長崎の古写真考 目録番号:6068 風頭からの長崎市街鳥瞰(県庁側) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6068 風頭からの長崎市街鳥瞰(県庁側) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6068 風頭からの長崎市街鳥瞰(県庁側)
目録番号:6069 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)

■ 確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース目録番号:6068と目録番号:6069の2作品。上野彦馬が風頭から撮影した古写真は、長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の58,59頁に見開きで掲載がある。同解説は次のとおり。

49 風頭からの長崎市街鳥瞰(県庁側)   277×216
風頭山からの長崎市外の俯瞰写真。右下は皓台寺の山門。左下は大音寺境内。長崎奉行所西役所がおかれていた左端の茂みには明治9年(1876)に建てられる県庁の建物がまだない。まもなく県庁前に整備される地方裁判所、区裁判所、控訴院もない。町全体として江戸期の建物や土蔵を残している。

50 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)   275×212
49との二枚組みパノラマ写真。左下は皓台寺境内。右端には興福寺の鐘鼓楼がみえる。その上の大伽藍は光永寺の本堂。正面の立山の山麓には本蓮寺や福済寺などの寺院が連なっている。道路の縦筋は左から今魚町、本大工町、紺屋町である。この鳥瞰写真でも旧家や蔵屋敷の土蔵がめだつ。江戸時代総町80カ町時代の町の様子がわかる。

風頭公園の展望台や上野家墓地へ行っても、木立が高く直下の寺町の数ある寺は写せない。撮影場所が風頭山かはひとまず置き、少し下って寺が写せる寺町墓地の高台から考えてみる。この写真集49,50の解説は明らかな間違いがある。
長崎市外は「市街」が正。2枚組みパノラマ写真で見てみよう。寺は左から大音寺境内、皓台寺境内と山門、(間の長照寺と肝心な延命寺が抜け)、興福寺の鐘鼓楼、離れて光永寺とし、道路の縦筋は左から今魚町、本大工町、紺屋町であると解説している。

左右写真の手前正面に写っている寺(山門は中央で重複している)は、正しくは「延命寺」である。昔の姿は山門、聖天堂、薬師堂、大師堂と建物があった。延命寺の上でないと遠くの稲佐山・岩屋山・立山尾根の重なりが合わない。右端にすぐ興福寺に昔あった観音堂(鐘鼓楼ではない)、光永寺が大きく写るのは、そばの「延命寺」となる。
道路の縦筋は、50の写真では、左から現在の諏訪通り、まっすぐなのは新橋通り、右は紺屋通りとなろう。付近の現在の地図を載せたので参照。

この古写真は延命寺に見てもらって確認した。延命寺は当時の写真を持たないので、特別に寺部分を拡大した。山門途中の現在ある石門は、明治33年建立されている。
実際の撮影場所も、延命寺がすぐ近くに写り、背景の山の重なりから考えると、風頭山頂からではなく、長照寺と延命寺の間の幣振坂を登った途中とするのが相当と思われる。
49の古写真の現在写真は、この場所からのを写し忘れたため、皓台寺上からのをとりあえず載せ、後で差替えたい。

最後が1月10日幣振坂へ再び行き、延命寺墓地から撮り直した写真。皓台寺上からのとの違いがわかるだろう。