長崎名勝図絵の風景  24  本 蓮 寺

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長崎名勝図絵の風景  24  本 蓮 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
長崎市筑後町の「本蓮寺」は、長崎原爆により本堂などすべて焼失したが、二天門の礎石は、現在も残っている。勝海舟寓居の地でもある。
本蓮寺は本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1568

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

173  聖林山本蓮寺   (文献叢書 162〜165頁  所在地 長崎市筑後町)

長崎の北 茶臼山の下にある。もと船津村の内で、元亀天正の頃から切支丹の邪徒が横行し、三壽庵という大寺を建てていた処である。…その後元和6年(1620)僧日慧 本端院と称す。肥後熊本の産。大村本経寺を開き、住持であった。 が大村から来て、ここに法華布教の基地とし、邪教徒の教化に奔走した。…次第に心服して、佛教に転ずる者が多くなった。そこで官命により寺を建てることになり、京都本国寺の末寺として、聖林山本蓮寺と号した。寛永18年(1641)寺地が増されたので、堂宇が再建された。大村純宣〔21代純信〕公と長崎代官末次平蔵茂房が財を喜捨し、これを捐けた。…元禄11年(1698)堂宇修復中、市中大火があり、当寺も類焼々失してしまった。その後久しく仮堂であったが、宝永4年(1707)九代日随の時、財を募って再建されたのが、今の伽藍である。…