長崎名勝図絵の風景  25  聖 徳 寺

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

長崎名勝図絵の風景  25  聖 徳 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
爆心地に近い長崎市銭座町の「聖徳寺」は、原爆により焼失。戦前の寺の姿を寺所蔵写真から写させてもらった。本堂両脇の石燈籠だけ残り、原爆落下中心地公園に移設されている。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

174  天王山聖徳寺法輪院 (文献叢書 163〜168頁  所在地 長崎市銭座町)

浄土宗 鎮西派の寺。馬籠村 村の上の山を有馬岳という。昔有馬軍が駐屯していたという。村の名もこれによる。 尾上にある。始めは稲佐の坊山 一名鵬ヶ崎(ぼうがさき)稲佐岳の北の麓にある。 にあった。言い傳えでは、この寺はもと巌屋山三十六坊 三百坊ともいう の一であったが、永年のうちに寺も廃れて、村主の宅となっていた。寛永3年(1626)僧専誉 悟真寺二代 がここに寺を再興し、のち今の地に移建した。専誉は筑後善導寺の弟子で、その関係から善導寺の末寺となった。背後は海岸で、松樹生茂り、海の中に突き出た地形は、丁度島を見るようで、鐘の音は松風に和して、海上の漁舟に響き渡り、誠に秀れた景色である。〔長崎八景聖徳晩鐘…〕