明治時代?の新街道伝える「一里標」  西彼町に残る

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明治時代?の新街道伝える「一里標」  西彼町に残る

次はHPにより調べた平成16年(2004年)7月2日828号、西広島タイムスの新聞記事。

明治時代の新街道伝える 道しるべ「一里標」を設置

▲新街道で道しるべとして設置されていたという「一里標」
【大竹市】明治維新後、江戸時代の西国街道に替わってつけられた新街道で道しるべとして設置されていた「一里標」。現在の大竹市油見三丁目あたりに建っていたと思われる一里標を、保管していた大竹市油見一丁目の伊藤正保さんが大竹市教育委員会に寄贈し、市教委は六月二十三日(水)、市総合市民会館(立戸一丁目)敷地内に説明板とともに設置した。
山坂が多く難路だった西国街道は明治時代に入り、平たんな海岸沿いに移す計画が上がった。廿日市−大竹間の工事は一八八○(明治十三)年に完成。開通の五年後には西国街道の一里塚に替わって、新街道に一里標が設置された。
大正時代まで設置されていたと推測される一里標は現存しているものが少なく、市民会館に設置されたものはその中の貴重な一つ。御影石造りの高さ百六十四センチ(地中部分含め全高百八十三センチ)ほどの道しるべには、大和橋まで「拾三町五拾六間二尺五寸」と里程などが刻まれており、当時の様子を推し量ることができる。市教育委員会は「昔の国道に設置されていた道しるべを多くの人に見てもらいたい」と話している。

西海市西彼町八木原郷に、これと同じような「一里標」が残っていた。江戸時代の街道一里塚と違う、明治から大正時代にかけての「一里標」のようだ。
場所は国道206号線西海橋の少し手前となる。真珠園療養所を過ぎると八木原で、「八木原 JA長崎せいひ大串支店」がある。このすぐ先の国道沿い左手、倉庫としている空家の庭先に石柱が2本立つ。通るたびに手前のは気にかけていた。
5月31日伊万里・佐賀方面に行くとき、バイクをUターンして調べてみた。奥にあと1本あるとは今まで気づかなかった。いずれも18cm角、高さ1.1mの石柱。手前のは無刻か表面が削られている。

奥のには4面に刻字があった。正面「長崎十二里」、裏面「面高三里二分」、右面「一里標」、左面「長崎縣」。「一里標」とは珍しい。
これは県が設置している。通りかかった高齢の地元井田喜八さんに聞いてみた。
「この石柱はもともと少し先の中郷集落船着場の所にあった。面高(西海町面高郷)を起点に設置され、昔は数本あった。空家の主牧山氏が石柱を貰い受け、この庭先へ据えた」という話。

長崎県にも何も設置史料は残っていないと思われる。日本がメートル条約に加盟したのは、明治19年(1886)。尺貫法併用から完全にメートル法に移行したのは、実に昭和33年(1958)年のことだ。国土地理院の旧版地図は、明治34年測図。一般的な地域のみ。西彼杵半島の特に外海地方は、戦後もまだ陸の孤島であった。
これらを勘案し、設置年代の手がかりとするほかはない。「西彼町郷土誌」に記述がないだろうか。この手の種類として珍しく、貴重な標柱であることは確かだ。

(平成22年5月29日 追記)
この記事は、ブログ「標柱図鑑 〜明治期標石・標柱類 博物館〜」を参照。
http://racoon60.cool.ne.jp/Meiji_milestones/Meiji_Ser.html