月別アーカイブ: 2011年3月

風頭山の「晧境目」石と烽火山「亀石」下の石  長崎市風頭町ほか

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風頭山の「晧境目」石と烽火山「亀石」下の石  長崎市風頭町ほか

ブログ「歩いて自然を満喫しょう!」宮さんが、本年1月発見した石2つ。画像は宮さん撮影ほか。
風頭公園のは、山頂から龍馬像の方へ手すりの坂段を下る。中間ほど右方5mのところの平たい自然石面に「晧境目」?と大きく刻んでいる。寺町「晧台寺」の古い境界石と思われる。

烽火山のは、山頂すぐ近く「亀石」の手前の石に、何か文字を刻んでいるという。苔をきれいにするとたぶん文字が出てくると思うのですが…のメール。「亀石」の正体がはっきりするかも知れない。近々、確認に行きたい。
烽火山「亀石」は、次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/15733402.html

長崎外の古写真考 目録番号:1472 富士川からの富士山(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1472 富士川からの富士山(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1472 富士川からの富士山(4)
〔画像解説〕
詳細は不明だが、富士山との距離から考えて、手前の川は大井川かと思われる。中州を挟んで二筋に分かれた幅広い川越しに、富士山の姿がとらえられている。

目録番号:4098 富士川からの富士山(6)
〔画像解説〕
富士川町岩淵(いわぶち)の富士川右岸の河原から北東方の富士山を遠望したもの。手前は岩淵の渡船場、対岸の森は富士市の松岡水神社(まつおかすいじんしゃ)である。水神社から岩淵に架橋されるが、写真には写っていない。富士川は急流のため、何度も流失し橋のない時期かもしれない。左手の山が岩本山(いわもとやま)で、対岸には松並木が続く。

■ 確認結果

目録番号:1472「富士川からの富士山(4)」は、タイトルを「富士川」としながら、「大井川かと思われる」と画像解説している。
次の目録番号:4098「富士川からの富士山(6)」のとおり、渡船場があった現在の富士市岩淵「富士川」の光景である。

滑石4丁目から岩屋山・滑石峠へ  平成23年3月

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滑石4丁目から岩屋山・滑石峠へ  平成23年3月

平成23年3月27日(日)晴。滑石4丁目から岩屋山(標高475.2m)・滑石峠へ。参加9人。みさき道歩会の例会。次回は4月3日(日)、きょう開通式をした伊王島大橋ウォーキング。
滑石集会所前バス停9時40分発ー滑石4丁目ー岩屋山12時着(昼食)ー園田トンネル上ー滑石峠ー白髪バス停15時25分着(徒歩距離 約10km)

岩屋山へ滑石4丁目から5年ぶりくらいに登る。バス停先の「道路改修記念碑」がある橋のところが、今回の山道入口。橋のあたりは昔の式見手熊道。長崎滑石郷土史誌にある「右志きみ 左てぐま」と刻んだ幕末頃の標石を、まず多以良宅へ見学に行ったが、古家と広かった庭や畑は、新興住宅地に様変わり。標石の所在がわからなくなっていた。
標石の写真は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/75

橋の山道入口に戻り、これから北栄町の尾根を登る。個人の持ち山のようで、登山ルートとならず荒れていた。1時間ほどかかり、北栄団地最奥の光雲寺上に出て、滑石4丁目の谷間から上がってきた一般登山道と出合った。
岩屋山頂にちょうど12時着昼食。子供連れも多く、相変わらずの岩屋山の賑わいであった。

午後は12時40分山頂発。人出を避けて園田トンネル、滑石峠の方へ岩屋山の裏側縦走。岩場が多いルートで、アップダウンがかなりある。途中、式見ダム、神楽島、鳴鼓岳、大村湾などの展望岩が2個所あった。
柏原霊園や園田トンネルの上を通りながら、滑石峠まではまだ距離は長く、私はほうほうの体で、やっと滑石トンネル出口の白髭バス停へ着いた。岩屋山頂から2時間30分以上を要する。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/27508794.html 

長崎外の古写真考 目録番号: 205 富士川からの富士山(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 205 富士川からの富士山(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 205 富士川からの富士山(2)
〔画像解説〕
日本三大急流の1つとして知られる富士川は、古来より幾筋も分流し、旅人を悩ませたようである。中州の向こう側には木橋が見えるが(要確認)、より下流のこのあたりでも渡船の必要があったのであろうか?

目録番号:4098 富士川からの富士山(6)
〔画像解説〕
富士川町岩淵(いわぶち)の富士川右岸の河原から北東方の富士山を遠望したもの。手前は岩淵の渡船場、対岸の森は富士市の松岡水神社(まつおかすいじんしゃ)である。水神社から岩淵に架橋されるが、写真には写っていない。富士川は急流のため、何度も流失し橋のない時期かもしれない。左手の山が岩本山(いわもとやま)で、対岸には松並木が続く。

■ 確認結果

目録番号: 205「富士川からの富士山(2)」は、次の目録番号:4098「富士川からの富士山(6)」のとおり、東海道の幕府領だった現富士市岩淵(いわぶち)渡船場の風景。木橋は「富士川橋」という。
富士川舟運については、次のHPに記事があり参照。画像解説は少し誤解がある説明となっている。木橋は富士川をヨコ渡りしているが、岩淵渡船場は、基本的に富士川をタテ流し、内陸と海を結び米や塩などの物流をしていたようで、木橋の完成とはあまり関係がないように思われる。

HP「開運 旧東海道 あちこち寄り道・散歩道」  富士川の渡し5 渡しの終焉

1871(明治4)年、太政官令により宿駅制が廃止となります。この法律は宿場制や駅馬制が廃止となっただけではなく、関所や渡船の制度も廃止となりました。また同時に渡船場には早急に仮橋を架けるようにとの太政官令も発令されました。
しかし、富士川は川幅も広く、資金もなかったため、すぐには仮橋は架けられませんでした。富士川に仮橋が架かったのは1878(明治11)年のことでした。その間も東海道は幹線ですから、渡し舟は続けられています。つまり明治4年の太政官令により、富士川の渡しは官営から民営になったということでした。画像は「富士川を渡る歴史」展の資料の中にある絵葉書です。こちらも同じく、富士川を渡る舟です。

1878年、富士川に仮橋が架けられると富士川の渡しが終わった訳ではありません。実はこの仮橋は冬の間だけ架けられたのでした。見て分かる通り、かなり安易な橋です。ですので増水の多い季節は取り壊されてしまい、その間は従来通り渡し舟で富士川を渡ったのでした。
この仮橋も実は渡橋料がかかりました。ひと1人1銭、牛馬、荷馬、人力車3銭8厘でした。これに対して渡船はひと1人5厘、牛馬5銭、荷馬3銭8厘でした。

大正初期の富士川仮橋です。明治の橋に比べるとかなり立派な造りになってきています。その理由はこのあたりに所有者がいたかどうかは分かりませんが、恐らく自動車の出現だと思います。
富士川橋の鉄橋工事です。1924(大正13)年、国道整備計画の一貫として、とうとう富士川にも鉄橋が架けられました。渡橋料も無料となり、富士川の渡しもついに廃止となりました。

HP「国土交通省甲府河川国道事務所」 ヨコ渡し・渡船場 地域の人々の掛け橋

富士川舟運は、甲斐・信州の内陸と駿河を結ぶことによって、遠く江戸や瀬戸内にまで連絡する社会・経済・文化の大動脈であった。これに対して、富士川にはもう一つの舟が航行していた。
対岸に渡るための「ヨコ渡し」と言われる舟の航行である。橋を架ける技術や経済力の未熟な時代であり、橋の役目を担っていたもので、後世には「渡船」と呼ばれた。富士川舟運が岩渕河岸から甲州三河岸までの縦方向を連絡するのに対し、ヨコ渡しは川の横方向を連絡するのでこの名がつけられた。ちなみに、富士川舟運は「タテ流し」とも言われた。ヨコ渡しの渡船場は富士川とその支川を含めるとかなりの数に上ったと思われるが、現在知り得る数は概ね50箇所である。
このヨコ渡しに用いられた舟の構造は、タテ流しの舟のように大量に運搬するものと違い、その量に見合った大きさのものが各渡船場で造られていた。昭和40年頃までその一部は残り、地域住民の足として活躍していた。

長崎外の古写真考 目録番号: 193 根本中町 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 193 根本中町 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 193 根本中町
〔画像解説〕
現在の箱根湯本正源寺をやや下った橘旅館付近から中町方面の集落を眺めたところ。箱根旧街道と松並木が見える。今は、道路拡張で切られ、松はない。現存するガラス原板から宮の下の写真館嶋周吉氏の撮影と判明した。

目録番号:4466 柏原からの富士山(6)
〔画像解説〕
富士市柏原新田付近の浮島沼から北方の山頂にわずかに雪の積もった富士山を遠望したもの。浮島沼の水は沼川を通って田子ノ浦に流れ出る。沼の水面には逆さ富士と2艘の川舟が映る。それぞれの川舟には立った男性と座った男性が1人づつ乗り、背後には浮き島が点在する。撮影者は水野半兵衛である。

■ 確認結果

目録番号: 193「根本中町」、及び目録番号:4466「柏原からの富士山(6)」は、画像解説からそれぞれ〔撮影者:嶋周吉〕、〔撮影者:水野半兵衛〕と修正できないのだろうか。

長崎外の古写真考 目録番号:6234 外国人の江戸散策

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6234 外国人の江戸散策

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6234 外国人の江戸散策

目録番号:6215 長応寺のオランダ総領事館

■ 確認結果

目録番号:6234「外国人の江戸散策」に写されている寺は、次の目録番号:6215「長応寺のオランダ総領事館」のとおり、東京高輪にありオランダ総領事館であった「長応寺」でないだろうか。
外国人2人の姿(拡大)が似ている。ベアトが同行したスイスの使節団長アンベール一行やオランダ領事ポルスブルックが考えられる。

芝増上寺のような感じもするが、双方の寺とも建物を比べる写真が見当たらない。
神奈川発コミュニティーサイト「カナロコ」に、次のような記事がある。
最後の写真は、横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 −幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊の145頁にある「187.夜警の役人達」。同じ場所と構図で写している。役人のみ写し提灯を持っているが、同時に撮影された作品ではないだろうか。

【港都の黎明・17】ベアトが写真撮影、使節団の江戸散策
2011年3月3日

スイスの使節団長アンベールの著作「幕末日本図絵」には、14章から19章にかけて、江戸についての長い記述がある。これを読むと、宿舎の長応寺に滞在しながら、ゆっくり江戸市中を散策したように受け取れる。しかし、ブレンワルドの日記によると、実際にはそうでなかったようだ。
使節団が長応寺に入ったのは1863年5月28日だが、時あたかも生麦事件の解決をめぐるイギリスと幕府の交渉が難航しており、世情は騒然としていた。

江戸は危険だとして、日本側は横浜へ戻ることを要求し、使節団は夜になると船で宿泊するような生活をしばらく続けたのち、6月8日に横浜に退去した。6月24日になって幕府が賠償金の支払いに応じたので、最悪の事態は避けられたが、使節団との交渉は横浜で行われることになった。
使節団が再び江戸を訪れたのは翌1864年2月5日、条約の調印のためだった。一行が江戸市中を散策したのはこの日と翌6日の2日間だけで、6日の夜にはもう横浜に戻っている。

「幕末日本図絵」によると、長応寺には写真家ベアトの「小さな仕事場」があり、使節団に同行して、江戸市内を撮影して回った。現存するベアトの江戸の写真のいくつかは「幕末日本図絵」の記述と符合するので、この時に撮影されたものと考えられる。
三田の綱坂の写真もその一つで、「幕末日本図絵」にも版画に直して収録されている。ただし、ベアトもアンベールもこれを高輪の薩摩藩下屋敷の写真だと誤解している。写真を整理した際に別の写真と入れ替わってしまったようだ。

幕末の条約のもとでは私人が自由に江戸を散策することは認められていなかったから、ベアトは外国の代表と一緒でなければ撮影できなかったのだが、その代表がスイスの使節団だけだったとすると、2日間でそんなに多くの写真を撮れただろうか? ブレンワルドの日記がこの疑問に答える手がかりを与えてくれる。
1863年8月17日の日記によると、オランダ領事ポルスブルックがベアトとともに江戸へ向かったという。ベアトの江戸の写真の中には、ポルスブルックに同行して撮影したものもあるのではないか。

長応寺はオランダの代表が江戸滞在中に宿舎として利用していたので、長応寺の中のベアトの仕事場はその際にも役立ったことだろう。
ブレンワルドの日記には他にもベアトが登場する。その一つは1863年10月16日、ブレンワルドがベアトのもとを訪ねると、14日に横浜で何者かに殺害されたフランス軍士官、「可哀相(かわいそう)なカミュ」の遺体の写真があった、というもの。11月9日には、ベアトに肖像写真を撮ってもらっている。   (2011年3月2日掲載)

慶應3年(1867)12月の薩摩屋敷焼き打ち事件のときに西応寺が全焼したため、高輪伊皿子の「長応寺」が次のオランダ領事館となった。長応寺はその後衰微、明治37年北海道天塩郡幌延町字上幌延へ移転している。長応寺跡は現在、秀和高輪レジデンスというマンションにかわっていて、当時の面影はまったくない。
現在の北海道「長応寺」の写真は、HP「諏訪大社と諏訪神社」上幌延諏訪神社跡(長応寺)から。別のHP「長応寺」寺の歴史には、東京高輪の「長応寺」が大寺院であったことを、次のとおり記している。

芳荷山 長応寺      所在地 北海道天塩郡幌延町字上幌延174番地

三州西郡上郷城主2代鵜殿藤太郎長将の寄進により文明5年(1473)創建され鵜殿家累代の菩提寺となった。後、永禄5年(1562)今川方であった上卿城は落城し、その時寺も類焼、時の住持6世日翁はこれを江戸の日比谷へ移し引寺して文禄元年(1592)再建されたが、その後三度移転して芝・高名輸に落着したのは寛永12年(1635)であった。
今川家没落の後、家康に仕えた鵜殿家では藤助長忠の養女おとくが家康の側室となり、関東国替の時、江戸へ下向して甥の日翁と再会、深く帰依して外護の念厚く七堂伽藍を寄進したので俄に堂坊12院を有する大寺院となり、やがて日蓮門下勝劣派の触頭となった。
降って弘化2年1月近火によって類焼。後24世日守の苦辛で庫裡が再建されたが維新以来武家勢の失墜とともに多くの檀信徒を失い極度に衰微してしまった。

明治30年北海道国有未開地処分法力制定され、大規模な開拓地の無償付与制度が確立、これを契機に北海道の拓殖事業は盛んとなり、移民の数も急激に増加しつつあったが、それにともない仏教各派の北海道に於ける布教活動も著しいものがあり、明治31年練行院日聡また長応寺29世を継ぐやこれを北海道に移し開拓地に於ける法華宗布教の中心たらしめようと決意。芝、長応寺敷地売却企及び寄附金をもって翌32年より天塩郡ウブシ原野に法華宗農場を開設、国有未開地243万3.498坪の貸付を受け、新潟、富山、宮城の三県より95戸、更に17戸を補充して農民を移住し入植開拓にあたったが、寒冷地塁闘の辛苦は名状し難いものであった。開墾営農事業は苦難重畳してひどく難渋したが挫折することなく進め一応同41年墾了した。

明治37年長応寺の移転出願は許可され天塩村に地所を得て仮建築し、ひとまず長応寺を移し(現・天塩・妙法寺)、同41年農場内に2万1千坪の土地を割いて堂宇・庫裡等170余坪の新築に着手1大正2年漸く竣工をみたがその発願して企図以来実に15年の歳月を費やして漸く芝・長応寺の移転が実現したわけである。斯様にして長応寺は建立され北海道に於ける法華宗布教の根拠が確立したばかりか、そのためめ手段として開設された法華宗農場の墾開によって、開拓開教の目的は一応遂げられたと言ってよい。
その後、日聡は隠退したが不幸にも大正8年火災のため全焼という思いがけない結果から日聡再び長応寺住職及び法華宗農場主任に復帰した。しかし、農場の負債整理や堂舎再建費用捻出に腐心してやむなく農場を処分してしまった(大正12年)、農場開設以来25年目のことである。苦楽をともにして来た日聡を始め小作人一同にとっても感慨ひとしおに深いものがあった。後、檀信徒の外護により大正11年再建され現在に至っている。

長崎外の古写真考 目録番号:5053 箱根の雪景色

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5053 箱根の雪景色

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5053 箱根の雪景色
〔画像解説〕
箱根は回数は多くないが、2月から3月に掛けて、かなりの大雪が降ることがある。また、箱根では標高により雪の量が明瞭に異なり、海抜300mと500m辺りに雪線があり、それ以下では殆ど積もらない。従って湯本や塔ノ沢ではなく、大平台よりも海抜が高い地域と推定されるが、場所は現段階では特定できない。

目録番号:388 大谷川合満ガ淵(2)
〔画像解説〕
日光含満ガ淵は大谷川の激流が男体山の溶岩を浸蝕して生じた淵である。 この地に百地蔵がある。 展望所の斜め上に地蔵が写っている。 渦巻く激流の名所である。

■ 確認結果

目録番号:5053「箱根の雪景色」は、次の目録番号:388「大谷川合満ガ淵(2)」と同じ場所の雪景色と思われる。
堂は日光含満ガ淵の不動明王の対岸に建っていた「霊庇閣」(れいひかく)という護摩堂。
現在の復元された堂の写真は、HP「日光を漂ふ」 2010.03.22 憾満ヶ淵 から。同関連記事
2004.12.12 含満ヶ淵 による説明は次のとおり。

含満ヶ淵 

この場所は、女峰山の噴火による溶岩が作り出した奇勝である。天海の跡を継いで第五十四世座主になった公海(晃海)が大谷川左岸の絶壁の上に不動明王の像を建て、その下の岩壁に「憾満(かんまん)」の梵字を養源院住職山順に書かせ刻ませた。この「憾満」というのは不動明王の真言・ナウマクサマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソハタヤ・ウンタラタ・カンマンの最後の句を漢字にしたもの。だから、この地を「憾満ヶ淵」、転じて「含満ヶ淵」とも言う。

公海は不動明王の対岸に霊庇閣(れいひかく)という護摩堂を建て、山内の僧侶に護摩供養をせしめた。明治三十五年九月の洪水のため、この大谷川流域は多大な被害があり、このあたりの人工施設は壊滅的な状態であったそうだ。今は霊庇閣のあった場所に護摩壇の跡が残るだけである。
霊庇閣は、昭和四十六年(1971)に復元されたもの。右画像の岩壁に、「憾満」の梵字が刻まれているはずなのだがよく判らない。もしかしたら、わずかに見える凹凸がそうなのかも知れない。そして、その岩上にはかつて不動明王があった。

長崎外の古写真考 目録番号:1344 中禅寺湖近くの橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1344 中禅寺湖近くの橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1344 中禅寺湖近くの橋

目録番号:4279 猿 橋
〔画像解説〕
山梨県大月市猿橋町に所在する桂川に架けられた猿橋である。猿橋は「木曽の桟(かけはし)」「周防の錦帯橋」とともに日本三奇橋と呼ばれ、昭和7年(1932)に国名勝に指定された。猿橋は橋脚を用いない「ひじ木けた式橋」である。写真は桂川の上流部から猿橋を望み撮影されたものであり、橋の上に多数の人物が写っているが、撮影時期等は不明である。

■ 確認結果

目録番号:1344「中禅寺湖近くの橋」は、次の目録番号:4279「猿橋」のとおり、山梨県大月市猿橋町の桂川に架かる「猿橋」であろう。橋や岩面が違うのは、撮影年代が違い、桂川の上流からと下流からと撮影された写真のためではないだろうか。
HP「木の構造物」による説明と写真は、次のとおり。
「猿橋」とするには、はっきりした確信がまだない。調査は継続中。「中禅寺湖近く」と何かキャプションにあるのだろうか。

猿 橋
<概要> 山梨県大月市猿橋町の桂川にかかる「猿橋」(さるはし)は、山口県の錦帯橋(きんたいきょう)、徳島県のかずら橋と並ぶ、日本三大奇橋※の一つであり、昭和7年に名勝指定を受けている、その構造形式は、「肘(ひじ)木けた式」と呼ばれ、橋脚がなく、両岸より張出された四層の桔木を支点とし、上部構造を支えているものである。
猿橋の歴史は古く、初期の建築年代は600年頃百済の国の志羅呼(しらこ)が、猿がつながって対岸に渡る姿を見て、これを造ったという伝説があるが、詳細は不明である。文献としては、延宝4年(1676年)には橋の架け替えがあったと記述されている。
現在の橋は、昭和59年に総工費3億8千万円をかけ完成したもので、将来にわたるメンテナンスのことから、H鋼を木材で囲った桔木が用いられている。

※日本三大奇橋は上記の他に、栃木県の神橋が入る場合もある。
また、現存しないものでは、長野県の木曽の桟橋、富山県の愛本刎(はね)橋(ともに猿橋と同様の構造形式と考えられる)があり、これを含めて言う場合もある。

長崎外の古写真考 目録番号:5750 学校の遠景

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5750 学校の遠景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5750 学校の遠景

目録番号: 74 三井寺から望む琵琶湖(1)
〔画像解説〕
大津市園城寺。閼伽井という霊水があり、この「御井」から三井寺と呼ばれた。長等山の山腹の景勝の地に位置し、特に観音堂からの眺めは有名。左手に入母屋の亭があり、中央に台が置かれている。下方に琵琶湖と沿岸の平野を眺望する。

■ 確認結果

目録番号:5750「学校の遠景」は、滋賀県大津市の風景と思われる。地図のとおり三井寺近く現在、大津市歴史博物館がある後ろ長等山から、御陵町「滋賀県立大津商業高等学校」の前身だった学校を写し、琵琶湖対岸の山は、野洲市の三上山(標高432m)連山であろう。

大通りは三井寺の大門通りではなく、次の御陵町の通り。対岸の山は、目録番号: 74「三井寺から望む琵琶湖(1)」と、撮影場所がかなり北となるため、山の姿のみ対照のこと。現在の写真は、HP「Flickr:sintaronakaoka’s Photostream」から。
神戸や横浜では、対面にこのような山や島は見えないと思われる。

滋賀県商業学校は明治19年、当初、大津に県立商業学校として開校したが、明治34年に八幡町(近江八幡市)に移転したため、大津実業補習学校が大津尋常高等小学校(現:中央小学校)に併設され創立した。古写真はこの時代のものか?、また同校沿革によると、「昭和34年9月 現在地に移転」とある。
戦後の学制改革により「滋賀県立大津商業高等学校」と名称変更。2005年に創立100周年を迎えており、県内でも歴史のある公立高校である。
学校の沿革・古写真については、HP「大津市歴史博物館」大津の古写真、HP「滋賀ガイド」ヴォーリズ(アメリカ人の建築家)来日100周年記念特集〔後編〕も参照。

出水のツルの「北帰行」  長崎市平山台上

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出水のツルの「北帰行」  長崎市平山台上

出水のツルの「北帰行」。2月22日に川原上空を飛んでいたと聞き、翌日、宮崎ダム上の「鶴山」まで登り、ツルの渡りを写しに行ったが、その日は空振りだった。

きょう12時頃、自宅近くでひどく鳴き声が聞こえる。1000羽はいろうツルの大群が、平山台上のアンテナ塔付近の上空を行ったり来たりし、後ろからも続々と来る。
晴天だが北西風が少し強い。風の様子見か、後続待ちか、15分くらい旋回していて、北へ向かった。