長崎の古写真考 ドイツが観た幕末日本 253頁 ⅤⅠ−A−30 段丘の寺院

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 長崎の幕末・明治期古写真考 ドイツが観た幕末日本 253頁 ⅤⅠ−A−30 段丘の寺院

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

プロセイン・ドイツが観た幕末日本
253頁  ⅤⅠ−A−30 長崎 段丘にある寺院
〔図版目録〕
「長崎 段丘にある寺院」 (図録『Ansichten』第5冊、図版30) 1869年
/フォトリトグラフ、ヴィルヘルム・コルン・フォトリトグラフ研究所製作。

〔図版解説〕 30 長崎 段丘にある寺院
町の北部は高い段丘が連なり、そこを登っていくと、いくつかの寺院に通じている。そこからは町や湾が見渡せて、すばらしい眺めである。図録 25 を描いた地点は、この寺院のすぐ近くである。本図では、寺院の本殿はその側面を見せている。本殿の前は鬱蒼とした針葉樹におおわれた広い段丘には、青銅の燈籠、井戸小屋、それに多くの墓標がある。

その多くはまとまって垣根の仕切の中に入っているが、これは高貴な人びとの先祖の墓なのであろう。松の枝を通して見えるのが最高位の人の墓である。その下、第2番目の段丘には表門がある。その手前にあるのが僧侶の住居である。その先にある第3の入り口からは、無限に長い階段が続いて町にまで通じている。

— 出島はこの図でも見える。白い家があるのでその見分けがつく。
— 本図の手前にも、墓石のたくさんある墓地がある。そのうち、寺院に一番近い所には、特別大きくまた形もとりわけ目立つものが見えている。

■ 確認結果

日本とドイツの修好通商条約が調印されたのは、1861年1月24日。
日独交流150周年を記念して、ドイツ東洋文化研究協会(東京)から、セバスティアン・ドブソン & スヴェン・サーラ(編)「プロセイン・ドイツが観た幕末日本 オイレンブルグ遠征団が残した版画、素描、写真」が、2012年2月発行されている。
(長崎県立図書館に蔵書あり、日独英3ヵ国語訳)

1860年、日本との外交・経済関係を結ぶべく4隻の軍艦からなる艦隊が東アジアに向かった。ドイツ初の日本訪問使節団である。オイレンブルグ伯爵率いる遠征団に、お抱え絵師のアルベルト・ベルグ、素描家のカール・ビスマルクとアウグスト・ザハトラーが同行し、長崎も訪れた。
この本は、遠征時に彼らが制作したリトグラフ、素描、写真を紹介している。

253頁の「ⅤⅠ−A−30 長崎 段丘にある寺院」はフォトリトグラフ。町の北部にあり、「図録 25 を描いた地点(注 立山)は、この寺院のすぐ近くである」と解説している。
これは、長崎市筑後町の「本蓮寺」を、左横の墓地から描いている。したがって、寺院の本殿などは、その側面を見せている。
「その下、第2番目の段丘には表門がある」とは、「二天門」のことである。

「本蓮寺」は、長崎原爆により本堂などすべて焼失したが、「二天門」の礎石は、現在も残っている。勝海舟寓居の地でもある。
長崎大学データベースの目録番号:3870「長崎の墓地(3)」が、超高精細画像の画像解説どおり、「本蓮寺の墓地」である。この項は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2283
https://misakimichi.com/archives/3161