長崎名勝図絵の風景  28  神 通 寺(岩屋神社)

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長崎名勝図絵の風景  28  神 通 寺(岩屋神社)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

193  巌屋山神通寺  (文献叢書 180〜184頁  所在地 長崎市虹が丘町)

長崎の西北二里ほどで、ここは大村領になる 長崎の領外ではあるが、春には長崎の人の行楽地となる。故にこれを載せる。… 山は嶮しく深く、登るのに難渋するが、山上は平らにひらけて、遠望が利く。周囲の山々から、海上の島々漁舟に至るまで、すべて一望のもとに見遥かし、誠に絶景である。大権現の三字を刻む碑があったが、今はなく、石仏の像があるだけである。往古妙見感応の地で、崇岳廃寺 … と表裏をなしていた。下に寺があり、旧は神通寺と称していた。… 36の支院があったが、皆壊滅した。言い伝えでは、行基菩薩が山を開き、北朝観応元年(1350 南朝貞和5年)将軍足利尊氏が修理を加え、料地を附した。…

万治3年(1660)大村純長公が寺を再建され、僧尊覚をして中興たらしめ、今の名に改めて神通寺と号した。寺内には本地大日堂があり、少し登ると山の傍に石窟がある。数十人は入れる広さである。仙人窟という。大きな足跡が横面についている。巌屋山の名は、この石窟からきている。… 毎年正月にこの山に登ると、運が開らけるといわれ、正月の5,6日から15日頃まで、多数の参詣者が道に連らなり、互に、呼び合う声が、山にこだまし、谷に響く。山上、寺前には茶店が出て、そうめんの煮売、菓子果物等を売るという賑わいである。五里七里の遠い所からも登山者が来る。帰路は裏道をとって、西南に下だり、梁の川辺を逍遥する者が多い。裏道の傍に、神山、圓山等の地名がある。言い伝えでは、昔圓山にかきあげ城〔軽易で臨時的な築上げの砦〕があり、堀切の跡が今もあるという。