長崎名勝図絵の風景 26 圓 福 寺(山王神社)
「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)
本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
白巖山圓福寺は、現山王日吉神社である。一本足鳥居は、原爆の風圧によって片方の柱と上部の笠石などが崩壊し、その凄まじさを今に伝える。被爆クスノキも生きている。
被爆写真は、山王神社境内の展示作品から。
長崎名勝図絵 巻之三 西邊之部
179 白巌山観音院圓福寺 (文献叢書 169〜170頁 所在地 長崎市坂本2丁目)
浦上村山里郷の内にある。新義真言宗 延命寺末寺。地名は坂本。寛永15年(1638)松平伊豆守信綱が、島原の賊徒を征伐しての帰途、ここを通られた時、代官末次茂房を顧みて、景色が比叡山々麓に似ているし、地名も偶然坂本といい、これも一致するから、山王を祀るがよかろう。と言われたので、末次代官は堂を建て僧龍宣 延命寺の開基 を開創とした。然し附近は墓地が多いので、慶安5年(1652 承応元年)第二世法印尊覚が、今の地に移して社殿を建てた。一説には、山王社はもと白山の岡にあったという。岡は、浦上川橋口に臨む地である。その側を塔の尾という。圓福寺の旧跡であったので、山王社とした。永年のうちに荒廃していたので、ここに建てた。…