長崎名勝図絵の風景  27  浦上村梁白魚

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長崎名勝図絵の風景  27  浦上村梁白魚

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
浦上村山里「やなの川」ではあるが、図絵に描かれた場所がわからない。「この辺りの里の名にもなっている」という現在の町名「梁川町」は、渕村でたしかに対岸の少し下流側に存在する。
HP「広助さんの丸山歴史散歩」によると次のとおり。「浦上村山里」が?。

E-156:梁川(やながわ)
江戸時代、浦上川の下流部にあたるこの地域は流れも緩やかで白魚漁が盛んに行われていました。付近は周囲を竹で渡し堰を作り魚の集まる場所が作られ網を沈めて仕掛けが作ってありました。そうして網を引き揚げひしゃくですくい上げるように獲るのです。この仕掛けを梁(ヤナ)といい、梁がある川を梁の川、いつしか梁川と呼ばれるようになります。この白魚漁は早春のころ最盛期を迎え、連日行楽客で賑わい、白魚の味は天下一と称されるほどでした。
昭和41年(1966)旧 竹の久保町の一部が町界町名変更によって梁川町が誕生します。

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の102頁に掲載された、「白魚とりの浦上川」大正の中期・浦上川?の古写真があり、浦上川と下の川が合流する現川口町の川岸あたりの現在の風景を、この記事には載せる。
この古写真は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/3111

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

183  梁 白 魚  (文献叢書 171〜176頁  所在地 長崎市川口?町)

やなの川は浦上山里村にある。流れ清く、余り深くない。川中の処々に網を置いて、白魚を取る。網は蚊帳の布のようなものを用い、四手に竹を組みわたし、緒縄をつけて杭にかけ、魚の集まるような場所に卸しておいて、時々これを引揚げては杓ですくいとるのである。網を置く所の側には藁小屋を作って仕事場にする。梁は魚を取る道具の名である。この川は、古くは別の名があったに違いないが、白魚の名所となったので、やな川と呼ばれるようになったのであろう。今はこの辺りの里の名にもなっている。この白魚は、正月の初めから出て、二月彼岸の頃が最盛期となる。だから毎年その時期ともなれば、毎日のように行楽の人が来て、川の近くの家は勿論、水のない所は川の中でもどこでも、毛氈や莚を敷き、弁当をひらいて賑わう。…