長崎の幕末・明治期古写真考 ながさき浪漫 103頁 多分、最初の県庁です? ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
アルバム長崎百年 ながさき浪漫
103頁 多分、最初の県庁です?
〔画像解説〕
うーん、と唸る写真です。出来て間もなく台風で吹き飛ばされてしまった長崎県庁の写真かもしれないのですが、なんせ、今の世の人は、誰も知らんけん、どげんやろ? 明治の中ごろ
104頁 終戦まで使った三代目県庁舎
〔画像解説〕
落成式の日でしょうか?祝日でしょうか?日の丸が見えます。これから約35年間使われた長崎県庁舎が竣工を迎えようとしています。 明治44年4月竣工
105頁 正面玄関から見た県庁舎
〔画像解説〕
長崎県庁の正面でしょうか?でも、庁舎前面の広場とすればカステーラの広告があるのも怪しい?道路とすれば、その反対側で守衛さん?らしき人が一休み?しとるとも奇怪しか……でも県庁です。 明治45年
106頁 県議会議事堂?
〔画像解説〕
現在の県庁の敷地の中で、築町側にあった長崎県議会議事堂です。坂の様子からすれば、現在の県庁正門のようにも思われますが、そうすれば県庁の本館はどこやろか?見えんばいと悩みます。 明治の末
■ 確認結果
長崎大学のデータベースには、長崎県庁の3代目建物の絵葉書古写真が、 目録番号: 5112 「長崎県庁(1)」と、目録番号: 5113 「長崎県庁(2)」にある。特に解説がなく掲載は略した。
長崎県庁の建物について、長崎浪漫会編「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」長崎文献社平成11年発行の、Ⅴ:建物編に上記の4点が掲載されていた。
長崎浪漫会による画像解説が、おもしろくした向きは理解するが、正しく説明してもらわないと、写真集を見て読む人が困惑するだろう。
そのほか107頁、長崎市役所の前建物(1950年代の撮影?)やその完成年月など、画像解説の多くに疑問がある。いちいち指摘しないが(前記事で5点はすでに指摘済、市役所は次記事とする)、ほとんどが長崎文献社の所蔵写真であろう。
各種古写真集出版のときは、基本的な監修を考えてもらいたい。貴重な古写真がもったいない。
長崎県庁の同じような古写真が、次の写真集に掲載されていた。長崎市立博物館の所蔵写真と思われる。この方の解説が正しいだろう。長崎年表の記録とともに、参考としてほしい。
越中哲也・白石和男氏共編「ふるさとの想い出 写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和54年発行 ●官公庁 の中の長崎県庁の解説は、次のとおり。
27頁 「44 長崎県庁(1)」
〔画像解説〕
長崎県庁は明治6年、旧長崎奉行所西役所すなわち現在地に新庁舎建設の工を起し、翌7年7月落成した。しかしこの庁舎は翌月の8月21日暴風にあい倒壊した。この庁舎が建っていたのは約1ヵ月であり、その意味で珍しい写真なのである。
27頁 「45 長崎県庁(2)」
〔画像解説〕
明治9年3月、県庁は再び新庁舎建設の工を起し同12月完成した。新庁舎は木造2階建、4棟、建坪82坪、総工費16,130円であった。そしてこの庁舎は明治40年まで使用された。
28〜29頁 「46 長崎県庁(3)」
〔画像解説〕
明治44年山田七五郎の設計で新築落成した県庁舎は鉄骨石壁で屋根は銅鈑を葺き、敷地面積2,630坪、総工費557,500余円と記してある。この庁舎は原爆で焼失した。
「長崎年表」による記録は、次のとおり。同HPの「長崎年表冩眞舘」に同じ写真と解説がある。参考としてもらいたい。
▼1874(明治07)
07/28★旧長崎奉行所西役所跡に洋風木造2階建て新築の長崎県庁庁舎が開庁
→08/21☆台風による暴風にあい倒壊
→1876(明治09)03/☆再び新庁舎の建設を起工
→12/☆2代目の長崎県庁が竣工
木造2階建、4棟、建坪82坪、総工費1万6130円
→1907(明治40)☆老朽化のため立て替え
→1911(明治44)04/25☆山田七五郎の設計で壮麗なルネサンス様式で鉄骨造煉瓦仕
上げ本館3階建の3代目の長崎県庁が落成
(以下は、ウィキペディア・フリー百科事典から)
1945年(昭和20年)8月9日 – 原爆投下により県会議事院は全壊、県庁舎は投下後の火災で全焼した。
1951年(昭和26年)2月20日 – 現本館起工式。
1953年(昭和28年)3月31日 – 現本館が竣工。工費約4億円(当時)、新築時は地上5階建てで延べ床面積14,500m2。
1953年(昭和28年)5月18日 – 立山の旧庁舎からの移転完了。