長崎の珍しい標石」カテゴリーアーカイブ

大谷町の高台にある「筑州建山」標石の現況  長崎市大谷町 ( 長崎県 )

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大谷町の高台にある「筑州建山」標石の現況  長崎市大谷町

この項は本ブログ次を参照。 大谷町にある「筑州建山」の標石は筑前屋敷の境界柱
https://misakimichi.com/archives/5436
大谷町の現地を、8月23日に再び訪ねた。「筑州建山」の標石は4本残っていたが、カトリック教会手前となる大谷町4−12の空き宅地にあった1本?は、隣家の続き庭となっていた。家人に聞くと自分は標石は知らず、庭工事業者が埋めたのだろうとの話で、所在不明となっていた。

詳しい資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道−医学生関寛斎日記の推定ルート 第3集」平成19年4月刊の97〜107頁に載せている。
筑前藩の長崎における領境石となるようだから、HP「筑前国境石散歩」氏にも知らせたい。
最後の写真は、水の浦公園近くにある筑前屋敷跡の海岸部石垣や井戸の跡。

元・梅香崎の唐船繋場の繋石  長崎市玉園町 ( 長崎県 )

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元・梅香崎の唐船繋場の繋石  長崎市玉園町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。長崎歴史文化博物館から玉園町の上の一方通行通りに入る。聖福寺山門前まで進むと、車道対面側に旧迎陽亭はある。
梅香崎天満神社境内の燈籠の棹石は、後ろの2枚。

元・梅香崎の唐船繋場の繋石 うめがさき
長崎市 (玉園町)杉山宅・旧迎陽亭 舟繋石 弘化3(1846) WEB(みさき道人)門柱に転用/西道仙(1836-1913)による「唐船維覧石」の書が刻字 長崎市立博物館「長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」(平成16)には、宝暦12に梅香崎に唐船繋場が造られた際、石垣とともに設置されたとされる、との記載がある。しかし、清水寺や梅香崎天満神社境内の燈籠の棹石に転用されているとの記載には疑問があるし、『長崎周辺“石・岩・陰陽石”』(平成
14)では、長崎駅近くの波止場に唐船継纜用の石だとされており、由来は定かでない 3 B

本ブログ次を参照。 梅香崎唐船繋場の繋石とはどんなものか
https://misakimichi.com/archives/182

西道仙が揮毫した門柱 最初の建立場所は「祝捷山」 ( 長崎県 )

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西道仙が揮毫した門柱 最初の建立場所は「祝捷山」

長崎新聞2014年12月1日文化欄の記事は、次のとおり(写真1 記事写しはズーム拡大)。

「明治期に長崎で活躍した医師、西道仙(1836〜1913年)が揮毫(きごう)した文字がある石柱2本の、不明だった最初の建立場所が、道仙が命名した「祝捷山(しゅくしょうざん)」(同市上小島5丁目)の入り口だったことが、長崎史談会原田博二会長らの調べで分かった。
2本の石柱は昨年5月、史談会会員が同市大山町の小道脇で発見。道仙の号「賜琴石斎(しきんせきさい)」の文字があったため、同市内に住むひ孫家族の手で今年10月、道仙ゆかりの地である琴の形をした石「琴石」(同市鳴滝1丁目)のそばに移設された。…」という。

この項は、本ブログ次を参照。

田上の徳三寺近くに明治44年「祝捷山登口」碑が見つかる  2007年6月の記事
https://misakimichi.com/archives/5435
…この石らしい記録は、昭和13年「長崎市史地誌編名勝舊蹟部」祝捷山の項で見つけた。
「西北なる小島、田上方面よりの入口には各石柱を対立せしめ小島口には日耀千旗影、山呼萬歳声と刻し、田上口には武威揚海外、義気貫天中と刻す、西道仙の題する所である」。
碑の背面に刻字はないようだが、別のところの石とは考えられない。旧茂木街道沿いから祝捷山へは両方の登り口があった。

「祝捷山」とは、日露戦争の戦勝を記念し西道仙が命名。田中直三郎が整備した。山頂の自然石にも大正3年山名が彫られ、現在運動公園となって隅に移設(写真7〜9)されている。「祝捷山登口」碑はこれより年代が古い。西道仙書の田上口の1本「武威揚海外」も、この横に移設現存(写真8)して立っていた。

土井首から鹿の岳(仮称)、大山へ  2014年5月の記事
https://misakimichi.com/archives/3951
…大山教会へ出た。あとは大山入口のバス停へ下る。
途中、大山の集落で駐車場車止めに使用している石柱2本。よく見ると「西道仙」書である。長崎史談会原田先生の話では、長崎市中の有名なところから移している石柱で、歴史的価値が高いらしい。

以上は関連の記事だった。うっかりしていた私は、やっと今、思い出した。
大山集落の石柱2本(写真4〜6)は、ずっと以前から存在は知っていたが、深く調べていなかった。集落豪邸の石と思っていた。「日耀千旗影」「山呼萬歳声」との刻みは、田上の徳三寺近くに明治44年「祝捷山登口」碑(写真2〜3)が見つかった2007年当時、この石らしい記録は、昭和13年「長崎市史地誌編名勝舊蹟部」祝捷山の項で見つけていた。

大山集落の石柱2本が、東山手の学校の門柱だったという説は、「祝捷山」が戦後、海星学園の所有地であったところから出ているようであるが、現在は道仙ゆかりの家族の手で、鳴滝の「琴石」のそばに今年10月すでに移設されている。
今回の長崎新聞記事でわからないのは、取材で徳三寺境内「祝捷山登口」碑にも案内されながらこの碑を紹介していない。そして、いったん鳴滝の「琴石」そばにすでに移設された2本の道仙石柱を、もともとあった小島側の「祝捷山入口」に戻す計画がないのだろうか。
徳三寺の碑(左面に「道仙松在此山中」?と刻む。道仙の字のようにも見える)とも3本は、入口という場所の確認で変わってくるが、小島側に並立も考えられる。

私たちが今更、いろいろ要望しても始まらないが、これまでの文献調査と対処は、いささか手落ちがあったように思う。ところで「長崎市史」の記録。西道仙書の田上口あと1本の石柱「義気貫天中」は、以前として所在不明のまま。どこにあるのだろうか。

地元の昔を知る方から記憶のコメントが今、次のようにあっているので追記する。
「うろ覚えですが、昭和40年半ば頃、合戦場の小島口(南高側)フェンスを入って右手に二本、田上口(徳三寺側)入り口を入ってグランド右隅に二本立っていたと思います。この頃は祝捷山の記念石(大石)も平地にあり、上り放題、上に祠なんぞ建っていませんでした。(と思います)
長崎市史地誌編記載の門柱は、明治38年の公園化と同時に敷地内に設置されたもので高さも2.4mあり、登山口標石は後々整備した折のもののようですね。」

「徳三寺境」の標石  長崎市田上2丁目

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「徳三寺境」の標石  長崎市田上2丁目

田上2丁目の徳三寺右側から祝捷山公園へ坂段を登ると、上の公園のフェンス角にある。公園駐車場からもすぐ行ける。一部欠けているが、「徳三寺境」と刻む古い標石。
2007年2月には、徳三寺からのこの登り口近くで、昭和13年「長崎市史」に記している明治
44年「祝捷山登口」碑が見つかっているので、本ブログ次の記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/5435

長崎市立博物館編「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年発行の86頁は、次のとおり。
141 観音寺跡 (所在地:田上2丁目9・10番 徳三寺)
黄檗宗。元禄年間(1688〜1704)隠元の法孫天洲が開創。維新後廃寺となったが、杉山徳三郎によって徳三寺(臨済宗・大悲山)が明治29年に開創された。島原藩主高力攝津守忠房は大浦に別荘を構えていたが、同寺の楊柳泉で点てた茶を好んだといわれ、忠房が楊柳泉と命名したという。

名寺の境界標石  長崎市晧台寺・春徳寺・聖福寺・悟真寺

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名寺の境界標石  長崎市晧台寺・春徳寺・聖福寺・悟真寺

長崎市の古い名寺の墓地など寺域境界標石。どこにあるのか、自分で探して見てもらいたい。

晧 台 寺  長崎市寺町     「晧境目」 「晧臺寺墓地境界標」
春 徳 寺  長崎市夫婦川町  「春徳寺」
聖 福 寺  長崎市玉園町    「従是西聖福寺境内」
悟 真 寺  長崎市曙町     「福建境地界」(旧唐人屋敷内天后堂塀にもあり)

寺町墓地の「従是南大音寺境内」標石  長崎市高平町

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寺町墓地の「従是南大音寺境内」標石  長崎市高平町

2012年2月16日に宮さんが見つけた標石。私も以前見てたはずだが、当時はありふれた標石としたのだろう。鍛冶屋町側の寺町通りから大音寺と晧台寺の間の「幣振坂」に入り、寺町墓地(一般的な呼称)の中、「楠本イネ顕彰碑」を過ぎ、急な石段をかなり登る。
風頭町の住宅近くまで来ると、道脇が広場となり休石が2つ置いてある。街路灯との間に苔むした古い石柱が残る。町界町名で示すと、どうも「高平町24街区」あたり。

「従是南大音寺境内」と刻む。横23cm、縦12cm、高さ52cmほど。寺町墓地内の大音寺境内境界石である。別の方へ下り、寺を通って山門まで出たが、ほかでは見あたらなかった。
古い記事だが次は、長崎新聞コラム「水や空」から。長崎の墓地散歩はかなり運動となる。

寺町墓地散歩  (2006年1月30日付)

寒がゆるんだある日の昼下がり、長崎市の繁華街に近い寺町界隈(かいわい)を歩いている途中、ふと「幣振り坂」を上る気になった。長年長崎に暮らし存在は知りながら一度も歩いたことがなかったからだ▲延命寺と長照寺の間(注・こちらも別の「幣振坂」である)にある急な坂道。その昔、郷民がこの坂から石を下ろそうとしたが、あまりの重さで動かず、幣を振り音頭を取ってようやく下ろすことができたとの言い伝えからその名が付いた▲ついでに白状すれば、あまりに急で長い坂なので屁(へ)をふりふり上ったからつけられた名前と随分長く思っていた。市内にはほかにもこの名の坂があるという。上っていくと急斜面に墓地が広がっている▲何げなく歩いていると「楠本イネの墓」の案内板があった。ご存じシーボルトの娘で西洋医学教育を受けた日本の女医の草分け。手を合わせると波乱に満ちた生涯を思い起こし、身近に感じられた▲また幕末の砲術家で知られる高島秋帆ら高島家墓地と遭遇。荒木宗太郎の墓もあった。朱印船貿易商荒木の妻はアンナン(ベトナム)国王親せきの娘で、当時市民からアニオーさんと呼ばれ親しまれていた▲散歩を続けると歴代唐通事や豪商の墓も見つけ、図らずも歴史上の人物と出会った気になった。上り詰めると風頭町。振り返れば長崎港が眼下にあった。下りる際石段を数えたら400段を超えた。きのうからランタンフェスティバルが始まった。歩くと長崎の街は奥が深い。(貞)

宮さんの記事は次を参照。風頭山頂広場の自然石標石「晧台寺境」に続き、お手柄だった。
http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/archive/2012/02/16

長崎奉行所立山役所の境石「従是御立山」  長崎市立山1丁目

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長崎奉行所立山役所の境石「従是御立山」  長崎市立山1丁目

長崎市立山1丁目の諏訪公園内。大クスノキ内の急カーブ市道を「六角堂」の広場まで登る。市道左手カーブミラーの石垣下を覗くと、「従是御立山」と刻まれた中くらいの自然石が見える。刻面がこちらを向いている。

長崎webマガジン”ナガジン” 発見!長崎の歩き方「お諏訪の杜の庭園伝説」(2009年12月)による説明は、次のとおり。  http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0912/index.html
地元お住いの井村啓造さんの話。六角堂一帯の“石ヶ原”も、東照宮に対する畏敬の念を現すために造られた庭園だったのではないかと推測している。

…井村さん「子どもながらに、ウチはよその家と何か違うな、と思ってましたね。」
聞くところ、かつては料亭を営んでいたのだそうだ。こんな高台の、当時ではとても不便そうな場所に「料亭」? そんな、子どもの頃の井村さんの遊び場所は、もちろん、お諏訪さんの境内だった。「六角堂」が整備されたのは、今から約30年前。井村さんの子ども時代のこの辺りには、木々がうっそうと茂り、巨大な自然石がゴロゴロ転がった、格好の遊び場。

井村さん「ここ石の上を、ぴょんぴょん跳んで遊んでいたんですよ。」
また、木々に覆われたこの辺り一帯が探検にうってつけの場所だった。仲間達と駆け廻る中、それほど気にも止めずに見ていた石に刻まれた文字。当時は、「…立山」。”立山”の文字しか見えなかった。

井村さん「それが、大人になってから気づいたんですよ。この石に刻まれた字が、“従是御立山”、つまり、ここからが長崎奉行所立山役所の敷地だという境界を示す石だということをね。」

茂った草で下の方は見えづらいが、草をよけると確かにその石には刻まれていた。位置的に何の疑うべきところもない。大きさからいっても、どこからか運んできたものとは思えない。立山役所の時代からこの場所に鎮座してきた石なのだ。そして、周囲には他にも大きな石が散在している。

井村さん「すると、この石を境にして、立山役所と諏訪神社と、くぎられていたってことですよね。当然、この道はまだなく、このような自然石がもっとあったんです。」…

時津街道の滑石にある道案内標石その後

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時津街道の滑石にある道案内標石その後

時津街道の滑石にある道案内標石については、2007年7月記事で、次の2本を載せていた。
https://misakimichi.com/archives/87

平宗橋際の標石  18cm角、高さ60cm。
「+西浦上村字平宗」「明治三十三年九月」「長與→」「→長崎」

滑石入口の標石  18cm角、高さ40cm。埋設のため( )は推定
「+(西浦上村字横道)」「明治三(十三年九月)」「←長(崎) 時(津)→」「三重」

平宗橋際の標石は、現在もそのまま同地にあるが、道の尾駅までの市道は拡幅され付け変わっている。平宗橋の道は、車はもう通らないようになった。
滑石入口の標石も、滑石公民館前付近が現在、交通渋滞緩和のため「滑石町(横道工区)街路改築工事」が、広範囲に施工されている。
きのう通りかかった。滑石入口の標石が、工事でどうなるか気になり、確認してきた。歩道部分の街路工事にもかからず健在だった。

この標石は、滑石公民館前から右手の三叉路の方へ少し行くと、理容大石駐車場角にある。長崎新聞道ノ尾・滑石販売センターが対面。ここが昔の時津街道や明治県道の重要な分岐点だった。それを示す貴重な道標である。
以前は下部が埋設されていたが、いつの間にか台石の上に立ち、地上に姿を見せたものに建て変わっていた。4面の刻字がほぼわかった。刻面は次のとおり。
最初の写真が、以前に下部が埋設し3面も判読できなかったときの標石の姿。

滑石入口の標石  18cm角、高さ50cm。。( )部分は欠落のため推定。
「+ 西浦上村字(横道)」「明治三十三年九月」「←長(崎) 時(津)→」「←三重 瀬戸」

明治8年建「萩原峠越え」の古道標  長崎市長浦町

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明治8年建「萩原峠越え」の古道標  長崎市長浦町

琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年発行の148〜151頁は次のとおり。大子から手崎との間の往還道「萩原峠越え」について記している。掲載写真の「萩原峠越えの標識」(旧県道手崎川の上流1km地点)と「籠立石」(手崎への山中道大子側にある)を探しにきのう行った。琴海文化センターに場所はあらかじめ聞いた。

第九節 往 還 道

最寄り家との間には畠道、田の畦道道路あり、山間を分け入る近道もあったろう。この中にあって集落と集落を結ぶ主要幹線道路を往還道と呼んだ。現在の国道に匹敵する江戸期までの主要道であった。この道は、牛と人が通れば足りる道幅の三尺道路で足りた。路肩の両脇には雑草が生えて真ん中は地道、主要道たるの標識でもあった。…

大子から手崎へは無人地帯の山系を通った。「さやの首」と呼ばれる所に「籠立石」があって、現国道から2kmの西側山中に位置する。いよいよ萩原峠越えとなる。鬱蒼たる山中道は、約200mで手崎農道に出た。楠原や長浦岳が展望されて急に天地が開けた。農道は旧道の石垣を残して拡幅されており、東へ300m歩くと、ミカン収納庫がある。農道を離れて山中へ分け入ると、古道の面影を盛り土道に残している。横断する農道を3つほど横切り、畑中の古道を駆け下ってようやく手崎川に出た。これが「萩原峠越え」である。

「萩原峠越え」について、筆者(注:町史の執筆者 山口博氏)は父からよく聞かされた。明治36年の県道完成までの往還道。この道筋を通って、形上ムラ地区の子どもは、明治27年設置の長浦高等小学校へ往復した。1日に1足の草履を踏み潰したという、父祖が通った「萩原峠道」を辿るべく、筆者はついに手崎川の標識から登り上って、現在の手崎公民館道の農道の西方部に出た。これからが萩原峠越えであることは判明した。しかし、手崎から大子への道筋辿りの詳細は分からず、古道歩きは断念しつつも諦め得ずにいた。機会が巡ってきた。平成2年11月の婦人会(長岳峯子会長ら約20名)の史跡案内日のこと、同行の前会長佐木幸子が、大子の「籠立石」を知っているという。行事終了後、当地を自動車で案内していただいた。その節は日没時、ここが分かったらいつの日かと思いつつも時は過ぎていく。

執筆終了、帰阪の数日前の快晴日和、教委の神近正(昭和35年生)に依頼し、籠立石から手崎農道へ出る。手崎川沿いの坂本忠一宅付近に立つ「古道標」を目指すも不明。畑仕事中の手崎・山本喜市(大正6年生)に尋ねると、手を休め、古道の案内をしていただいた。こうして既述どおりの道筋で父祖の歩いた萩原峠を越えて手崎川に出ることができた。これで故郷史執筆終了の喝采感を得る。…

「萩原峠越えの標識」は、長浦バス停から手崎川へ向かい、左右岸の車道を1kmほど上流に行く。手崎川が角々に曲ったあたりに坂本宅がある。坂本宅入口と橋の間の右石垣上に古道標が立つ。
思ったより小さく、幅15cmほどの角柱、高さ50cm。正面「右 かめのうら かたがみ 道」、左面「左 山 道」と刻む。町史写真ではわからなかったが、右面に「明治八年 乙亥十一月 施主 佐木喜代作 濱口直左エ門 小林辰蔵 溝口共吉」?とあった。

この道が往還道だったと坂本氏に聞き、道標右の古道を登ってみた。藪道の尾根を200mほどで手崎農道上部へ出た。辺りはミカン山となっており、しばらく行って農道を離れて山中へ分け入ると、古道の面影を盛り土道に残した小山のピークに達した。ここが「萩原峠」だろうか。ピークの広場には大石が散乱していたが、写真の「籠立石」とは異なる。
ピークから大子側に古道を農道と最初に出合う所まで下った。あたり一帯を探しても、「籠立石」はわからず、往還道がこんなに高く迂回していることに驚いた。海岸部がそんなに険しかったのだろうか。私の場所と道間違いかも知れない。

手崎農道はグルグルとカーブしながら手崎へ下っていた。歩いてはまっすぐ下れる別の道がある。これが往還道のようでもあるが、手崎のどこへ続いて降りるのか、はっきりわからなかった。
なお、「大村郷村記」長浦村往還道筋の記録は次のとおり。古道標は設置年代から、この「傍爾石」ではない。

同手崎川より右の方形上道追分傍爾石まで壱町拾壱間、此間左右田・人家あり
同形上道追分傍爾石より萩原の辻まで七町四拾間、右田畠・人家・野、左畠野にて、此間上り坂あり
同萩原の辻よりさやの首まて四町弐拾壱間、此間左右畠野なり、長浦往還道此処にて終る

琴海地区の旧明治県道の一里標

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琴海地区の旧明治県道の一里標

琴海町教育委員会編「琴海町史」平成3年刊の597〜598頁は次のとおり。琴海町史は「一里塚」と記しているが、本ブログではほかの記事に合わせ、「一里標」として統一する。
「一里標」は「亀高村(現・西海市)では白似田の山中バス停付近」、「(現・長崎市琴海地区では)形上の内山家の藤の木の下(下半分は現存・写真付)、手崎の田添さん宅附近(三社大神参道入り口、現在の手崎公民館入り口付近)、戸根の川尻の山際、次は琴海高校の前」(大江・西川一夫談)に建っていたと記す。

四 旧県道の一里塚

旧県道は村松村は明治34年、長浦村・明治36年、長崎面高間の内海県道の完成は、明治
38年ごろであろう。この旧県道に一里塚が建立された。
これについて、村松小学校大正13年卒の梅園藤男は、「確か川尻といったと思うが、県道の曲り角のところに里程標がたっていた。”長崎へ六里、面高へ九里”と書かれていた」(昭和53年刊『村松小一世紀の歩み』)から判じて、一里塚は明治末期にに建てられたのではあるまいか。県道完成の祝賀碑といえよう。

一里塚は「亀高村では白似田の山中バス停付近、形上の内山家の藤の木の下(下半分は現存)、手崎の田添さん宅附近(三社大神参道入り口、現在の手崎公民館入り口付近)、戸根の川尻の山際、次は琴海高校の前」(大江・西川一夫談)に建っていた由。西川一夫は筆者と幼友達、一里塚所在を電話で尋ねると、反射的な返事「オレは、長崎までよく歩いたから知っている」には驚嘆した。

当時、よく歩いたにも驚嘆したが、今は歩こうにも歩けない。自家用車あり、トラックあり、バスありの自動車地獄となった。手崎から大子まで家並みなき2km間を、歩いている人を見ることはできない現状にある。もし国道の歩道部を歩いたと仮定したら、形上内山家から長崎への八里は、六里に短縮されているに違いない。琴海町域で各里道へ入るとするなら、昔も今も県道、国道経由で里道へ入った。里道が村道に指定され、村政からの補助金が出るようになったのは、長浦、村松両村とも、大正3年ごろからと思われるが、史料を欠く。

このうち、西海市亀岳「白似田の山中バス停付近」は現存。次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/2383

今回、琴海町史でわかったのは、琴海地区の「形上の内山家の藤の木の下」で、写真のとおり下半分が現存する。場所は、形上近く「大子小浦」バス停から小川沿いに右に入る。「株式会社平田形上工場」の裏側へ回る小道が旧明治県道。石祠を過ぎしばらく行くと、内山宅入口先の草の茂みの中に折れた標石がある。
折れた上半分は所在不明らしい。現存する下半分の刻字は、「里」「長崎縣」?の2面が読める。「琴海町史」交通の発達590頁が、次のとおりこの標石を詳しく記していた。

⑪形上地区  現在の「吉野浦」バス停から県道は海岸沿いに迂回していた。そこには衆議院議員中村不二男の豪邸があった。それを過ぎると大子との界をなす形上の内山家、この内山家の所に楠の木と藤の木があった。ここは夏の憩い場であり、その下に一里塚の標柱が立っていた(597ページ写真参照)。
高さ1mほどの角柱「正面の下部に”長崎縣”、右側面の上部に”長崎へ八里”、左側面上部に”面高へ七里”」とあった。現在は露出部45cmが残って、正面の”長崎縣”のみが現存、左右は”里”のみを残し、上半分は折れている。思えば18cmの角柱、約1mの標柱であった。…

琴海地区のほかの3箇所も、現地一帯を念のため探したが、標石は見当らなかった。「戸根の川尻の山際」とは、山田GS手前の「パチンコサンライズ琴海店」あたりとなるらしい。戸根川の河口である。(琴海戸根町自證寺前・辻光雄氏の話)