川筋道道しるべ(元・山鹿の道標) 芦屋町山鹿
サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。芦屋町役場近く、国道495号芦屋橋西から遠賀川を下流側へ行き、光明寺入口へ坂道を上がった先に、火切地蔵堂がある。この角に「筑前蘆屋宿搆口の跡」碑があり、「川筋道道しるべ」(追分石)が立つが、現在の標石は新しい御影石である。
芦屋町が平成7年頃、置き換えたもので、現物は芦屋町歴史民俗資料館の収蔵庫に保管されていた。砂岩製で破損の恐れあり、町がこのような措置を取ったということであったので、資料館で現物の標石を写させてもらった。
川筋道道しるべ かわすじ
(遠賀)芦屋町 <唐津街道> 石道標 高52㎝(欠損),18㎝角 文久元(1861) 町教委 欠損 「新町/濱口道 川筋道」 4 –
HP「お寺めぐりの友」による芦屋宿の川筋道道しるべ(追分石)の説明は、次のとおり。
芦屋宿 あしや 旧:遠賀郡蘆屋村 現:遠賀郡芦屋町 ASHIYA STA.
概要
ここでは芦屋宿より海老津を経由し赤間宿に至るルートを紹介する。
ここに『筑前國続風土記』巻之14 遠賀郡上 ◯蘆屋あしやの項の内容を引用する。
「民家多く町頻すこぶる廣ひろし。富家も亦また多し。 岡の湊の南のほとりにあり。 むかひは山鹿がの里也。 遠賀川其間をへだつ。 旅船おおく出入して、交易の利多く、民家にぎはへり。 (以下略) 」
芦屋は「葦屋」「蘆屋」とも書き遠賀川の河口に位置し、流域の産物の集散地であった。
芦屋町の歴史については、芦屋歴史民族資料館に、かなりの遺物が保存されている。
ルート
渡船場跡 → 光明寺前 → 構口 → 芦屋小学校 →(以下略)
渡し場跡
渡場跡のすぐそばには、芦屋大橋がある。当時の渡船場の痕跡は何も残っていない。芦屋大橋のたもとにある石碑の裏に書いてある内容を書く。
「筑前21宿の1邑であった芦屋と山鹿間の往来は、渡船によって永い間行なわれていたが、 明治40年1907には町営となった。 当時の渡船料は大人が6厘、牛馬1頭口付1人共1銭1厘、 自転車は乗人共1銭であった。 渡し場は幅約8メートルの石畳の斜面 になっていて、福岡までの距離を示す元標が立っていた。大正6年4月旧芦屋橋が架けられると同時に渡船も廃止された。」
光明寺前
ここまで北上してきた街道はここで90度左にカーブする。 ここより西構口までは上り坂である。 光明寺は浄土宗のお寺で境内にはイチョウの古木がある。
構口
構口には、祠と梵字石それに追分石がある。梵字石の裏には弘化2年18465月吉日の銘がある。
追分石には「左濱口通 川筋道」 と刻まれている。(文久元1861銘) この追分石は、真新しい御影石でできているが、近年置き換えられたのであろう。
(2015月11月28日 追 記)
サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり更新された。
元・山鹿の道標 やまが
(遠賀)芦屋町 町歴史民俗資料館 石道標(砂岩) 高52㎝(欠損),18㎝角 文久元(1861) 町教委 収蔵庫内に保管/頂部欠損 (正面)「… 濱口道 川筋道」、(右面下部)「新町」 4 –