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能 古 島  福岡市西区能古 ( 福岡県 )

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能 古 島  福岡市西区能古

能古島(のこのしま)は、博多湾の中央に浮ぶ面積3.95km² 周囲12kmの島。福岡市営渡船(フェリー)が、福岡市西区の姪浜旅客待合所(能古渡船場)と能古島を結ぶ。1日23便(日祝日は21便)、所要時間約10分、片道運賃大人230円。 
福岡市HPの文化財による説明は、次のとおり。散策地図は、西区役所編集・発行から。

6.能古島歴史ロマン散歩

博多湾内に浮かぶ西区能古島は、東西2km、南北3.5kmの南北に長いナスビ形の島で、全体が台地状を呈し、最高所の標高は195mである。これまでの調査で弥生時代の遺跡や古墳群が見つかっており、奈良時代の『万葉集』には遣新羅使や志賀白水郎の歌のとして能古島の名が登場する。歌からはこ の島に防人が配置されていたとわかる。平安時代には牛牧が置かれ(『延喜式』)、1019の刀伊の入冦の時には大きな被害を受けた(『朝野群載』)。近世の 能古島は廻船の基地として栄え、また福岡藩の鹿狩りの猟場であった。

現在の能古島は、島の南部に能古島博物館、北部の也良崎に能古島アイランドパークが整備されており、周遊コースは歴史とロマンに浸り、島の自然を楽しむ1日コースである。島へは姪浜港からの市営渡船で約10分。

能古島の古土手  福岡市西区能古 ( 福岡県 )

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能古島の古土手  福岡市西区能古

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。「能古島の鹿垣」は前記事とした。これは牛や馬を放牧していたときの名残と言われている「古土手」である。
山頂の平坦部にあるというから、展望台付近の雑木林内を探したが見つけきれない。付近の農家に聞くと、自宅のミカン畑の裏手尾根にあると、畑奥へ案内してくれた。

そこは展望台入口と思索の森入口との間の「小平谷」というバス停手前の電柱付近。バス通りからまっすぐな坂の農道(民家脇にも土塁を確認できる)と、それに続く山道が上がり、左側に古い土塁跡を確認できた。土塁上はもう大木となった木が茂り、これが山頂の方へ続いていると言う。
鹿垣説明板の中にあったオレンジ横線が、「古土手」の位置なので、「小平谷」のここも間違いないだろう。

能古島の古土手 のこのしま、ふるどて
福岡市(西区)(能古島) 馬垣(石塁) 約350m 江戸期 WEB 当初の長さは不明 牛や馬を放牧していたときの名残と言われている/鹿垣の北約600mに東西に走る 3 B

能古島の鹿垣  福岡市西区能古 ( 福岡県 )

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能古島の鹿垣  福岡市西区能古

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。能古島(のこのしま)は、博多湾の中央に浮ぶ島。福岡市営渡船(フェリー)が、福岡市西区の姪浜旅客待合所(能古渡船場)と能古島を結ぶ。1日23便(日祝日は21便)、所要時間約10分、片道運賃大人230円。
「能古島の鹿垣」説明板は、2箇所にある。能古渡船場から展望台入口に上がるバス通りの途中と、その先から左へ案内標識により奥に入る。福岡ひまわりの里への車道であるが、こちらが壮観だった。

能古島の鹿垣 のこのしま、ししがき
福岡市(西区)(能古島) 鹿垣(土塁,石垣) 東西約2㎞,高2mの土盛りの北側に30〜50㎝大の石,その前面に幅3mの溝 天保7(1836) 市教委 現存するのは長600m程度 福岡藩の鹿の狩猟場/田畑への鹿の被害が著しかったため、島を南北に分断する石垣を築いた 2 B

福岡市HPの文化財による説明は、次のとおり。

鹿 垣  西区
江戸時代の後期、能古島は黒田藩の鹿の狩猟場であった。ところが田畑への鹿の被害が著しかったため、東の北浦から西の白鳥までの東西約2kmにわたり島を南北に分断する石垣を築いた。これが現在も残る鹿垣で、天保7年(1836)に完成したという。
その構造は高さ2mの土盛りの北側に30〜50cm大の石を積み、その前面に幅3mの溝を掘ったもので、これで鹿が島の南部に出るのを防いだ。幕末にはグラバー(1838ー1911)なども訪れ、狩猟をしたというが、昭和20年頃を境に鹿は全滅した。
能古小・中学校と展望台入り口の間の道で鹿垣が切れた場所に説明板が設置されている。また鹿垣の北側、島の中央頂部に東西約350mにわたって土塁が残り、島の人は「古土手」と呼びならわしている。

櫛田神社  福岡市博多区上川端町1丁目 ( 福岡県 )

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櫛田神社  福岡市博多区上川端町1丁目

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。櫛田神社は場所がわかりにくいが、国道202号中州新橋交差点から北の裏通りに入る。境内の大銀杏の根元には、蒙古碇石(前記事)もある。

櫛田神社 (福岡市)

櫛田神社(くしだじんじゃ)は、福岡市博多区にある神社である。
概要
櫛田神社は、古くより博多の氏神・総鎮守として信仰を集めている神社である。7月の博多祇園山笠や10月の博多おくんちなどの祭事をおこなう。5月の博多松囃子(博多どんたく)は厳密には櫛田神社の祭事ではないものの、松囃子一行は櫛田神社から出発するしきたりになっている。旧社格は県社。地元の博多の人々からは「お櫛田さん」と愛称で呼ばれている。
祭神
祭神は大幡大神(櫛田大神)、天照皇大神、素盞嗚大神(祇園大神)の三神で、正殿に大幡主神、左殿に天照大神、右殿に素盞嗚神が祀られている。
その他
境内には、通例祭り期間中にしか見ることができないはずの博多祇園山笠の飾り山が、歴史を伝えるために唯一常設されている。これは、昭和35年(1960年)から『走れ!山笠』を放送し続けている九州朝日放送(KBC)が奉納している(平成22年(2010年)のKBC枠放送で紹介された)。これらもあってKBCは他局に比べ比較的有利な条件で中継を行っている。また、境内の入り口付近には「櫛田の銀杏」とよばれる樹齢約1000年の銀杏の木がそびえる。「博多祝い歌」にも謡われ、県の天然記念物に指定されている。

上川端町の碇石1・2(蒙古碇石)  福岡市博多区上川端町1丁目 ( 福岡県 )

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上川端町の碇石1・2(蒙古碇石)  福岡市博多区上川端町1丁目 

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。福岡市博多区上川端町1丁目の櫛田神社大銀杏の根元に屋外展示。場所がわかかりにくいが、櫛田神社は国道202号中州新橋交差点から北の裏通りに入る。
今、3枚目の銀杏写真の根元を見ると、前後にたしかに碇石は2本ある。私はどうやら折損修復している「上川端町の碇石2(蒙古碇石)」の方は、写し忘れたようだ。

上川端町の碇石1(蒙古碇石) かみかわばた
福岡市(博多区) (1丁目)櫛田神社 碇石(凝灰質砂岩) 長252㎝ 10-13世紀 県考古資料 WEB 屋外展示 出土地:不明/中央部から先端にかけて直線的に細くなる/弘安の元冠時に元軍軍船使用の碇石(櫛田神社の解説板による)〔平安期の日宗貿易時の宗船の碇の可能性も排除できない〕 2 B

上川端町の碇石2(蒙古碇石) かみかわばた
福岡市(博多区) (1丁目)櫛田神社 碇石(花崗岩) 長226㎝ 10-13世紀 県考古資料 WEB 屋外展示/左1/3で折損→修復 明治40に聖福寺の山門の前で井戸を堀っていて地下5mから発見 2 C

井相田の碇石(蒙古碇石)  福岡市博多区井相田2丁目 ( 福岡県 )

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井相田の碇石(蒙古碇石)  福岡市博多区井相田2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。福岡市博多区井相田2丁目の福岡市埋蔵文化財センターに展示。国道202号外環状道路の井相田1丁目交差点から県道112号に入り、板付中学校の方へ向かうと、中学校手前に市埋蔵文化財センターがある。

井相田の碇石(蒙古碇石) いそうだ
福岡市(博多区) (2丁目) 市埋蔵文化財センター 碇石(凝灰質砂岩) 長209㎝→178㎝ 10-13世紀 県考古資料 WEB 重量測定の際に折損 出土地:博多港中央阜頭西200m、水深5m/中央部から先端にかけて直線的に細くなる/全体的に加工仕上げは粗く、機能的な面のみ強調 3 C

瀬戸の渡し  桂川町瀬戸 ( 福岡県 )

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瀬戸の渡し  桂川町瀬戸

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道200号の桂川町瀬戸交差点から県道473号に入り、すぐの橋先からJR篠栗線の踏切を渡り、泉河内川の右岸の道路を南に進むと、「瀬戸の渡し」に着く。
長崎街道と秋月街道の分岐点で、追分碑と案内標識がある。瀬戸の渡しは「10間ばかりの川幅」で、旅人達は泉河内川を歩いて渡った。渡りの傍らの川波家が当時の「川庄屋」で旅人はここで休息したと伝えられている。

瀬戸の渡し せと
(嘉穂)桂川町 泉河内川 渡渉場 江戸期 町教委 土手にくぼみが残る 参勤交代の大名も通った渡渉場 3 C

郡境石・カクメ石古墳石室  飯塚市柏の森 ( 福岡県 )

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郡境石・カクメ石古墳石室  飯塚市柏の森

飯塚市柏の森の飯塚市歴史資料館の庭に屋外展示中。内容は説明板のとおり。郡境石は、横25×幅20×高さ150cm。明治の標石でもともとあった場所は、現在の市東南部「鶴三緒」付近の嘉麻郡と穂波郡の郡境界という話。明治19年両郡は「嘉穂郡」となった。

飯塚宿の舫石  飯塚市柏の森 ( 福岡県 )

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飯塚宿の舫石  飯塚市柏の森

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。飯塚市柏の森の飯塚市歴史資料館に展示。資料館は新飯塚駅の東、国道201号立岩交差点から県道402号に入るとすぐ右方にある。
舫石は2本あり。大は、横25×幅10×高さ180cm。小は、横22×幅18×高さ145cm。

飯塚宿の舫石 いいづか、もやい
飯塚市 遠賀川 船繋石 江戸期 市有形民俗 市教委 飯塚市歴史資料館に移設 宿場町と遠賀川水運の接点 3 C

芦屋海岸の洞山  芦屋町山鹿 ( 福岡県 )

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芦屋海岸の洞山  芦屋町山鹿

芦屋町HPによる説明は、次のとおり。芦屋橋から国道495号により北東へ進み、芦屋歴史の里(芦屋町歴史民俗資料館)手前の洞山入口交差点から左折し海岸側へ出る。堂山の先に洞山の島がある。

洞  山

手前に堂山、沖に洞山と2つの岩地が連なった島です。もとは満潮時には、離れた2つの島でしたが、現在はともに地続きとなっていて、総称で洞山と呼ばれています。
洞山には、永年の風化でできた高さ10m、幅12m、奥行30mの洞穴があります。周辺は、千畳敷と呼ばれる平らな岩盤が連なり、また釣り人の姿も多く見られ、干潮時には家族で磯遊びが楽しめます。