長崎の珍しい標石」カテゴリーアーカイブ

風頭山の「晧境目」石と烽火山「亀石」下の石  長崎市風頭町ほか

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風頭山の「晧境目」石と烽火山「亀石」下の石  長崎市風頭町ほか

ブログ「歩いて自然を満喫しょう!」宮さんが、本年1月発見した石2つ。画像は宮さん撮影ほか。
風頭公園のは、山頂から龍馬像の方へ手すりの坂段を下る。中間ほど右方5mのところの平たい自然石面に「晧境目」?と大きく刻んでいる。寺町「晧台寺」の古い境界石と思われる。

烽火山のは、山頂すぐ近く「亀石」の手前の石に、何か文字を刻んでいるという。苔をきれいにするとたぶん文字が出てくると思うのですが…のメール。「亀石」の正体がはっきりするかも知れない。近々、確認に行きたい。
烽火山「亀石」は、次の記事を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/15733402.html

鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (2)

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鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (2)

この稿は、研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」2006年4月刊184〜195頁に全文を資料とも掲載している。前記事(1)の参考として紹介する。関係資料は略。
写真は、鍋冠山展望台の山頂三角点169.3m、山頂北北西側斜面の採石跡と上人像など。

7 星取山の観測拠点「囲い石」と鍋冠山の「測点」はどこに
明治初期、アメリカ隊金星観測と地理局緯度電信測量測点を見る

(1)アメリカ隊の金星観測—星取山  掲載略

(2)地理局経度電信測量—鍋冠山

星取山の先の碑から山道を下ると鍋冠山へ行ける。次はこの鍋冠山にあった不思議な標石の話である。明治12年から13年にかけて、内務省地理局が鍋冠山と東京赤阪旧天文台との間に経差を電信測量した。山頂あたりの測点の場所に標石が建てられた。『方六寸長さ四尺三寸で、其の面には「天象観測指点」とあり、両側面には「内務省地理局」及「明治十二年十二月」とあつた』というのである。

これは、大正5年4月発行日本天文学会「天文月報」第九巻第1号に、田代庄三郎氏が「長崎に於ける経度電信測量の測点」として鍋冠山の測点を次のとおり報告している。
『明治四十三年報時球建設の当時経度を定める必要から、先第一に此山の測点を捜索したが分らなかった。爾来四閲年漸く昨今に至つて、其の標石だけを発見することを得た。其の位置は山頂より北々西の方へ稍下つた勾配の可なり急な草叢の中に二ッに折れて横つてあつた。標石は方六寸長さ四尺三寸で、其の面には「天象観測指点」とあり、両側面には「内務省地理局」及「明治十二年十二月」とあつた。勿論標石のあつた所に立てゝあつたのではないことは明白である。…』

田代庄三郎氏とは、鍋冠山の中腹に当時できた長崎報時観測所の所長である。同氏の報告は、金比羅山の煉瓦台再発見につながった重要な記録として、原口先生の報告書に表れている。
『(地元の方や伊原市議から)その話を聞きながら、記念碑からの方角や発見されたときの状況等をお尋ねした。そして、“それはまぎれもなく探し求めていた観測用の台であろう”という確信を持つにいたった。この煉瓦台については、大正5年に田代庄三郎氏が「天文月報」に次のように報告している。
「この碑を去る東十五間の所に、長さ二寸一尺、幅一尺九寸、高さ一尺六寸の煉瓦で築き上げた頗る丈夫な台がある。多分此の上に携帯用子午儀でも据付けて、時の観測をやったものであろふ」
田代庄三郎(1916):「長崎金刀比羅山金星経過観測記念碑」、天文月報8,3月号,P.141』

内務省地理局が実施した三角測量と経度調査については、原口先生の報告書215〜216頁に地理局年報・報告書などを資料として詳しい説明がある。ところが、田代氏が存在を発見し大正5年記している鍋冠山の明治12年「天象観測指点」標石のその後は、何もふれられてない。
このため、私は困ってしまった。

実は、この鍋冠山測点の田代氏稿「天文月報」掲載資料は、京都市上西氏から送っていただいたものである。天門峰と魚見岳の「地理局測点」を照会した「訪ねてみたい地図測量史跡」著者山岡光治氏が、長崎に寄こすかも知れないと言った知人が上西氏であった。長崎来訪を打ち合わせ資料を貰い、来訪は2月下旬実現した。21日午後到着し、天門峰・魚見岳・大久保山・八郎岳、翌22日は昼過ぎまで、金比羅山・星取山・鍋冠山を案内した。

さて鍋冠山の明治12年「天象観測指点」の標石である。山頂より北北西の急斜面でやや下った所とあり、巌岩の山で採石の跡とも表現がある。鍋冠山はそのとおりの山であった。昨年秋から展望公園として再整備完成して一変していた。標石は見当たらない。洞穴の採石跡と苔むした柱状節理の岩間に上人像があった。
上西氏のするどい観察は、山頂三角点に少し離れた場所に建ててある高さが人の肩ほど、台座のある石祠である。屋根を乗せていたが常夜灯の形をしており、屋根を外せば「子午機」を据えられる薄い平板の石が間にあった。仙台でそんなものを見たと言う。だが、石に連名の刻字は大正十五年のようだ。方位の刻みがないか、石は重くて外して見ることはできなかった。
上西氏は原口先生を一度お尋ねしたいと思われた。「天象観測指点」の標石のその後に関し記録や知っている人がいれば教えてほしい。

東山手町の「誠孝院」の入口を通り、「みさき道」は石橋へ下る。「誠孝院は、寛保3年(1743)誠孝院日健が創建。日健は岡山の人で、鍋冠山の山中で日親上人像を発見、大村因幡守純保に大浦(現大浦相生町)の地を懇請、小庵を建てたという。文化6年(1809)以降、長崎異変の際の大村藩の陣屋とされた。昭和初年、寺域狭隘のため、澤山精八郎の寄付により現在地に移転した」(長崎市立博物館刊「長崎の史跡」)

田代氏稿は、五で鼠島及び三菱造船所第三ドック附近にあった海図経緯度基点についてもふれられている。「小さい島や小区域ではあるが目標となるべきものも存在しておらぬ」結果だった。
鼠島については、陸軍省第一地帯標石がないかとも小瀬戸で聞いたが、話は聞けなかった。今は陸続きとなり、長崎県がコンテナ基地を造るためさらに埋め立ての計画があるらしい。
昭和58年平山久敏著「小瀬戸町史跡」はふれてないが、鼠島は黒浜・以下宿で見られる「変はんれい岩」という濃緑色の岩石(県天然記念物)と同類の角閃岩が見られる島である。地元の人は、開発一本やりで後世に残すべき自然や史跡があまりに破壊されつつあることを心配していた。
三菱造船所身投崎については、国土地理院九州地方測量部が探しておられるが、なにせ構内の入場がむつかしいらしい。

鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (1)

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鍋冠山の明治12年「地理局測点」標石はどこに (2)

ほしなべ氏HP”長崎遠めがね”の2009年6月26日記事「鍋冠山の測点」は、興味深いからまず参照。 http://hoshinabe.ojaru.jp/276_nabesoku/276.html
鍋冠山の三角点近くの芝生の中に、一辺が16cmほどの石があり、長崎市史 地誌・名勝編 1938年刊 1967年再刊 p310 には、「明治12年に内務省地理局測量課が 経緯度測量に従事したのはこの(鍋冠山)山上である。今其の遺跡には高さ3尺余りの石柱の一部がある」と書かれているので もしかすると その石柱の「なごり」かもしれませんと、写真付きで紹介している。

ほしなべ氏が資料としている「天文月報」や「長崎市史」の記録は、京都市に住み近代測量史を研究されている上西先生のサイト”史跡と標石で辿る「日本の測量史」 旧題:三角点の探訪”長崎県の三角点 鍋冠山(下記のとおり)から引用したものと思われる。
http://uenishi.on.coocan.jp/10lib-sankaku/p420nagasaki.html

私は、3年前の”長崎遠めがね”鍋冠山記事を見落としていた。上西先生から先日、「つぎのHPで鍋冠山の遺跡に関する記事を見つけました。まだ現地になにかあるようですね」と、メールをいただいた。
上西先生とは、5年来、懇意にしてもらっている。2006年2月に来崎され、私が天門峰や魚見岳の「地理局測点」など案内し、鍋冠山の標石も先生と探した。写真の場所は先生も見てる。
鍋冠山のこの時の調査状況は、文字数の制限から次記事(2)とする。研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」2006年4月刊184〜195頁に全文を資料とも掲載している。

さて、ほしなべ氏の記事の石だが、きょう宮さんと鍋冠山山頂へ確認に行った。掘り始めるとすぐ動き、石柱ではない。ほしなべ氏には悪いが、単なる平らな石だった。
鍋冠山へは、2006年2月以後、私は数回通い、山中をだいぶん探した。標石の痕跡は見つけきれなかった。もともと山頂部は柱状節理を成している。石柱に似たような石片が多いが、自然のものばかり。その後、調査はあきらめていた。
きょうの調査も上西先生へは、残念な報告をしなければならない。何かわからない新しいコンクリート石柱は西斜面に1本あった。

鍋 冠 山 (169.3米 四等 2006/2/22)
点名:戸町
地図:長崎西南部

長崎市大浦天主堂の500メートル南にある丘で全体が公園になっています。長崎の街と長崎港を望める展望台があります。三角点標石の北面には「009 864」の刻字がありました。

1879年(明治12)から翌年にかけ内務省地理局が、この鍋冠山と東京赤坂葵町にあった天文台との経度差を測定しています。しかし現在、その遺跡はなにも残っていませんが公式記録はあります。[内務省地理局測量課:日本全國三角測量報告 天文之部 第貳 明治十四年 長崎、大阪、京都 1881(気象庁蔵)]

其の位置は山頂より北々西の方へ稍下つた勾配の可なり急な草叢の中に二ツに折れて横つてあった。標石は方六寸長さ四尺三寸で、其の面には「天象觀測指點」とあり、兩側面には「内務省地理局」及「明治十二年十二月」とあった。 [田代庄三郎:長崎に於ける經度電信測量の測點 天文月報 九巻一號 大正五年四月 日本天文學会 1916 p5]

明治十二年 内務省地理局測量課が經緯度測量に從事したのは此の山上である。今其の遺阯にや高サ三尺餘の石柱の一片がある[長崎市役所:長崎市史 地誌編 名勝 清文堂出版 1938(1967再刊 p310)]

井手正兵衛の碑  西海市西海町七釜郷字半助山より下る

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井手正兵衛の碑  西海市西海町七釜郷字半助山より下る

”字半助山の南側斜面にある水田の先端より100mの所に水路があり、沢と水路が交差した場所に、「天明六年丙午三月井手正兵衛之作る」と自然石(蛇紋岩)に刻まれた碑がある。約4kmに及ぶ七釜の大井手て呼ばれる水路を作った井手正兵衛の記念碑である。
当時、七釜の住居地には水源がなかった。井手正兵衛は、柚木川より水路を作り、水田への取水、また郷民の飲料水確保を目的として、水路を作った。現在もこの水路のことを、井手氏の名前を称え、「井手」と呼ぶ。最近まで、水路の補修のため、一軒から一人作業に出ることを「井手轟」と言った。”

以上は、西海町「西海町郷土誌」平成17年発行の記念碑、宝塔一覧751頁にある碑の写真付き記録である。同郷土誌の農林業457頁にコラムで、次のとおり詳しい記事があった。

七ツ釜の大井手

県道遠見岳線を登り、字半助山に至る。半助山の南側斜面に、広い水田(913−2)がある。その水田の先端より沢伝いに約100m下ると水路があり、沢と水路が交差した所に「天明六年丙午三月井手正兵衛之作る」と刻まれた自然石(蛇紋岩)がある。
水路を上流へ約500mさかのぼり、柚木川上流と交わるところが、水路基点である。この基点より水路を等高線ぞいに辿れば、字半助山・ワルカリ・横尾・大迫・平山・石原・立石・山田と経て落保へと至る。大迫の水計(みずはかり)から分岐して伊立浦川の水源となり、岩谷川・山田の奥・伊立浦の水田を潤している。山田から分岐し、大川の川(うーこうの川)の水源となり、山田・大川新田を潤している。

さらに余水は住民の飲料水として最近まで使用されていた。七ツ釜の住居街には現在もほとんど水源が見当たらない。井手正兵衛は、主に飲料水確保のため水路を計画したように思われる。
水路の長さは約4km。幅は上流が約1m。下流に行くにつれて狭くなる。高さはまちまちである。現在、この水路を、井手氏を讃え、「井手」と呼ぶ。最近まで、一軒につき一人が水路の補修に参加することを「井手轟」と呼んだ。

さて、「大井手」を築いた地元の偉大な先賢者、井手正兵衛のこの碑はどこにあるのだろう。地元や市教育委員会に聞いても、現在は場所をほとんど知る人がいない。郷土誌編纂委員の方を、今さら煩わす訳にはいかず、山奥を1人で探してみることとした。
「半助山」自体がわからず、市管財課で「七釜郷913−1」の地籍図を取った。航空写真で交付されびっくりした。これから見当付けると、半助山の水田(黄線枠)は、県道122号線と広域基幹林道西彼杵半島線が交差する右方谷間にある。地形図に水田記号がある所である。

広域林道の七釜トンネル上の先に県道122号線から分岐して、右へ入る林道(九州自然歩道と白岳集落へ出る)がある。高圧線鉄塔37、33号へ行く標識がある。この上の山が「半助山」だろう。山腹を1kmほど進むと右谷間へ下るコンクリート舗装の分岐道があった。水田専用車道で、目指す水田へとすぐ降りた。
後は郷土誌の記すとおり、水田の先端より沢伝いに約100m下ると、廃用となった水路跡があり、沢と水路が交差した所を探したのだが、「天明六年丙午三月井手正兵衛之作る」と刻まれた自然石(蛇紋岩)を見つけきれない。

沢の石の状況が変わっているのだろう。この倒れている石がそうだとすると、水流で磨耗している。碑があった場所は間違いないと思う。ここよりさらに50mほど沢を下ると、水量の多い柚木川本流と出合った。
時間をかけて再調査が必要だ。結果がわかり、碑の現在の写真を写せたら、後日報告する。
最後の写真は、九州自然歩道沿いで白岳集落近く、柚木川上流にある滝。

大瀬戸町に残る方角を刻んだ道標  西海市大瀬戸町瀬戸板浦郷ほか

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大瀬戸町に残る方角を刻んだ道標  西海市大瀬戸町瀬戸板浦郷ほか

西海市大瀬戸町から県道12号線により大串の方へ向かう。長崎県立西彼杵高校グランド先に西海市立大瀬戸中学校があり、左折してこの道へ入る。1kmほど走ると、右脇に立派な標柱が立っている。
正面「紫雲山公園登山口」、右面「新四国八十八ヶ所霊場入口」、左面「昭和三十四年四月吉日」と裏面に建立者を刻む。23m角、高さ1.6m。本題はこの石柱ではない。

ここからまた少し走る。登りきった所が旧街道の変則四差路になって小高い丘が残り、真ん中に方角・集落名を刻む道標の標石が立っている。
4面に刻面があり、「東 大串」「北 多以良」「西 板ノ浦」「南 かしノ浦」と刻んでいる。19cm角、高さ65cm。小さな標石だが、昔から重要な往還道分岐だったのだろう。このあたりの地名は板浦大抜というようで、瀬戸樫浦郷との境となる。

ここに標石が残っていることは、地元でも良く知られているようだ。大瀬戸歴史民俗資料館から聞いて訪ねたのだが、同じような標石が実は瀬戸下山郷の往還道にも残っている。
大瀬戸町「大瀬戸町郷土誌」平成8年発行の廃藩置県以後の各村の村勢(1)里程などの503頁を読んでいて気付いた。古い標石の写真があった。詳しい説明はなく「下山の往還道にあった往時の道標」とのみ記している。

「西 瀬戸」と刻まれ、板浦大抜の標石と刻面が違う。「あった」と過去形のような説明も気になり、瀬戸下山郷へ行ってみた。大瀬戸中学校入口の交差点に戻り、大串方向へ県道12号線をしばらく走ると、「下山」バス停があり、雪浦から羽出川沿いに上がってきた道と合う。
当時の往還道は、この先少し行った小道である。右へ入ると往還道の分岐があった。郷土誌に写真が載っている標石が、畑の土手に無造作に倒されてあった。

立てて見ると3面に刻面があり、「西 瀬戸」「北 大串」「南 雪ノ浦」と刻んでいる。18cm角、高さ75cmの標石である。
放置されているのはもったいない。大瀬戸歴史民俗資料館へ知らせ、立て直しをお願いした。
設置年代はわからない。いずれも明治以前か、明治初期の標石と思われる。

西彼杵半島旧明治県道の一里標  西海市西彼町・西海町・大瀬戸町

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西彼杵半島旧明治県道の一里標  西海市西彼町・西海町・大瀬戸町

明治9年(1876)、太政官布達により、国道、県道、里道(町道)の3等級が定められた。
明治29年(1896)、西彼杵半島を一周する県道に関する議案が県議会ではかられた。明治
32年(1899)、外海県道が開通し、明治38年(1905)、内海県道が開通となった。
内海線は、面高を基点として長崎まで15里(60km)あり、1里(4km)ごとに石の道標が立てられた。当時の人は、西海町を早朝に出て、夜には長崎に着いたという。

西海町「西海町郷土誌」平成17年発行495頁の主要道路建設の項で、西海町面高を基点とする西彼杵半島旧明治県道の内海線に「一里標」を建てたことを記している。
当時の「一里標」がまだ残っているだろうか。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/952
2008年6月、西彼町八木原郷に「長崎十二里」と刻んだ一里標を見かけたことを記事にした。

全国にはいろいろなマニアの人がいる。HP全国「標石図鑑」(現在HPは、都合により閉鎖)で、この標石を最近、長崎県の標石として取り上げてもらったので、詳しく他の「一里標」の存在を調べることとした。
西彼町「西彼町郷土誌」平成15年発行316頁に「旧県道の一里塚」として、西彼町に5本の一里塚が建てられたことを記している。
標石なので、正しくは「一里標」。長崎への距離に応じて「九里標」「十五里標」などと刻んだものもある。以下、「一里標」として説明する。同郷土誌説明は次のとおり。

旧県道の一里塚
明治38年(1905)完成の長崎〜面高間の内海県道には、一里塚が設けられた。当町域にも
5ヵ所に一里塚が建てられたが、その後の道路改修などのため、今ではその形をとどめていない。当時の旅人はこれを旅程のめやすとして、近くの木陰などで休息を取っていたのであろう。

同314頁には、西彼町の当時の「往還図」がある。西彼町で別にわかったのは、上岳郷山中バス停にある標石である。「面高へ六里二分」と刻んでいるから、316頁の標石である。標石は新しく見え、今までバス停傍らになかったと思う。あったら以前に気付いたはずである。どこかに展示していて最近、移設されたものと思われる。
西彼町の外の3本、鳥加郷よしのドライブイン付近、平山郷大串小学校下、八木原郷皆割石は、所在が今のところわからない。

基点の面高に戻って、西海町域の旧県道標石を探してみる。大瀬戸歴史民俗資料館に前お勤めの江越先生が知っておられた。西海市西海公民館の正門右に「十五里標」、隣の西海市西海歴史民俗資料館3階に展示品の「十四里標」がある。
あと1本は、大瀬戸町多以良内郷にある。多以良から行くとトトロのある「柳口」バス停から右の旧県道の道へ入る。西海町七釜郷へ出る中間位の道目木という集落に「一里標」が現存する。この標石は、外海線の旧県道標石と思われる。外海線にも一里標が建てられていたのだ。数回通った道なのに覚えがなかった。
外海線については、西海市立西海南小学校下、板浦トンネル上の斎場下、西海市役所神社側駐車場あたりの旧県道だった道にも、標石があったと地元の人などに聞いているが、今はないようである。

以上、現在までの調査により判明した西海市西彼町・西海町・大瀬戸町関係の「一里標」標石5本を、写真によって紹介する。所在地・刻面・寸法は次のとおり。移設されたものもある。

写真  1〜  2  西彼町郷土誌掲載の「旧県道の一里塚」及び当時の「往還図」

写真  3〜  5  西彼町上岳郷 山中バス停付近
正面「九里標」   右面「面高ヘ六里二分」 左面「長崎へ九里」 裏面「長崎縣」
18cm角  高さ1m

写真  6〜  8  西彼町八木原郷 JA長崎せいひ大串支店先
正面「一里標」   右面「面高ヘ三里二分」 左面「長崎ヘ十二里」 裏面「長崎縣」
18cm角  高さ1.1m

写真  9〜 11  西海町黒口郷 西海市西海公民館正門右
正面「十五里標」 右面「長崎ヘ十五里」 左面「面高へ二分」 裏面「長崎縣」
17cm角  高さ0.9m

写真 12〜 14  西海町黒口郷 西海市西海歴史民俗資料館 3階展示品
正面「十四里標」 右面「面高ヘ一里二分」 左面「長崎へ十四里」 裏面「長崎縣」
17cm角  高さ0.9m

写真 15〜 17  大瀬戸町多以良内郷 道目木集落
正面「一里標」   右面「面高ヘ四里八分」 左面「瀬戸へ二里」 裏面「長崎縣」
18cm角  高さ1m

写真 18       基点?の西海町面高港
外海に面した面高港は、天然の良港である。岬の海岸線は屈曲し、奥行1000m・幅500mの湾内は、台風時の避難港として早くから知られていた。陸路においても、長崎市から西彼杵半島の県道終点であった。旅館や遊郭が立ち並ぶなど、町は海陸共に交通の要所として繁栄した。(西海町郷土誌5頁)   

島原街道の田結にある道案内の標石  諌早市飯盛町里

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島原街道の田結にある道案内標石  諌早市飯盛町里

長崎学さるく行事で5月31日、島原街道を矢上から江の浦まで歩いた。講師の諌早市郷土館織田先生が教えてくれた標石。国道251号線は、東田結交差点で池下・大門を回ってきたもう一方の国道と合い、カーブして田結川を渡る。
川の国道ガード下にかがんで通る小橋がある。この小橋の道が昔の島原街道となる。渡ってコンクリート舗装した里道を登って行くと、すぐの三叉路に道案内の標石が立っていた。

正面「←江ノ浦 有喜 島原 諫早、→戸石 矢上 長崎方面」、右側面「→西明寺ヲ経テ江ノ浦 船津」、左側面「寺平青年団」の刻み。14cm角、高さ55cmの標柱。年代の刻みはない。新しい感じがする。先生の話では大正時代のものでなかろうかということ。
この小道をまっすぐ登ると、国道から中村三郎の歌碑がある西明寺へ上がる車道にいったん出た。だからこのあたりの地名は寺平であろう。島原街道は2つある現在の飯盛トンネル上へと登って行った。

青年団が建てた道案内の標石は、長崎市茂木町の河平川谷間に例がある。「戸町ニ至ル」「昭和三年十一月 御大典紀念 河平青年団」。これと似たような造りと彫りで、田結の標石の年代は、やはりこのあたりであろう。

三菱長崎造船所「三造」の標石  長崎市岩瀬道町

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三菱長崎造船所「三造」の標石  長崎市岩瀬道町

長崎の外国人居留地跡標石の項で、長崎クラバー園入口などにあった「三菱用地」の標石写真を載せていたが、これより古いと思われる標石を見かけた。
場所は長崎市岩瀬道町。三菱重工業(株)長崎造船所本社ビルがある。第三ドックの先に迎賓館「占勝閣」が見える。「岩瀬道」の次の「八軒屋」バス停から現在の県道236号線ができる前の旧道の坂段道に入り、立神へと歩いてみた。

昭和30年頃までは、車やバスが通う道は飽の浦までで、立神・西泊・木鉢と次々と山越えして歩かなければ、小瀬戸まで行けなかった。陸の孤島といわれた地域で、船が唯一の交通手段だった。今はトンネルができ、神の島も陸続きとなって、この地域は発展を続けている。
八軒屋バス停から旧道を登りきると、岩瀬道町と東立神町の町境。ちょうど住居表示板に挟まれて、電柱の根元に「三造」と刻んだ標石があった。寸法は16cm角、高さ50cm。
三菱造船所の古い境界標だろう。現在、ここは民間の住宅地のようだ。

本造船所の歴史は、日本初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」として出発。幕府から明治政府に管理が移った後、1887年(明治20年)三菱に払い下げ、以後、民営の造船所として、戦後も多数の艦船を建造しているとあった。工部省所管「長崎造船局」時代の1879年(明治12年)に、立神第一ドックがすでに完成している。
標石の年代を一番古く見積もると、三菱に払い下げがあった1887年(明治20年)ともなろう標石ではないだろうか。

明治33年建などの矢上村にあった街道標石 (3)  長崎市田中町

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明治33年建などの矢上村にあった街道標石 (3)  長崎市田中町

明治33年9月などに建てられた矢上村にあった街道(国道・県道)標石が2つ現存していることは、次により紹介している。
矢上町  https://misakimichi.com/archives/470
東 町  https://misakimichi.com/archives/1444
ところが、矢上村の標石があと1本あった。最近、諌早市郷土館の織田先生の話から、田中町中尾にも残っていると教えてもらった。
明治期の標石だが、今のうちに記録しておく必要がある。先生もその意向である。

標石は現在、中尾公民館すぐ上の浦山正勝氏が保管されておられる。12月26日同宅を訪れ、見せてもらった。上部が折れ、いささか無残な姿である。
刻面は次のとおり。寸法は15cm角、高さ73cm。
正 面  →西 山
裏 面  ←本河内
左側面  矢上村中尾
右側面  明治三十四年八月建

矢上村の明治34年測図国土地理院旧版地図を末尾に掲げたので、所在場所は地図により確認。刻面から見ると、現在の中尾ダム堰堤近くの川沿いの分岐に、最初はあったと考えられる。
あるいは大正6年、上流の「鮎帰橋」がアーチ式石橋となったので、その分岐に移された可能性はある。「鮎帰橋」は、次を参照。https://misakimichi.com/archives/295
「→西 山」とは、田の川内を通る現在の九州自然歩道の道で、木場峠を越えて西山ダムへ出る旧道である。
「←本河内」とは、中尾から平床を通り木場峠へ出る現在の市道は当時はなく、中尾から中尾峠を越えて、本河内の日見トンネル西口へ出る旧道と思われる。

中尾ダムは、長崎水害緊急ダム事業として平成12年度完成。ダム底となる標石は、一時、中尾ダムに新しく架かった吊り橋「中尾大橋」脇の石祠のある道脇に移された。
ところが数年前、車がぶつけたか無残に折れて、放置されていた。標石がこれ以上破損しないよう、浦山氏が見かねて同宅の庭に運び、標石を保管されている。織田先生に報告しておいたそうである。

相生地獄坂「(聖?)徳太子上リ道」の標石  長崎市相生町

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相生地獄坂「(聖?)徳太子上リ道」の標石  長崎市相生町

長崎は坂の街。高台にも家が密集し、各所に「地獄坂」と名をつけた坂が多くある。大浦地区の「相生地獄坂」は、石橋電停からジョイフルサンの角を行った奥左の急な坂段道。長崎グラバー園の最上部、第2ゲートへ出る。
少し離れた左側を「長崎グラバースカイロード」の斜高エレベータが上がる。同エレベータは、地獄坂のつらさを解消するためにもできたと思われる。

「相生地獄坂」の坂段登り口の左電柱脇に、写真のとおりの古い標石があった。正面は上がはげているが「(聖?)徳太子上リ道」、左面に「道路十坪 寄附者…」。
「(聖?)徳太子」の意味と場所がわからない。
この道はさらに上に上がると「鍋冠山」(標高169m)山頂に着く。東山手町「冠鍋山誠孝院」(昨日寄ったら、扁額の字は確かにひっくり返っていておもしろかった)から直接行かれる、最も近い道となるようである。この辺りも考えて、調べてみたい標石と思われる。

(追 記 平成20年12月27日)
広助氏のHP「広助の丸山歴史散歩」に、次のとおりあるので参照。
聖徳院跡(しょうとくいん-あと)  白石稲荷神社の北隣にある六角形の塔は聖徳院(六角塔)と呼ばれ、… 鍋冠山の由来は、東山手町にある冠鍋山誠孝院と関係が深く、江戸時代に山のふもとで日親上人(通称:鍋冠日親)の石像が発見したことによります。

「ほしなべ」氏のコメントにより、12月26日に鍋冠山の六角塔を訪ねた。脇に石塔があり、「聖徳殿建設記念碑」「大正十二年十月 報恩会」と確かに刻まれていた。