月別アーカイブ: 2012年10月

長崎の古写真考 彦馬の世界 153P 飽の浦恵美須神社

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 153P 飽の浦恵美須神社

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 153P 飽の浦恵美須神社 (長崎大学附属図書館蔵)
明治10年(1877)頃撮影。鶏卵紙。対岸側は出島で、これと同じアングルで明治5年(1872)に内田九一が撮影している。写真の左側に飽の浦町の集落、対岸は長崎市街中心部の海岸線である。左側の山は金比羅山・立山である。現在は海岸線は埋め立てられ、写真でのみ当時をうかがうことができる。

目録番号: 5312 飽の浦恵美須神社(6)
〔画像解説〕
明治10年(1876 「1877」が正)頃、長崎の稲佐にあった飽の浦神社(恵美須神社)を撮影したもので、同じアングルで明治5年(1872)天皇巡幸に随行した内田九一が撮影しているが、比べてみるとこの写真では神社横の民家の屋根が壊れている。社屋は消滅しているが神社は現存している。

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
153P「飽の浦恵美須神社」は、内田九一の作品とされる解説を参考に記している。両作品ともこのカメラの方向では、出島や梅香崎までは写らないので、「対岸側は出島」とはならない。
風頭山すらまだ写真の右外だから、対岸は大黒町・五島町・大波止あたりまでであろう。

飽の浦恵美須神社の左右が「飽の浦町」の集落。主な集落は右側。左は当時「瀬の脇」といった。左奥に水の浦、そして大鳥崎、稲佐崎があった。
長崎大学データベースでは、目録番号: 5312「飽の浦恵美須神社(6)」の作品。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2833
丸尾海岸の埋め立て状況と年代、内田九一とされる天皇巡幸の際の作品撮影者は、まだ研究の必要があり、東京の先生など現在、調査中。

長崎の古写真考 彦馬の世界 141P 中島川と桃渓橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 141P 中島川と桃渓橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 141P 中島川と桃渓橋 (長崎大学附属図書館蔵)
明治中期撮影。鶏卵紙。
長崎市を流れる中島川(二股川)の左右からの川の合流点、桃渓橋付近の風景を撮影したものである。写真左奥から三つ山、健山(たてやま)、烽火山が見える。また、その山の下の茂った樹木のあたりが伊勢宮神社の楠である。写真左手前より白壁の蔵、唐船海上祈願灯、松の木、不動明王堂、桃渓橋と続き148ページの写真を引いた撮影である。

目録番号:5305 中島川と桃渓橋(2)
〔画像解説〕
二股川(中島川)桃渓橋付近の風景である。現在は一般に中島川と呼ばれている。写真の右側樹木手前のところが日見峠方面からの川、銭屋川(中島川)との合流地点である。桃渓橋は堂門川に延宝7年(1679)永島仁左衛門こと僧ト意が出来大工町に架けた長さ12.4m、幅3.4mのアーチ石橋である。大井手橋の上から中島川二股を撮影したものである。写真中央の奥には健山(たてやま),その左側奥に三つ山,右側に烽火山への稜線が見える。また、右側人家後ろの樹木は、伊勢宮神社の楠の大木である。堂門川(中島川)と銭屋川(中島川)の合流点角の岸には川へ下りる階段が設けられている。目録番号2130及び4804(整理番号47-33及び95-3)より古い写真である。写真左側には、手前から白壁の蔵,唐船海上安全祈願灯,松の大木,不動明王堂等が見え、江戸時代の名残を止めている。

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
141P「中島川と桃渓橋」は、撮影場所の説明を具体的に、「…148ページの写真を引いた下流「大井手橋」上からの撮影である。」とかならないだろうか。
背景の山は、右に「烽火山」の山頂までは写っていない。

長崎大学データベースでは、目録番号:5305「中島川と桃渓橋(2)」の作品。
現在の写真は本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2455

長崎の古写真考 彦馬の世界 27P 長崎高島炭鉱 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 彦馬の世界 27P 長崎高島炭鉱 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬の世界 27P 長崎高島炭鉱 (日本大学芸術学部蔵)
明治初期撮影。鶏卵紙。

上野彦馬の世界 27P 長崎高島炭鉱・二子坑 (日本大学芸術学部蔵)
明治初期撮影。鶏卵紙。

目録番号:2415 高島炭鉱南洋井坑

■ 確認結果

上野彦馬の古写真集「レンズが撮らえた 幕末の写真師 上野彦馬の世界」が、山川出版社から2012年8月発行されている。
27P上「長崎高島炭鉱」は、高島炭鉱でも、「尾浜坑」の明治20年頃の積み出し港の風景。
27P下「長崎高島炭鉱・二子坑」は、「二子坑」ではなく、「南洋井坑」の立坑の風景である。
長崎大学データベースでは、目録番号:2415に「高島炭鉱南洋井坑」としてある。

長崎市高島町「石炭資料館」展示の説明パネルと、現地の確認写真を載せる。
古写真所蔵の日本大学芸術学部と写真集の監修者は、正しく解説していただかないと、地元は困る。次HPも参照。
http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/takasima-tankoo01.html
http://www1.cncm.ne.jp/~m8512215/hasima/tkosyasin03.html

謎の隧道遺構 トンカラリン  熊本県玉名郡和水町

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謎の隧道遺構 トンカラリン  熊本県玉名郡和水町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説、及び現地説明板は、次のとおり。
江田船山古墳公園入口前の県道反対側の山手にある。タンタン落しと呼ばれる開口部周辺(写真なし)から始まり、丘上の鶯(菅?)原神社の手前に出て一連のトンネルは終わっている。
和水町HP観光マップ〔29〕の記事も参照。  http://map.kumamoto-net.ne.jp/nagomi/

トンカラリン

トンカラリンは、熊本県和水町にある隧道(トンネル)型遺構である。江田船山古墳(国の史跡)がある清原(せいばる)台地に位置し、全長は464.6メートル、自然の地隙や人工の石組暗渠で構成されている。「トンカラリン」の名称は、穴に石を投げ込むと「とんからりん」という音が聞こえることからつけられたという説と、朝鮮語由来という説がある。[1]

建造目的
トンカラリンに関しては民間伝承もなく、排水路説、古代信仰遺跡説、朝鮮的信仰遺跡説などの諸説があるが、未だに定説はない。熊本県教育委員会は1974年に現地調査を行い、1978年3月に「近世の排水路」との調査報告書を一旦は発表したが、用水路説と信仰遺跡説も検討すべきと将来の検討にゆだねている。[2]2001年に同教委と当時の菊水町教育委員会が再調査し、「排水路」にしては不都合な点が多すぎるとして、現在は再び「謎の遺跡」とされている。この調査では第2のトンカラリンが2001年に発見され[3]、さらに第3、第4のトンカラリンが埋蔵されている可能性も指摘されている。

1975年5月にトンカラリンを訪れた[4]作家の松本清張は、魏志倭人伝の一節からトンカラリンが邪馬台国の卑弥呼の鬼道であるとの説を唱えた。この説の発表は、トンカラリンの存在が広く知られるきっかけとなった。[5]

トンカラリン シンポジウム
2001年10月29日に、菊水町 現和水町(なごみまち)における熊本県県民文化祭において、トンカラリン シンポジウムが開かれ、当時までの研究が総括された。[6]井上辰夫筑波大学名誉教授、古閑三博熊本県文化財保護審議会委員、飯田精也、大田幸博、井上智重、出宮徳尚が出席した。井上辰夫は穴に潜って出ることは俗から正、死から正への転換で、トンカラリンはこの秘儀と結びついているだろうと述べた。古閑、飯田は地裂は地震でなく、雨でも起こることを述べ、排水路説を否定、大田も地裂を重要視、出土遺物を検討しその使用は江戸時代の初期を下限とすると述べた。上限は中世とした。

広島のトンカラリン 広島県東広島市安芸津町三津信僧にも同名の隧道型遺構が存在するが、これは、熊本のトンカラリンにちなんで名付けられたものである。

文 献
・古閑三博 『夢、甦る 謎の隧道(ずいどう)遺構トンカラリン』1994 三弘会
・古閑三博 『続(しょく)夢、甦る 謎の隧道(ずいどう)遺構トンカラリン』2003 三弘会

謎の隧道遺構  トンカラリン

菊水町・瀬川鶯原神社近くから始まるこの遺構は、全長445.6mでトンネル状の地隙や、地下道のような石組み暗渠等が組み合わさった実に不思議な構造物である。
昭和五十年代に、作家の故松本清張氏が現地を調査して、邪馬台国が記された『魏志倭人伝』(三世紀に書かれた中国の歴史書)の一節から、『シャーマニズムに関係した鬼道ではないか』と推論したことで、全国的にその名が知られた。しかし、その後の『排水路説』により、ブ−ムは沈静化へ向かった。
再び、トンカラリン論争が甦ったのは、県北部を襲った平成五年六月の集中豪雨以降である。この時、県北の排水路が甚大な被害を受けたが、トンカラリンには一切の被害が無く、それは大した水が流れなかった事を意味していた。そこで、農業土木の見地から、今一度、詳細な再調査が行われる事になった。結果として排水路説には、余りにも矛盾が多いことが判明したのである。
(1)上部の台地面積が狭いので、流れ出す雨水量は少なく、谷部に、大規模な排水路を造る必要がない。雨水を取り込みやすいオープンカッ卜の素掘り溝で十分である。
(2)今日、トンカラリンを築いた場合、工事費の積算額は、二億円近くにもなる。これに見合うだけの経済効果を見い出せない。
(3)排水路は、できるだけ連続的な造りが望ましい。しかし、トンカラリンは、実に数多くの湾曲箇所を伴って蛇行を繰り返している。
(4)石組の構築物に、災害箇所(地隙)が取り込まれており不自然である。排水路施設は、この様な造りをしない。
(5)地隙内に積まれた切り石や、石組み暗渠下部の変化点における角部の整形など、排水路に不自然な飾り箇所がある。面取りされた切り石は常に闇の中にあり、角部には則られて、丸みを帯びている。
この様に、トンカラリンは再び、我々に問題を投げかけるのです。皆さんも、是非、この謎解きに挑戦して下さい。     和 水 町

階 段
石の階段7段がある。のぼりつめれば70センチ四方のあまりの石の隧道となり人は這って通りぬけることができる。横穴式石室との類似を指摘する説もあるがよく判らない。
小さな土師器片が発見されたが今のところ出土品はない。

肥後民家村  熊本県玉名郡和水町

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肥後民家村  熊本県玉名郡和水町

江田船山古墳公園内の「肥後民家村」。熊本県着地型観光サイト「体験!くまナビ」は、次のとおり。入場無料。
旧境家住宅は、国指定重要文化財(昭和48年2月23日指定)。熊本県玉名郡玉東町原倉にあった民家。建築年代は文政13年(1830年)で、内部には玉名地方の生活用具や農具が展示されている。

肥後民家村(江田船山古墳公園内)

「肥後民家村」は、全国各地に残る古民家を移築した浪漫あふれる広大な村。上杉謙信に仕えた「旧布施家」(豪農屋敷)をはじめ「旧緒方家」(明和2(1765)年)、「旧境家」(文政13(1830)年)など貴重な屋敷が多く、体験工房と古民家ではガラス、木工、陶芸、能面などを手がける職人&アーティストがギャラリーや作業場として利用しています。それぞれ見学や体験できるほか、古民家での宿泊も可能。 
また、敷地内には江田船山古墳、虚空蔵塚古墳(共に国指定重要文化財)など数々の古墳が点在。金銅製冠帽、銅鏡6面、くつわ、大刀など驚くほど貴重な遺品が多数出土しています。…

和水町歴史民俗資料館  熊本県玉名郡和水町

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和水町歴史民俗資料館  熊本県玉名郡和水町

江田船山古墳公園内の「和水町歴史民俗資料館」。和水町HPは、次のとおり。
発掘出土品の記事は、熊本県 HP(地域振興部文化企画課 博物館プロジェクト班)「地域発 ふるさとの自然と文化 江田船山古墳 和水町」を参照。
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/  玉名 史跡・遺跡 2009年11月30日記事。

和水町歴史民俗資料館
〒865-0136 和水町江田302(肥後民家村内) TEL(0968)86-4564
開 館 午前9時〜午後5時 (入館は午後4時30分まで)
休館日 月曜日 ※月曜日が祝日の場合はその翌日
入館料 無料
展示内容
先土器時代から古墳時代までの出土品を時代別に展示。縄文・弥生時代の土器や古墳時代の土師器・須恵器。また、江田船山古墳出土の冠帽・沓・装身具などの国宝のレプリカを展示しています。

江田船山古墳  熊本県玉名郡和水町

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江田船山古墳  熊本県玉名郡和水町

四国の帰り、2012年10月4日に「江田船山古墳公園」へ寄った。公園内の歴史民俗資料館・肥後民家村などは別掲。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

江田船山古墳
所在地 熊本県玉名郡和水町江田

江田船山古墳(えたふなやまこふん)は、熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)に所在する前方後円墳。清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳で、日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出土したことで著名である[1]。国の史跡に指定されている。

概 要
この古墳は、5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推測され、墳丘長62メートル[注 1]あり、盾形の周濠をもつ。古墳は1873年(明治6年)以降発掘され[2]、豊富な副葬品が出土している。これらの大部分は東京国立博物館に所蔵され、1965年(昭和40年)に国宝に指定されている[2]。

古墳の周りには、短甲[3]を着けた武人の石人が配置されている。このような古墳の周りに石人・石馬を配置するという独特の型式は、石人山古墳[4]に始まり、6世紀前葉の岩戸山古墳[5]で最盛期を迎え、以後、消滅する。この岩戸山古墳が527〜8年にヤマト王権(継体朝)と闘って敗北した筑紫君磐井の墓であると目されている。江田船山古墳も筑紫君一族の配下に連なって地域の中首長の墓であったことが想像できる。なお、最近の研究では、この古墳の被葬者は3名であると考えられている[1]。

史跡指定
1873年(明治6年)、地元の人物・池田佐十が「夢のお告げ」を受けて古墳を掘ったことが、江田船山古墳出土品発見の端緒となった。明治政府は白川県(現:熊本県)と交渉の上、発掘品を左十から当時の金額90円で買取り、博覧会事務局(現:東京国立博物館)に移した。[1]

整形をなし、しかも特殊な外観を示し、後円部に組合式家形石棺が置かれ、とくに銀象嵌銘の鉄製大刀が出土したところから古代文化を知るきわめて重要な遺跡として1951年(昭和26年)6月9日、国の史跡に指定された。

なお、1975年(昭和50年)に実施された江田台地一帯の確認調査の結果、幅約20メートルの周濠が墳丘をめぐる事実が判明したため、翌1976年(昭和51年)6月30日には、近接する塚坊主古墳および虚空蔵塚古墳が江田船山古墳の附(つけたり)として、国の史跡に追加指定されている。

遊子水荷浦の段畑  愛媛県宇和島市遊子

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遊子水荷浦の段畑  愛媛県宇和島市遊子

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。
「耕して天に至る」段畑の景観。宇和海へ突き出た三浦半島の北岸から、さらに出た蒋淵(こもぶち)半島の中端部に水荷浦はある。
宇和島南IC近くから、県道37号と県道345号により行く。

遊子水荷浦の段畑

遊子水荷浦の段畑(ゆすみずがうらのだんばた)は、愛媛県宇和島市遊子に位置する、急斜面に石垣を積み上げ作られた階段状の畑地である。
2004年(平成16年)の文化財保護法改正により創設された重要文化的景観選定制度により、四国地方で初めて2007年(平成19年)7月26日に重要文化的景観選定基準の「水田・畑地などの農耕に関する景観地」として、遊子水荷浦の段畑、の名称で選定を受けた。

概 要
四国西南地域に位置する愛媛県宇和島市遊子の水荷浦は、三浦半島の北岸から、宇和海及び宇和島湾に向かって分岐する岬の小さい集落である。
岬の急傾斜面には、小さな石を積み上げて形成された雛段状の畑地が形成されている。この畑地を水荷浦では「段畑(だんばた)」と呼んでいる。 この段畑を含む風景は、宇和海沿岸のリアス式海岸で営まれてきた半農半漁のくらしを示す独自の景観を形成している。

現 状
重要文化的景観を守るため、NPO法人「段畑を守ろう会」を中心として多様な活動が行われている。
・ふる里だんだんまつり
4月から5月のうち1日間だけ開催、初掘りジャガイモの即売会をメインにする収穫祭。[1]
・段畑ライトアップ
8月から9月のうち1日間だけ開催される竹とロウソクによる行灯で段畑を照らす夕涼みの会。[1]
・だんだん茶屋・だんだん屋
NPO法人「段畑を守ろう会」が運営する地産地消のレストランと直売所、直売所では段畑で収穫されたジャガイモを原料にしたオリジナル焼酎「段酎」が販売されている。営業時間9時から16時で定休日:月・木曜日 。[1]

(あとがき)
本ブログ2次の四国シリーズは、これで一応、完。八幡浜最終フェリーで別府へ、翌日、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳に寄り、有明フェリーで長崎へ夜、帰った。
徳島・高知の今回の走行距離は、2661km。前回の愛媛・香川は、約2800km。
遍路めぐりだけではない四国4県の魅力と見所を、私のヒマつぶしの観点から満載した。
解説はなるべく理解しやすい資料から引用した。場所説明も地図を掲げず略しているから、四国へ出かける際は、事前研究をくれぐれもお願いしたい。

須ノ川公園  愛媛県南宇和郡愛南町

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須ノ川公園  愛媛県南宇和郡愛南町

国道56号宿毛街道沿い。愛南町HP観光スポットによる説明は、次のとおり。
5枚目写真は、鳥越トンネル上方の小岩道林道途中から。

須ノ川公園

足摺宇和海国立公園内にある「日本の渚100選」に選ばれた須ノ川海岸。海岸は玉の浜石が特徴で、沖を望むと真珠貝の養殖イカダがまるでじゅうたんのように広がっています。
約1キロメートル続く、海岸沿いに植林されたウバメガシ林は青く澄んだ美しい海と見事に調和しています。そして、美しい海の中を覗けば、さらに美しいサンゴが…。
毎年夏になると親子連れや若者のグループがキャンプや海水浴に訪れる須ノ川公園。ここ須ノ川公園ではそんな美しい海を堪能できるシュノーケリングや、初心者の方でも安心してシーカヤックも体験できます。
なお、公園内には売店のほか、シャワー設備(有料)、テントサイトなども完備!すぐ近くのグリーンパークすのかわでオートキャンプをするもよし、同じくすぐ近くの「ゆらり内海」で潮湯に浸かり、レストランで愛南町の特産品を味わうもよし。…

柏  島  高知県幡多郡大月町

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柏  島  高知県幡多郡大月町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。
大月町から県道43号で行く。島内へ入らず史跡「柏島石堤」は見忘れ。大堂海岸方面は通行止めだった。

柏  島

柏島(かしわじま)は、高知県幡多郡大月町にある島である。足摺宇和海国立公園に指定されている。

概 要
宿毛湾の南に突き出た大月半島の先端に位置し、2本の橋で半島と繋がっている。柏島橋は
1967年(昭和42年)に、新柏島大橋は1993年(平成5年)に、それぞれ竣工した。自動車、バイクなどで直接行ける場所としては高知県最西である。

島の大半は丘陵で北東に向かってなだらかに傾斜している。北東の平坦部に集落があり、漁港もここにある。南側が最も高く山上に柏島灯台があり、南岸から南西岸にかけては断崖となっている。

豊後水道と太平洋の境にあり、黒潮の流入で周囲の海は温暖である。このため1,000種類近い魚種が確認でき、島の北部にはテーブルサンゴなどの珊瑚礁がある。スキューバダイビング、釣りなどのレジャーで賑わう。島の東側と半島で囲まれた入り江では鯛の養殖が行われている。松竹映画・釣りバカ日誌14 お遍路大パニック!(2003年(平成15年)公開)のロケ地となった。

柏島石堤
柏島石堤は、江戸時代初期、土佐藩執政の野中兼山によって慶安 – 寛文年間(1648年 – 1673年)の26年間にわたり建造された防波堤である。島の北、東、南の3面に馬蹄状に築いた。規模は、長さ690m(6町20間)、高さ3m(1間4尺)、幅1.8m(1間)。 これにより、波浪が激しく漁業に不向きであった島を土佐西部有数の好漁場に変え、島民の生活安定が図られた。高知県文化財(記念物・史跡)に指定されている。

更に島の南岸と半島側の間に、長さ272m(2町30間)、高さ2.7m(1間半)の突堤を築いて砂を敷き浅瀬を造って漁場とした。現在、この突堤の上には防波堤が築かれている。