江田船山古墳  熊本県玉名郡和水町

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江田船山古墳  熊本県玉名郡和水町

四国の帰り、2012年10月4日に「江田船山古墳公園」へ寄った。公園内の歴史民俗資料館・肥後民家村などは別掲。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

江田船山古墳
所在地 熊本県玉名郡和水町江田

江田船山古墳(えたふなやまこふん)は、熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)に所在する前方後円墳。清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳で、日本最古の本格的記録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出土したことで著名である[1]。国の史跡に指定されている。

概 要
この古墳は、5世紀末から6世紀初頭に築造されたと推測され、墳丘長62メートル[注 1]あり、盾形の周濠をもつ。古墳は1873年(明治6年)以降発掘され[2]、豊富な副葬品が出土している。これらの大部分は東京国立博物館に所蔵され、1965年(昭和40年)に国宝に指定されている[2]。

古墳の周りには、短甲[3]を着けた武人の石人が配置されている。このような古墳の周りに石人・石馬を配置するという独特の型式は、石人山古墳[4]に始まり、6世紀前葉の岩戸山古墳[5]で最盛期を迎え、以後、消滅する。この岩戸山古墳が527〜8年にヤマト王権(継体朝)と闘って敗北した筑紫君磐井の墓であると目されている。江田船山古墳も筑紫君一族の配下に連なって地域の中首長の墓であったことが想像できる。なお、最近の研究では、この古墳の被葬者は3名であると考えられている[1]。

史跡指定
1873年(明治6年)、地元の人物・池田佐十が「夢のお告げ」を受けて古墳を掘ったことが、江田船山古墳出土品発見の端緒となった。明治政府は白川県(現:熊本県)と交渉の上、発掘品を左十から当時の金額90円で買取り、博覧会事務局(現:東京国立博物館)に移した。[1]

整形をなし、しかも特殊な外観を示し、後円部に組合式家形石棺が置かれ、とくに銀象嵌銘の鉄製大刀が出土したところから古代文化を知るきわめて重要な遺跡として1951年(昭和26年)6月9日、国の史跡に指定された。

なお、1975年(昭和50年)に実施された江田台地一帯の確認調査の結果、幅約20メートルの周濠が墳丘をめぐる事実が判明したため、翌1976年(昭和51年)6月30日には、近接する塚坊主古墳および虚空蔵塚古墳が江田船山古墳の附(つけたり)として、国の史跡に追加指定されている。