月別アーカイブ: 2012年4月

長崎の古写真考 ながさき浪漫 103頁 多分、最初の県庁です? ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 103頁 多分、最初の県庁です? ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

アルバム長崎百年 ながさき浪漫
103頁  多分、最初の県庁です?
〔画像解説〕
うーん、と唸る写真です。出来て間もなく台風で吹き飛ばされてしまった長崎県庁の写真かもしれないのですが、なんせ、今の世の人は、誰も知らんけん、どげんやろ?   明治の中ごろ

104頁  終戦まで使った三代目県庁舎
〔画像解説〕
落成式の日でしょうか?祝日でしょうか?日の丸が見えます。これから約35年間使われた長崎県庁舎が竣工を迎えようとしています。   明治44年4月竣工

105頁  正面玄関から見た県庁舎
〔画像解説〕
長崎県庁の正面でしょうか?でも、庁舎前面の広場とすればカステーラの広告があるのも怪しい?道路とすれば、その反対側で守衛さん?らしき人が一休み?しとるとも奇怪しか……でも県庁です。   明治45年

106頁  県議会議事堂?
〔画像解説〕
現在の県庁の敷地の中で、築町側にあった長崎県議会議事堂です。坂の様子からすれば、現在の県庁正門のようにも思われますが、そうすれば県庁の本館はどこやろか?見えんばいと悩みます。   明治の末

■ 確認結果

長崎大学のデータベースには、長崎県庁の3代目建物の絵葉書古写真が、 目録番号: 5112 「長崎県庁(1)」と、目録番号: 5113 「長崎県庁(2)」にある。特に解説がなく掲載は略した。

長崎県庁の建物について、長崎浪漫会編「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」長崎文献社平成11年発行の、Ⅴ:建物編に上記の4点が掲載されていた。
長崎浪漫会による画像解説が、おもしろくした向きは理解するが、正しく説明してもらわないと、写真集を見て読む人が困惑するだろう。

そのほか107頁、長崎市役所の前建物(1950年代の撮影?)やその完成年月など、画像解説の多くに疑問がある。いちいち指摘しないが(前記事で5点はすでに指摘済、市役所は次記事とする)、ほとんどが長崎文献社の所蔵写真であろう。
各種古写真集出版のときは、基本的な監修を考えてもらいたい。貴重な古写真がもったいない。

長崎県庁の同じような古写真が、次の写真集に掲載されていた。長崎市立博物館の所蔵写真と思われる。この方の解説が正しいだろう。長崎年表の記録とともに、参考としてほしい。
越中哲也・白石和男氏共編「ふるさとの想い出 写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和54年発行  ●官公庁 の中の長崎県庁の解説は、次のとおり。

27頁    「44 長崎県庁(1)」
〔画像解説〕
長崎県庁は明治6年、旧長崎奉行所西役所すなわち現在地に新庁舎建設の工を起し、翌7年7月落成した。しかしこの庁舎は翌月の8月21日暴風にあい倒壊した。この庁舎が建っていたのは約1ヵ月であり、その意味で珍しい写真なのである。

27頁    「45 長崎県庁(2)」
〔画像解説〕
明治9年3月、県庁は再び新庁舎建設の工を起し同12月完成した。新庁舎は木造2階建、4棟、建坪82坪、総工費16,130円であった。そしてこの庁舎は明治40年まで使用された。

28〜29頁 「46 長崎県庁(3)」
〔画像解説〕
明治44年山田七五郎の設計で新築落成した県庁舎は鉄骨石壁で屋根は銅鈑を葺き、敷地面積2,630坪、総工費557,500余円と記してある。この庁舎は原爆で焼失した。

「長崎年表」による記録は、次のとおり。同HPの「長崎年表冩眞舘」に同じ写真と解説がある。参考としてもらいたい。
▼1874(明治07)
07/28★旧長崎奉行所西役所跡に洋風木造2階建て新築の長崎県庁庁舎が開庁
→08/21☆台風による暴風にあい倒壊
→1876(明治09)03/☆再び新庁舎の建設を起工
→12/☆2代目の長崎県庁が竣工
木造2階建、4棟、建坪82坪、総工費1万6130円
→1907(明治40)☆老朽化のため立て替え
→1911(明治44)04/25☆山田七五郎の設計で壮麗なルネサンス様式で鉄骨造煉瓦仕
上げ本館3階建の3代目の長崎県庁が落成

(以下は、ウィキペディア・フリー百科事典から)
1945年(昭和20年)8月9日 – 原爆投下により県会議事院は全壊、県庁舎は投下後の火災で全焼した。
1951年(昭和26年)2月20日 – 現本館起工式。
1953年(昭和28年)3月31日 – 現本館が竣工。工費約4億円(当時)、新築時は地上5階建てで延べ床面積14,500m2。
1953年(昭和28年)5月18日 – 立山の旧庁舎からの移転完了。

長崎の西空の夕日  12− 4

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

長崎の西空の夕日  12− 4

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1〜 2  2012年 4月 1日の18時38分頃
写真  3〜 4  2012年 4月18日の 5時14分頃 明け方の月
写真  5〜 6  2012年 4月26日の18時59分頃
写真  7〜 8  2012年 4月27日の18時57分頃
写真  9〜12  2012年 4月28日の18時51分頃

長崎の古写真考 目録番号:な し 現川の石橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 現川の石橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 現川(うつつがわ)の石橋
越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版 92頁
〔画像解説〕
元禄時代、現川では、有名な刷毛目文様を主にした現川焼がつくられていた。この石橋は当時のものではないが、長崎の石工より伝えられたアーチ型石橋の工法を取り入れ架設した小石橋として市の文化財に指定されている。

■ 確認結果

「現川(うつつがわ)の石橋」は、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版92頁に、作品163として掲載されている。長崎市立博物館所蔵写真と思われる。
画像解説の「小石橋」とは、小さな石橋群という意味だろうが、写真の橋がどの橋だったか不明である。橋名とすると「小藤橋」という橋があるが、橋が小さい。

現川地区には、かつて5基の石橋群があった。(「正納屋橋」など入れて、実際は6基?)。昭和57年の長崎大水害を最後に、すべてが流失した。長崎年表による記録は、次のとおり。
▼1869(明治02)頃
★現川区の架橋方頭取の中島土市が野石造アーチ石橋(幻の石橋)を参考に現川に5橋をつくる
→のち☆樫の木渡瀬橋は再度洪水に流される。山川橋、屋敷橋、小藤橋、山の神橋が残る
→1972(昭和47)03/16☆長崎市有形文化財に指定。自然石のアーチ橋。
→1982(昭和57)07/23☆大水害によりすべてが流失
★本河内の野石造アーチ石橋(幻の石橋)が現川石橋群のモデルとなる
→1889(明治22)☆造成中の本河内高部水源地に水没する

長崎大水害で流失した「樫ノ木渡瀬橋」「山川橋」「小藤橋」「山の神橋」は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1433
「屋敷橋」は、次のHPに貴重な写真がある。前記の「樫ノ木渡瀬橋」と同じ橋であることがわかるだろう。ほかの3橋も別にあり。
http://www.kawadouro.sakura.ne.jp/Nagasaki/Nagasaki2.html

「樫ノ木渡瀬橋」の場所に、後に架かったのが「屋敷橋」である。地元では今でも、「樫ノ木渡瀬橋」としているのだろう。長崎年表の「☆樫の木渡瀬橋は再度洪水に流される」というのは、地元の史料「現川区永?大寶鑑」によると、発行された明治36年までの記録である。
古写真「現川の石橋」は、さてどれだったか。下流から上流側を撮影している。石の組み方を細かく対比したが、合致する石橋がはっきりしなかった。

川幅の広さ、石橋の大きさや格調から、現川集落の入口にかつて架かった「樫ノ木渡瀬橋」だろうと、現地へ出向き状況を確認した。現在のコンクリート橋「屋敷橋」のところである。
右手の尾根張り出し、民家の屋根、石橋の背景に写された現川峠方面の山の稜線と高さは、現在の写真どおり「屋敷橋」で合致した。

JR現川駅横の現川物産館に展示されている現川古絵図は、杉澤翁昭和7年図である。表題は「現川維新前後の面影」となっている。「樫ノ木渡瀬橋」のみ、アーチが描かれている。
「長崎大水害にて流失 樫ノ木渡瀬橋」も、現川物産館の展示写真から。
古写真「現川の石橋」は、撮影年代や橋名を明記していない。いつの時代のものかわからない。現在の状況写真から、「屋敷橋」の場所に架かっていた橋の姿に間違いないと思われる。

橋名で混乱するが、「樫ノ木渡瀬橋」は明治36年以降、また再建された可能性がある。「屋敷橋」は架橋年代が不明。ただ、石橋の石の組み方から、長崎大水害まで存在した「屋敷橋」ないし「樫ノ木渡瀬橋」という橋ではなく、それ以前の「樫ノ木渡瀬橋」の姿のような気がする。
いずれにしても古写真「現川の石橋」は、珍しい写真である。石の組み方の対比は、私の見誤りもあるので、地元現川や織田先生の正しい考証をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:な し 長崎・銅座の十軒蔵

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:な し 長崎・銅座の十軒蔵

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:な し 長崎・銅座の八軒倉 (通称「十軒蔵」が正)
長崎県営業写真家協会「写真時代の夜明 長崎県写真百年史」平成元年発行190頁
〔画像解説〕
新地の中華街に近く、海産物などを収容するレンガ造りの倉庫が近年まで並んでいた。アマチュアの撮影になるもので、電柱、電線を消そうとした痕があり、ほほえましい。(大正末期頃)

■ 確認結果

長崎県営業写真家協会「写真時代の夜明 長崎県写真百年史」平成元年発行190頁に掲載されている「長崎・銅座の八軒倉」は、正しくは通称「十軒蔵」という。
古写真は、銅座橋から広馬場の方を撮影している。現在の銅座観光通り左側、新地中華街前に「十軒蔵」が建ち並んでいた。

長崎年表の記録は、次のとおり。
▼明治20年代(1887〜1896)
★広馬場入口から銅座川までの本籠町68番地に貿易商兼倉庫業の本田平十が10棟続きの煉瓦造平屋建、切妻造の倉庫を建てる。通称・十軒蔵
→昭和初期☆7棟に →戦後☆6棟に →1970(昭和45)☆5棟に →昭和50年代☆解体

現在は籠町。江山楼向かいにある有料駐車場「三井のリパーツ」前の歩道に、さるく説明板が設置されている。新地中華街を向いて立っているが、説明板の写真どおり、撮影場所の銅座橋角あたりに設置しないと、通りの左右どちらが倉庫跡かわかりにくいだろう。
「十軒蔵」は、HP「ナガジン」発見!長崎の歩き方の、「古写真にみる遠い昔の長崎名物」に次のとおり記事があった。

「明治20年代に建てられた、中国との貿易品を保管していた赤レンガ倉庫群。戦後はデパートやマーケットの倉庫、飲食店として利用されていたが、昭和50年代に解体された。通称“十軒蔵”と呼ばれていたこの場所は、現在の銅座観光通り。現在もおいしい長崎中華が味わえる“喜楽園”の看板を左手前に見つけた!」

銅座橋角の酒屋主人から、おもしろいことを教わった。「十軒蔵」は昭和50年代まで一部の建物が残っていた。今でも向かいの「喜楽園」ビル上に、2軒目倉庫屋根の片割れがまだ現存し、様子を確認できると、屋根を指差してくれた。
裏通りから「喜楽園」を訪ねた。戦後からここで営業しているが、建物内部には赤レンガの壁がまだあり、ガスボンベ室で良くわかると、鍵を開けて見せてくれた。

「ナガジン」の”喜楽園”看板発見の文は偶然のようだが、同店建物の内外に残る倉庫跡のそこまでは気付いていないようである。
「十軒蔵」の記事は、次も参照。 https://misakimichi.com/archives/3119

わが庭の自然石によるアーチ式石橋  試作3

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

わが庭の自然石によるアーチ式石橋  試作3

前回の作は、雨で少しズレ落ちていた。試作3は写真のとおり。なかなか良い石がない。不揃いの石では失敗ばかり。橋の長さを短くしやっと完成した。いっときはこれで我慢しておこう。

きょうの四郎ケ島台場跡草刈りは、昨夜、佐賀からツアー中止の連絡があった。大雨の天気予報だったが、今はもう晴れだした。残念だったろう。

八郎岳沢に架けた、モニュメントのような自然石によるアーチ式石橋「乙女橋」は、今も健在、こちらの最近の写真を載せる。

長崎の古写真考 目録番号:6069 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6069 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6069 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)

■ 確認結果

長崎市史編さん委員会編「新長崎市史 第二編 近世編」が、平成24年3月30日発行された。
170〜171頁に掲載されている「写2−32 「風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)」上野彦馬/長崎大学附属図書館所蔵」は、データベースでは、目録番号:6069 の作品である。
新長崎市史の解説は、次頁の172頁にある。

長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の58,59頁に掲載されたこの古写真の解説の疑問点は、すでに次の記事により2010年1月指摘している。
https://misakimichi.com/archives/2171

新長崎市史の解説は、本ブログ記事も参照されたか、「延命寺の山門」の撮影とされ、了とするが、遠景の寺を「⑱が聖福寺、⑲が福済寺」と説明されているのは疑問がある。
航空写真で位置関係を見てみる。「⑱が福済寺、⑲が本蓮寺」ではないだろうか。
「聖福寺」は、「⑰永昌寺」のすぐ近くであり、⑱を「福済寺」とするなら、その中間に大きな甍が見えるところと思われる。
延命寺上からの現在の写真は5枚目のとおり。高いビルなどで、聖福寺などは見えなくなった。

最後の古写真は、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版12〜13頁に掲載されている「19 長崎の街なみ」。
長崎に市制が実施された明治22年当時の長崎の町の全景。上野彦馬の撮影という。
風頭山頂からの撮影と思われるが、同じような構図であり、鮮明であるので参考となろう。所蔵は長崎市市立博物館のようだ。4枚組だが、左右は省略した。
「’89長崎市制施行100周年 NAGASAKI 100」24〜25頁にも同じ写真がある。

なお、新長崎市史182頁「写2−44 新大工町の鳥瞰」A.Fボードイン/長崎大学附属図書館所蔵」の解説は、「⑩が金比羅山」ではなく「烏帽子山(金星観測があった)」、「⑪が上宮」ではなく「金比羅山」と説明した方が正しいだろう。
https://misakimichi.com/archives/2193
https://misakimichi.com/archives/2389

また、179頁「図2−14 測図長崎市街地図 1884(明治7)年頃(部分)(「地図で見る長崎の変遷」財団法人日本地図センターより作成)」は、「1884(明治17)年頃」の誤字である。
図中の「⑦が淵神社」は、まだ下の岬の方に表示した方が良い。

「新長崎市史」第二巻の「御崎道」記述の問題点

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

「新長崎市史」第二巻の「御崎道」記述の問題点

「新長崎市史」第二巻「近世編」が3月30日発行された。広報ながさき4月号に刊行を大々的に載せ、書店発売を知らせているが、肝心の長崎市施設、地区公民館図書室などに4月10日になっても蔵書がなかった。
市史編さん室と広報広聴課へ苦情を言い、やっと4月19日、地元の公民館へ配本があり借りることができた。市長はこんな事態を知っているのだろうか。意気込みのわりには、おかしなことだった。

私の関心は、今回の刊行で新しく取り上げるとあった第4章「天領・大村藩・佐賀藩領の村々と街道」第4節「長崎の街道」にあった。
「6 御崎道」は、366〜369頁に掲載されている。
平成19年11月発行された長崎歴史文化博物館編「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」や、平成20年3月発行された長崎伝習所報告書「新長崎市の史跡探訪Ⅰ」の問題点は、すでに指摘している。

今回の「新長崎市史」第二巻「近世編」における「御崎道」の記述も、問題点が多い。せっかくの新市史刊行だから、もう少し信頼性がある研究をお願いしたかった。
全文は掲載できないので、疑問の箇所のみ引用し、私の考察を説明する。
江戸期の「みさき道」詳細ルート地図を、ちょうど本ブログ上で作成したところである。参照してもらい今後の研究に役立ててほしい。

1 368頁左段 「御崎道は、峠からダイヤランド2丁目を経由して磯道町、三和町、毛井首町、鶴見台、江川町などを経由、深堀町へ至った」
毛井首町、鶴見台経由は、明治以降発展しできた道で、遠回りとなりあまり考えられない。長崎往還を草住町へ向かい、江川町から深堀手前の峠(鳥越)を越して、深堀町へ至った。

2 368頁右段 「御崎道は、蚊焼から秋葉山に上り、高浜に下ったが、秋葉山(標高254m)の山頂には火の神秋葉神が祀られている」
御崎道は、秋葉山山頂は通らない。中腹を行く。誤解されかねない記述だろう。

3 368頁右段 「また、『寛斎日記』にも「東西狭くして直に左右を見る、東は天草、島原あり(略)」とあるように〔27〕」
末尾の注〔27〕は、林郁彦稿「維新前後に於ける長崎の学生生活」『長崎談叢 19輯』長崎史談会 1937 21頁。この文献は、関寛斎『長崎在学日記』原本からすると、誤字が多い。引用資料としないようお願いしたい。

4 368頁右段 「また、前掲の道塚は、蚊焼から分岐して岳路を通り以下宿から上って来る道との合流点であり、途中には「みさき道」「今魚町」と刻まれた道塚が残されている」
「前掲の道塚」とは、徳道三叉路の里程道塚。以下宿からここには上がらない。「途中には」とは、岳路の道塚を説明されているが、黒浜から尻喰坂を越し以下宿に下り、南谷を上がって、里程道塚からの道と合流、延命水へ至った。

5 368頁右段 「ほかの御崎道のコースとしては、二ノ岳付近から高浜と脇岬の間の殿隠山、遠見山、堂山峠を経て観音寺に至るコースがあり」
殿隠山、遠見山、堂山峠間の尾根コースは、明治地図でも道の連続がない。街道とは考えられない。郡境・村境の見誤りだろう。(343頁の写4−17、345頁の写4−18の「肥前一国絵図」など参照。道は赤線である)
岬木場から来た道は、殿隠山鞍部で高浜から上がって来た道と合流、脇岬へそのまま下る。

6 368頁右段 「殿隠山コースには、道塚が2本残されている。1本には「みさき道 今魚町」「上川原道」、もう1本には「右 御崎道」「左 川原道」とそれぞれ刻まれている」
野母崎ゴルフ場裏門内の道塚2本を説明されているが、この道塚は殿隠山コースには向かわない。高浜へ下るコースの道塚である。ゴルフ場内の下道に、今魚町道塚がもう1本、確かにあったことを記録と記憶により確認している。

7 368頁右段 「また、観音寺から、山越えして野母に至る、観音道と呼ばれるコースがあった。このコースには元禄10年(1697)と刻まれた立派な道塚があり、「従是観音道」「山道十丁」「元禄十丁丑九月吉日(略)」と刻まれている。なお、野母から舟便を利用、長崎に行くコースもあった」
方向が逆。記述に一工夫してほしい。「また、脇岬海岸にも元禄10年(1697)と刻まれた立派な道塚があり、「従是観音道」「山道十丁」「元禄十丁丑九月吉日(略)」と刻まれている。これは野母まで舟便や歩いて来られたが、ここから観音寺まで十丁の山道にかかる「観音道」を示す道塚である。長崎へ舟便で帰るときや海が荒れた日にも利用された」と説明した方が良い。

8 なお、354頁に「図4−6 長崎の主な街道図」が掲載されている。「(注)御崎道には諸説があるが、ここでは今魚町の道塚のある道について記述した」とし、緑線により「御崎道」、黄緑線により「観音道」のルートを表示している。
1〜7で見たとおり、三和町「三和町郷土誌」昭和61年発行もそうだったが、問題点が多いルート図である。諸説があるならなおさら、関係史料・古地図類を良く研究し、実地踏査のうえ、これらは正しく公表してほしい。

江戸期の「みさき道」詳細ルート地図  3 川原道経由

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

江戸期の「みさき道」詳細ルート地図  3 川原道経由

文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、1泊2日により仲間3人で御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生、関寛斎『長崎在学日記』(北海道陸別町同資料館所蔵)による当時の「みさき道」推定ルート図は、本項の前の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/3035

みさき道歩会の研究レポート第1集に収録したとおり、推定ルート図は平成17年当時の調査である。約7年が経過した。その後、判明した正しいと思われるルートが一部区間に出てきた。
ここに掲げる詳細ルート地図は、伊能忠敬研究会入江氏(長崎市在住)の地図画像研究により、私が主に実地を再踏査した結果である。
研究・調査期間は、本年2月初めから約2か月を要した。

画像研究の方法は、長崎市南部の1/10000地形図に、佐賀藩が幕末に作図した古地図と明治中期の地図、昭和49年度に撮影された航空写真、昭和23年に撮影された米軍の航空写真をグラフィックソフトのレイヤーで重ねて行なわれた。入江氏の協力に深く感謝したい。

幕府領の村の古地図は見当たらず、街道はこれが正しいという確かな史料も存在しない。この詳細ルート地図も、お互いが協議を重ね実地踏査の上、作成した推定ルート地図に変わりないので、あらかじめ了解をお願いしたい。地図のズレもまだ若干あると思われる。
詳細ルート地図は、みさき道本道のほか、岳路道、川原道(長崎半島東回りの道)経由の道についても、同時に実施した。

参考とした文献・関係資料は多くあるが、地図類の主なものは次のとおりであった。
①慶長年間(1596−1624)「慶長図絵図」           佐賀県立図書館蔵
正保 4年(1647)「肥前一国絵図」               長崎歴文博物館蔵
元禄14年(1701)「肥前全図」 〔いずれも長崎半島部分〕     同
②安永 2年(1773)「高木作右衛門支配所絵図」 〔当時の長崎代官〕 同
③安政 7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」           同
萬延 元年(1860)「高来郡 為石村・布巻村、彼杵郡 平山村」  同
萬延 元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」   三和公民館蔵
文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」
長崎歴文博物館蔵
④明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕
⑤平成 7年(1995)「三和町全図」修正字図ほか
③は佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村であり、①は同藩が作成し長崎奉行所が写したものとされる。天領の川原・高浜・野母村、大村領だった戸町村(安政5年古賀村と交換されて天領となった)などの絵図は見出しえなかった。
④は国土地理院に明治17年測図同27年製版図があるが、そこまで調べてない。

容量の制限があり、4記事に分けて詳細ルート地図13枚を掲載した。ブログ画像は、不均衡に表示されるが、オリジナル画像(ズーム拡大)では、同じサイズ679×960の縦か横となる。
(注 川原道経由の4枚目の図は、3枚目と同じ。印刷用としてサイズ合せのため、縦に回転している。5,6枚目は、2012年12月18日特別に追加。
熊ノ岳山腹を登る明治道塚「西 高濱」の詳細ルート図。これにより徳道まで上がり、二ノ岳脇を行き岬木場へ出て観音寺参りをした話が地元にある。明治地形図も参照)

背景の地図は、測量法第43条の規定により、長崎市長の承認を得て、平成18年度地形図(縮尺1/10000)を複製した。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第1038号 平成24年2月29日

江戸期の「みさき道」詳細ルート地図  2 岳路道経由

イメージ 1

イメージ 2

江戸期の「みさき道」詳細ルート地図  2 岳路道経由

文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、1泊2日により仲間3人で御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生、関寛斎『長崎在学日記』(北海道陸別町同資料館所蔵)による当時の「みさき道」推定ルート図は、本項の前の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/3035

みさき道歩会の研究レポート第1集に収録したとおり、推定ルート図は平成17年当時の調査である。約7年が経過した。その後、判明した正しいと思われるルートが一部区間に出てきた。
ここに掲げる詳細ルート地図は、伊能忠敬研究会入江氏(長崎市在住)の地図画像研究により、私が主に実地を再踏査した結果である。
研究・調査期間は、本年2月初めから約2か月を要した。

画像研究の方法は、長崎市南部の1/10000地形図に、佐賀藩が幕末に作図した古地図と明治中期の地図、昭和49年度に撮影された航空写真、昭和23年に撮影された米軍の航空写真をグラフィックソフトのレイヤーで重ねて行なわれた。入江氏の協力に深く感謝したい。

幕府領の村の古地図は見当たらず、街道はこれが正しいという確かな史料も存在しない。この詳細ルート地図も、お互いが協議を重ね実地踏査の上、作成した推定ルート地図に変わりないので、あらかじめ了解をお願いしたい。地図のズレもまだ若干あると思われる。
詳細ルート地図は、みさき道本道のほか、岳路道、川原道(長崎半島東回りの道)経由の道についても、同時に実施した。

参考とした文献・関係資料は多くあるが、地図類の主なものは次のとおりであった。
①慶長年間(1596−1624)「慶長図絵図」           佐賀県立図書館蔵
正保 4年(1647)「肥前一国絵図」               長崎歴文博物館蔵
元禄14年(1701)「肥前全図」 〔いずれも長崎半島部分〕     同
②安永 2年(1773)「高木作右衛門支配所絵図」 〔当時の長崎代官〕 同
③安政 7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」           同
萬延 元年(1860)「高来郡 為石村・布巻村、彼杵郡 平山村」  同
萬延 元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」   三和公民館蔵
文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」
長崎歴文博物館蔵
④明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕
⑤平成 7年(1995)「三和町全図」修正字図ほか
③は佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村であり、①は同藩が作成し長崎奉行所が写したものとされる。天領の川原・高浜・野母村、大村領だった戸町村(安政5年古賀村と交換されて天領となった)などの絵図は見出しえなかった。
④は国土地理院に明治17年測図同27年製版図があるが、そこまで調べてない。

容量の制限があり、4記事に分けて詳細ルート地図13枚を掲載した。ブログ画像は、不均衡に表示されるが、オリジナル画像(ズーム拡大)では、同じサイズ679×960の縦か横となる。

背景の地図は、測量法第43条の規定により、長崎市長の承認を得て、平成18年度地形図(縮尺1/10000)を複製した。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第1038号 平成24年2月29日

江戸期の「みさき道」詳細ルート地図  1 みさき道本道(2)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

江戸期の「みさき道」詳細ルート地図  1 みさき道本道(2)

文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、1泊2日により仲間3人で御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生、関寛斎『長崎在学日記』(北海道陸別町同資料館所蔵)による当時の「みさき道」推定ルート図は、本項の前の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/3035

みさき道歩会の研究レポート第1集に収録したとおり、推定ルート図は平成17年当時の調査である。約7年が経過した。その後、判明した正しいと思われるルートが一部区間に出てきた。
ここに掲げる詳細ルート地図は、伊能忠敬研究会入江氏(長崎市在住)の地図画像研究により、私が主に実地を再踏査した結果である。
研究・調査期間は、本年2月初めから約2か月を要した。

画像研究の方法は、長崎市南部の1/10000地形図に、佐賀藩が幕末に作図した古地図と明治中期の地図、昭和49年度に撮影された航空写真、昭和23年に撮影された米軍の航空写真をグラフィックソフトのレイヤーで重ねて行なわれた。入江氏の協力に深く感謝したい。

幕府領の村の古地図は見当たらず、街道はこれが正しいという確かな史料も存在しない。この詳細ルート地図も、お互いが協議を重ね実地踏査の上、作成した推定ルート地図に変わりないので、あらかじめ了解をお願いしたい。地図のズレもまだ若干あると思われる。
詳細ルート地図は、みさき道本道のほか、岳路道、川原道(長崎半島東回りの道)経由の道についても、同時に実施した。

参考とした文献・関係資料は多くあるが、地図類の主なものは次のとおりであった。
①慶長年間(1596−1624)「慶長図絵図」           佐賀県立図書館蔵
正保 4年(1647)「肥前一国絵図」               長崎歴文博物館蔵
元禄14年(1701)「肥前全図」 〔いずれも長崎半島部分〕     同
②安永 2年(1773)「高木作右衛門支配所絵図」 〔当時の長崎代官〕 同
③安政 7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」           同
萬延 元年(1860)「高来郡 為石村・布巻村、彼杵郡 平山村」  同
萬延 元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」   三和公民館蔵
文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」
長崎歴文博物館蔵
④明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕
⑤平成 7年(1995)「三和町全図」修正字図ほか
③は佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村であり、①は同藩が作成し長崎奉行所が写したものとされる。天領の川原・高浜・野母村、大村領だった戸町村(安政5年古賀村と交換されて天領となった)などの絵図は見出しえなかった。
④は国土地理院に明治17年測図同27年製版図があるが、そこまで調べてない。

容量の制限があり、4記事に分けて詳細ルート地図13枚を掲載した。ブログ画像は、不均衡に表示されるが、オリジナル画像(ズーム拡大)では、同じサイズ679×960の縦か横となる。
(注 後ろ2枚の図は、3・4枚目と同じ。印刷用としてサイズ合せのため、縦に回転している)
この記事では、佐賀藩の安政7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」図が、いかに精緻に作成されているか、具体例として現行地形図に重ね合わせたカラー地図も見てもらう。

背景の地図は、測量法第43条の規定により、長崎市長の承認を得て、平成18年度地形図(縮尺1/10000)を複製した。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第1038号 平成24年2月29日