月別アーカイブ: 2013年1月

「ゆうこう」の木4本?、川原木場で見つかる  長崎市宮崎町

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「ゆうこう」の木4本?、川原木場で見つかる  長崎市宮崎町

これはまた驚いた。「ゆうこう」の木がまとまって見つかった。日曜午後、N氏から電話があり、「ゆうこう」3本発見という。川原大池先の鶏放し飼い卵屋に、「ゆうこう」の実が置いてあり、どこにあったか聞き出し現地へ行ったらしい。
地図を送ってもらうと、岬木場県道大カーブ山羊小屋のは、前の記事で紹介している木だった。
https://misakimichi.com/archives/3537

バス終点川原木場公民館下の2本は、1月20日半島東回りみさき道踏査で歩いた旧県道だが、駐車場下までは見ていない。当日、N氏奥さんが見かけた木という。きのう現地へ確認に行った。一見「ゆうこう」に見えるが、皮はツルツルし果汁が甘かった。
せっかく来たから、近く一帯で「ゆうこう」を探す。あるはあるは、民家や道路や畑の脇に4本ほど見つけた。結構、大きな高木もある。住民に聞くと、このあたりでは「ゆうこう」は、一般的に植えられていたと話す。

この頃はだれも見向かず放置されているが、「ゆうこう」の木が現在も良く残されている集落である。県道上の木場公民館奥の集落も探したが、ここではほとんど見かけない。
スイートスプリングのような紛らわしい木があり、「ゆうこう」研究川上氏と再度、確認したい。

長崎の古写真考 目録番号:3863 立神ドック(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3863 立神ドック(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3863 立神ドック(1)
〔画像解説〕  超高精細画像
この写真は、長崎市街地の長崎港を挟んで西岸の立神にある、三菱会社の立神ドックである。写真右側の海の向こうに東山手居留地が遠望できるが、東山手の丘の上にすでに活水学院の明治15年創建のラッセル館が見えている。明治10年(1877)代後期の写真である。目録番号4729(整理番号93-21)の写真は、ほぼ同じ角度から撮影した写真であるが、施設の整備状況からみて、こちらの写真が5年程経たものである。ドックハウスが完成し、ドックの周りにさまざまな施設が整備されている。ドックには修理のために、戦艦が入っている。立神ドックは明治7年(1874)、フランス人技師ワンサン・フロランの指導によって構築され、明治12年(1879)に竣工した。長さ135.7m、幅33.4m、深さ、11.6mの本格的なドックである。明治17年(1884)7月長崎造船局は三菱に払い下げられ民営になった。写真は明治20年(1887)代の、三菱会社に払い下げられた後の立神ドックを撮影した写真である。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2013年1月26日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、目録番号:
3863「立神ドック(1)」の作品が、「三菱造船所の第1ドック 法規制前、自由に撮影」として掲載された。
新聞記事の解説で、今回も疑問を感じたのは、撮影者を推定する次のキャプションの部分。

「…写真の右隅に「B208 TATEGAMI DOCK NAGASAKI」と印字されています。数字の前にアルファベットがつくのは、イタリア人写真家ファルサーリか東京の鹿島清兵衛、または横浜の江南信國の写真ですが、特定できません。…」

長崎大学データベースで長崎関係をザッと調べると、数字の前にアルファベット「B」がつくのは、次の作品がある。画像が小さいのは、判読不能。
B ?   目録番号:2878 南山手ベル・ビュー・ホテル入口  撮影者:未詳
B 208 目録番号:3863 立神ドック(1)  撮影者:未詳
B 206 目録番号:4215 長崎港と中町教会(2)  撮影者:A.ファサリ
B ?   目録番号:4216 諏訪神社の鳥居(3)  撮影者:A.ファサリ
B 219 目録番号:4802 中島川と万橋  撮影者:A.ファサリ
B 222 目録番号:4803 諏訪神社の鳥居(4)  撮影者:A.ファサリ
B 220 目録番号:4804 中島川に架かる桃渓橋(4)  撮影者:A.ファサリ
B 218 目録番号:4806 南山手からの大浦居留地(4)  撮影者:A.ファサリ
B 203 目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島  撮影者:A.ファサリ
B 212 目録番号:4808 長崎ホテル(2)  撮影者:A.ファサリ
B 211 目録番号:4809 長崎駅(現浦上駅)(1)  撮影者:A.ファサリ
B ?   目録番号:4810 諏訪神社旧中門(3)  撮影者:A.ファサリ
? 227 目録番号:4813 茂木街道(5)  撮影者:A.ファサリ

「アルバム名: ファサーリ写真集」からの写真が多いため、イタリア人写真家「撮影者:A.ファサリ」としたのが多いが、はたしてそうだろうか。「東京の鹿島清兵衛、または横浜の江南信國」撮影とは、あまり考えられない。
前の記事で、数字の前にアルファベット「A」がつくのを考えてみた。今回の「B」も、もちろん「特定できません」と断っているが、「撮影者:A.ファサリ」とするのは、数々の疑問がある。ここでは、詳しく述べない。

私が調べた上記「B」リストを参考にして、長崎大学附属図書館及び「長崎今昔」執筆者において、「A」の場合とともに、撮影者の正しい研究を進めてほしい。
「証拠は存在しない。新聞発表に仮説をむやみに使うのは如何かと。…古写真は少数の専門家のものに情報が集中されていると、間違いをディスカッションによって訂正していくプロセスが失われてしまいます」との感想を聞いている。
朝日新聞「長崎今昔」で、最近4回立て続けにこのような事例があった。あえて問題としておく。

長崎外の古写真考 目録番号:6490 竹川町

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6490 竹川町

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6490 竹川町
〔画像解説〕  なし

明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋
208頁  E06 共同社
〔画像解説〕
「共同社」「近事評論」「与論新論」と書かれた看板がかかる。共同社は尾張町2丁目の南端(現銀座6丁目)にあった新聞社。手前の道は現6丁目と7丁目の間の現交詢社通りである。「近事評論」は、明治9年6月創刊で、同16年5月終刊。明治9〜15年頃。M

■ 確認結果

目録番号:6490「竹川町」は、ボードインコレクションだが、タイトル「竹川町」以外、画像解説がない。
石黒敬章著「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」角川学芸出版平成23年発行の208頁「E06 共同社」に掲載があり、画像解説は上記のとおり。

長崎外の古写真考 目録番号: 382 東京の道路

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 382 東京の道路

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 382 東京の道路
〔画像解説〕
英語で「東京」という解説だけである。

明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋
22頁  F08 吹上御苑を囲む段堀
〔画像解説〕
吹上御苑の西側と北側の内堀(半蔵門と千鳥ヶ淵)には、その内側にもう一筋、半蔵門から三日月堀まで段堀がめぐらされていた。正徳年間(1711〜1716)に掘られたらしい。写真は北側の段堀で代官町の側から西に向かって写したもの。明治10年頃か。C

■ 確認結果

目録番号: 382「東京の道路」は、英語で「東京」という解説だけである。
石黒敬章著「明治の東京写真 丸の内・神田・日本橋」角川学芸出版平成23年発行の22頁「F08 吹上御苑を囲む段堀」に掲載がある同段堀周りの直線部分の道路を、逆向きに撮影しているのではないか。

これだけの同じような長い赤レンガ塀囲みの内部は、「吹上御苑」が十分考えられる。堀の幅が狭いのは、内堀(半蔵門と千鳥ヶ淵)の内側にもう一筋、めぐらされていた「半蔵門から三日月堀までの段堀」のためだろう。
道路は広いが舗装がなく、車の多く通るような道ではない。橋が架かった入り口門もあり、場所特定を地元にお願いしたい。

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 298頁 ⅤⅠⅠ−47 長崎 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 298頁 ⅤⅠⅠ−47 長崎 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
298頁  ⅤⅠⅠ−47 長崎、1861年、カール・ビスマルクやアウグスト・ザハトラーの写真に基づく版画。ⅤⅠⅠ−51の右側を参照。 
〔図版目録〕
作者不詳、「長崎の墓山から望む谷」、1864年。カール・ビスマルクやアウグスト・ザハトラーの写真に基づく木版画、1861年。出典:Spiess,215.
〔図版解説〕  なし

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
300・301頁  ⅤⅠⅠ−50 長崎全景のパノラマ写真、1861年。
300・301頁  ⅤⅠⅠ−51 長崎全景のパノラマ写真、1861年。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

298頁の「ⅤⅠⅠ−47 長崎」は、1864年の木版画。図版目録では、作者不詳、「長崎の墓山から望む谷」となっている。図版解説はないが、「ⅤⅠⅠ−51(50?)の右側を参照」とある。

「ⅤⅠⅠ−50」は、風頭山山頂近くからの長崎全景のパノラマ写真。1861年、カール・ビスマルクまたはアウグスト・ザハトラー作とされる。東京都写真美術館所蔵。
この右側の部分が、木版画と同じで、風頭山山頂近くの墓地から、新大工や西山方面を描いていることがわかる。春徳寺も確認できるようである。

一方、「ⅤⅠⅠ−51」は、同じ作者とされる長崎港の対岸、稲佐方面からの長崎全景のパノラマ写真。1861年当時の稲佐崎や丸尾海岸の様子がわかる。これには水の浦の入江や飽の浦の恵美須神社までは写っていない。
実際の撮影場所は、稲佐山中腹のホテル清風近くのピークか、水の浦トンネル上天狗岩あたりからと思われる。

長崎大学データベースには、「ⅤⅠⅠ−50」については、若宮神社の鳥居が写った作品があり、背景の景色を対比してもらいたい。この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2193
https://misakimichi.com/archives/2389

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 298頁 ⅤⅠⅠ−46 長崎

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 298頁 ⅤⅠⅠ−46 長崎

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
298頁  ⅤⅠⅠ−46 長崎、1861年、カール・ビスマルクやアウグスト・ザハトラーの写真に基づく版画
〔図版目録〕
作者不詳「長崎」、1864年、カール・ビスマルクまたはアウグスト・ザハトラーの写真に基づく木版画。出典:(略)
〔図版解説〕 なし

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

298頁の「ⅤⅠⅠ−46 長崎」は、木版画。図版解説はないが、これは、長崎市鍛冶屋町の「清水寺」(図左側に石門のある寺)の方を、東小島町「正覚寺」下あたりの旧茂木街道の道から眺めて描いている。
長崎大学データベースには、目録番号: 995「長崎清水寺(2)」のような古写真が13点ある。

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 253頁 ⅤⅠ−A−30 段丘の寺院

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 長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 253頁 ⅤⅠ−A−30 段丘の寺院

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
253頁  ⅤⅠ−A−30 長崎 段丘にある寺院
〔図版目録〕
「長崎 段丘にある寺院」 (図録『Ansichten』第5冊、図版30) 1869年
/フォトリトグラフ、ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作。

〔図版解説〕 30 長崎 段丘にある寺院
町の北部は高い段丘が連なり、そこを登っていくと、いくつかの寺院に通じている。そこからは町や湾が見渡せて、すばらしい眺めである。図録 25 を描いた地点は、この寺院のすぐ近くである。本図では、寺院の本殿はその側面を見せている。本殿の前は鬱蒼とした針葉樹におおわれた広い段丘には、青銅の燈籠、井戸小屋、それに多くの墓標がある。

その多くはまとまって垣根の仕切の中に入っているが、これは高貴な人びとの先祖の墓なのであろう。松の枝を通して見えるのが最高位の人の墓である。その下、第2番目の段丘には表門がある。その手前にあるのが僧侶の住居である。その先にある第3の入り口からは、無限に長い階段が続いて町にまで通じている。

— 出島はこの図でも見える。白い家があるのでその見分けがつく。
— 本図の手前にも、墓石のたくさんある墓地がある。そのうち、寺院に一番近い所には、特別大きくまた形もとりわけ目立つものが見えている。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

253頁の「ⅤⅠ−A−30 長崎 段丘にある寺院」はフォトリトグラフ。町の北部にあり、「図録 25 を描いた地点(注 立山)は、この寺院のすぐ近くである」と解説している。
これは、長崎市筑後町の「本蓮寺」を、左横の墓地から描いている。したがって、寺院の本殿などは、その側面を見せている。
「その下、第2番目の段丘には表門がある」とは、「二天門」のことである。

「本蓮寺」は、長崎原爆により本堂などすべて焼失したが、「二天門」の礎石は、現在も残っている。勝海舟寓居の地でもある。
長崎大学データベースの目録番号:3870「長崎の墓地(3)」が、超高精細画像の画像解説どおり、「本蓮寺の墓地」である。この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2283
https://misakimichi.com/archives/3161

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 251頁 ⅤⅠ−A−29 南部の墓地

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 長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 251頁 ⅤⅠ−A−29 南部の墓地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
251頁  ⅤⅠ−A−29 長崎 町の南部にある墓地
〔図版目録〕
「長崎 町と港」 (図録『Ansichten』第5冊、図版29) 1869年
/フォトリトグラフ、ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作。

〔図版解説〕 29 長崎 町の南部にある墓地
ここに描かれた墓地は、長崎の南に広がる山腹にあり、先の図よりさらに奥の部分にあたる。麓には寺院が軒をつらね、そこは町の中心から南へ向う道路の突当りにあたっている。境内には、鐘楼、湯殿、それに僧侶の住宅がある。屋根は萱葺きのものもあるが、多くは灰色の瓦葺きで、それらはところどころ模様をつけたように白いモルタルで接合されている。

古木のあるものは、蔦をいっぱい身にまとい、まるで甲羅をかぶっているようである。段丘の石垣や墓石もすっかり蔦におおわれている。墓の中で新しいものは、風雨をさけるため木の屋根をつけている。— 図の左には楠が立っている。手前右の椰子科の植物は棕櫚である。  

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

251頁の「ⅤⅠ−A−29 長崎 町の南部にある墓地」はフォトリトグラフ。「ここに描かれた墓地は、長崎の南に広がる山腹にあり、… 麓には寺院が軒をつらね、そこは町の中心から南へ向う道路の突当りにあたっている」と解説している。

これは、長崎市鍛冶屋町の「大音寺墓地」を描いていると考えられる。右側中間の尾根は西小島の「大徳寺」あたりの丘となり、長崎港の一部が見え、対岸の山は特徴ある「天門峰」だろう。
写真の右下の大屋根が「大音寺」、中央左の大屋根が隣りの寺「大光寺」とすると、位置関係は合う。寺院の付属建物は変わり、墓地も改築されていて、なかなか同じような景色を写せない。

参考として掲げるのは、江崎べっ甲店所蔵の上野彦馬初期撮影写真「長崎の町から長崎港方面を望む」。長崎大学付属図書館関係者が解説しているが、撮影場所は間違いである。
これが大音寺の隣り、「大光寺」墓地から写した場合の景色となるので、対比をお願いしたい。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2822

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 243頁 ⅤⅠ−A−25 長崎 町と港

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 長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 243頁 ⅤⅠ−A−25 長崎 町と港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
243頁  ⅤⅠ−A−25 長崎 町と港
〔図版目録〕
「長崎 町と港」 (図録『Ansichten』第4冊、図版25) 1869年
/フォトリトグラフ、ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作。

〔図版解説〕 25 長崎 町と港
この図を描いた地点は、図録 23 のそれよりずっと低い所である。町の大部分が見渡されるが、それでもなお図の右手の山腹の後ろにはいくらか町が隠れている。そこでは谷が口をあけており、その平坦な地は、そこを流れる川によって造られた沖積地であるらしい。

— 右手には町の一部が見える。奥の方の突き出た所は出島である。その背後、小さな入江を隔てた向い側に、外国人の新居留地が見える。この町の東と南から流れる二つの小川は、一部が運河に入り、それが湾のこの部分に注ぎ込んでいる。
— この湾の右岸(図に向かって右側)に樹木の生えた岬があるが、その後ろにロシア人の居留地稲佐がある。またそれに続く前山に隠れて、肥前侯の造船所がある。
— プロイセン軍艦アルコーナ号とテーティス号は、この湾のほぼ中央に停泊した。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

239頁の「ⅤⅠ−A−25 長崎 町と港」はフォトリトグラフ。「この図を描いた地点は、図録 
23 のそれよりずっと低い所である。町の大部分が見渡される」と解説している。
すなわち、前掲した「図録 23」を描いた金比羅山の前山「天狗山」から、ずっと南西へ下る。「立山」という景勝地から描かれた作品であろう。現在のJR長崎駅から見て真上の山である。

長崎県営バスの立山終点から、ホテル長崎左側の墓地の道へ下る。すぐ近くで一番古い「西勝寺の無縁諸霊墓」がある所があり、港口の山の稜線重なりを考えると、このあたりから描かれたと思われる。現在の画像は、ズーム拡大。
この「図録 25」には、手前左に寺院らしい屋根が描かれている。聖福寺など考えられるが、検証が必要。
F.ベアトや上野彦馬も、立山から同じような景色を撮影している古写真がある。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2328

長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 239頁 ⅤⅠ−A−23 長崎湾

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長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 239頁 ⅤⅠ−A−23 長崎湾

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
239頁  ⅤⅠ−A−23 長崎湾
〔図版目録〕
「長崎 港湾」 (図録『Ansichten』第4冊、図版23) 1868年
/フォトリトグラフ、ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作

〔図版解説〕 23 長崎 港湾
この湾は、入口は西に向き細長く延びた内港をなしており、しかも小さな入江がたくさんある。港口は狭くしかも前島に入口を守られており、海岸は高い岸壁なので、水面は概して湖のように静かである。それゆえ大船にとっては安全な停泊地となっている。とはいえ、大暴風雨がしばしば大災害をもたらすことがある。

町は湾の一番奥、湾口の向い側にある高い山々の麓にある。このスケッチは金比羅という丘から描いた。左手前に、出島を含む町の一部がある。その奥は外国人の新居留地である。ロシア人居留地—墓地と2,3の倉庫—、それに肥前侯の造船場は向い側の北岸にある。町に密接して寺院と墓地のある山腹があり、また耕地は水際から段丘状をなしてかなりの高さの所まで延びている。

山の頂きは大部分常緑の潅木におおわれている。船の出入の多いこの湾の岸辺を縁取るのは、数多くの寺院、村落、堡塁である。けれども、森がまっすぐに切り立った海岸に迫るほかの小さな入江には深い静けさがある。そこは、小さな漁村が入江の隅に隠れるように点在するのみなのである。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

239頁の「ⅤⅠ−A−23 長崎湾」はフォトリトグラフ。「このスケッチは金比羅という丘から描いた」と解説している。金比羅山といっても、どの場所からだろうか。
長崎港の全体を俯瞰し、遠くに野母の権現山まで見える。かなり高い地点である。金比羅山の山頂ではなく、中腹の金比羅神社から150mほど歩く。

明治7年(1874)、フランス隊が金星太陽面通過観測が行うこととなった金比羅山の前面の山、「烏帽子山」(「天狗山」は山名誤り)と呼ばれるピークからの景色と思われる。現在の画像は、ズーム拡大。
現在は展望台ができ、ピラミッド型観測碑がある一帯は、長崎県指定史跡となっている。