24日になって幕府が賠償金の支払いに応じたので、最悪の事態は避けられたが、使節団との交渉は横浜で行われることになった。
使節団が再び江戸を訪れたのは翌1864年2月5日、条約の調印のためだった。一行が江戸市中を散策したのはこの日と翌6日の2日間だけで、6日の夜にはもう横浜に戻っている。
「幕末日本図絵」によると、長応寺には写真家ベアトの「小さな仕事場」があり、使節団に同行して、江戸市内を撮影して回った。現存するベアトの江戸の写真のいくつかは「幕末日本図絵」の記述と符合するので、この時に撮影されたものと考えられる。
三田の綱坂の写真もその一つで、「幕末日本図絵」にも版画に直して収録されている。ただし、ベアトもアンベールもこれを高輪の薩摩藩下屋敷の写真だと誤解している。写真を整理した際に別の写真と入れ替わってしまったようだ。
幕末の条約のもとでは私人が自由に江戸を散策することは認められていなかったから、ベアトは外国の代表と一緒でなければ撮影できなかったのだが、その代表がスイスの使節団だけだったとすると、2日間でそんなに多くの写真を撮れただろうか? ブレンワルドの日記がこの疑問に答える手がかりを与えてくれる。
1863年8月17日の日記によると、オランダ領事ポルスブルックがベアトとともに江戸へ向かったという。ベアトの江戸の写真の中には、ポルスブルックに同行して撮影したものもあるのではないか。
長応寺はオランダの代表が江戸滞在中に宿舎として利用していたので、長応寺の中のベアトの仕事場はその際にも役立ったことだろう。
ブレンワルドの日記には他にもベアトが登場する。その一つは1863年10月16日、ブレンワルドがベアトのもとを訪ねると、14日に横浜で何者かに殺害されたフランス軍士官、「可哀相(かわいそう)なカミュ」の遺体の写真があった、というもの。11月9日には、ベアトに肖像写真を撮ってもらっている。 (2011年3月2日掲載)
慶應3年(1867)12月の薩摩屋敷焼き打ち事件のときに西応寺が全焼したため、高輪伊皿子の「長応寺」が次のオランダ領事館となった。長応寺はその後衰微、明治37年北海道天塩郡幌延町字上幌延へ移転している。長応寺跡は現在、秀和高輪レジデンスというマンションにかわっていて、当時の面影はまったくない。
現在の北海道「長応寺」の写真は、HP「諏訪大社と諏訪神社」上幌延諏訪神社跡(長応寺)から。別のHP「長応寺」寺の歴史には、東京高輪の「長応寺」が大寺院であったことを、次のとおり記している。
芳荷山 長応寺 所在地 北海道天塩郡幌延町字上幌延174番地
三州西郡上郷城主2代鵜殿藤太郎長将の寄進により文明5年(1473)創建され鵜殿家累代の菩提寺となった。後、永禄5年(1562)今川方であった上卿城は落城し、その時寺も類焼、時の住持6世日翁はこれを江戸の日比谷へ移し引寺して文禄元年(1592)再建されたが、その後三度移転して芝・高名輸に落着したのは寛永12年(1635)であった。
今川家没落の後、家康に仕えた鵜殿家では藤助長忠の養女おとくが家康の側室となり、関東国替の時、江戸へ下向して甥の日翁と再会、深く帰依して外護の念厚く七堂伽藍を寄進したので俄に堂坊12院を有する大寺院となり、やがて日蓮門下勝劣派の触頭となった。
降って弘化2年1月近火によって類焼。後24世日守の苦辛で庫裡が再建されたが維新以来武家勢の失墜とともに多くの檀信徒を失い極度に衰微してしまった。
明治30年北海道国有未開地処分法力制定され、大規模な開拓地の無償付与制度が確立、これを契機に北海道の拓殖事業は盛んとなり、移民の数も急激に増加しつつあったが、それにともない仏教各派の北海道に於ける布教活動も著しいものがあり、明治31年練行院日聡また長応寺29世を継ぐやこれを北海道に移し開拓地に於ける法華宗布教の中心たらしめようと決意。芝、長応寺敷地売却企及び寄附金をもって翌32年より天塩郡ウブシ原野に法華宗農場を開設、国有未開地243万3.498坪の貸付を受け、新潟、富山、宮城の三県より95戸、更に17戸を補充して農民を移住し入植開拓にあたったが、寒冷地塁闘の辛苦は名状し難いものであった。開墾営農事業は苦難重畳してひどく難渋したが挫折することなく進め一応同41年墾了した。
明治37年長応寺の移転出願は許可され天塩村に地所を得て仮建築し、ひとまず長応寺を移し(現・天塩・妙法寺)、同41年農場内に2万1千坪の土地を割いて堂宇・庫裡等170余坪の新築に着手1大正2年漸く竣工をみたがその発願して企図以来実に15年の歳月を費やして漸く芝・長応寺の移転が実現したわけである。斯様にして長応寺は建立され北海道に於ける法華宗布教の根拠が確立したばかりか、そのためめ手段として開設された法華宗農場の墾開によって、開拓開教の目的は一応遂げられたと言ってよい。
その後、日聡は隠退したが不幸にも大正8年火災のため全焼という思いがけない結果から日聡再び長応寺住職及び法華宗農場主任に復帰した。しかし、農場の負債整理や堂舎再建費用捻出に腐心してやむなく農場を処分してしまった(大正12年)、農場開設以来25年目のことである。苦楽をともにして来た日聡を始め小作人一同にとっても感慨ひとしおに深いものがあった。後、檀信徒の外護により大正11年再建され現在に至っている。