長崎の西空の夕日 13−01
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
写真 1〜 3 2013年 2月24日の18時13分頃
写真 4〜 5 2013年 3月 5日の18時22分頃
写真 6 2013年 3月24日の17時35分頃 春徳寺から稲佐山
写真 7〜10 2013年 3月28日の18時28分頃
長崎の西空の夕日 13−01
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
写真 1〜 3 2013年 2月24日の18時13分頃
写真 4〜 5 2013年 3月 5日の18時22分頃
写真 6 2013年 3月24日の17時35分頃 春徳寺から稲佐山
写真 7〜10 2013年 3月28日の18時28分頃
長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古写真 長崎を望む
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
NAGASAKI GENEI
長崎古写真 REAL PHOTO(2) VIEW OF NAGASAKI(長崎を望む)
■ 確認結果
「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。
長崎古えはがきの長崎古写真 REAL PHOTO(2) 2枚目の「VIEW OF NAGASAKI(長崎を望む)」。右上の木立の中に「諏訪神社」が写っている。
長崎市鍛冶屋町の「大音寺」境内あたりから撮影した市街地の風景と思われる。現在の写真は、本堂背後の上部墓地から写した。
諏訪ノ森は判るのが、山の稜線は不自然に修正されている筆の跡がある。現在の稜線と合わないのは当然だろう。戦前や戦時中は要塞司令部の検閲があり、場所を特定できないよう山の稜線を塗りつぶしていた。
コンクリート造の学校のような建物がある。街の雰囲気的でいうと、昭和に入ってからの写真だろう。
長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 長崎市ノ全景
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
NAGASAKI GENEI
長崎古えはがき 長崎名所絵はがき (長崎名物) 長崎市ノ全景 其ノ一
■ 確認結果
「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。
長崎古えはがきの長崎名所絵はがき12枚目にある「 (長崎名物) 長崎市ノ全景 其ノ一」。左下直下に長崎市桶屋町の「光栄寺」、右上の木立の中に「諏訪神社」が写っている。
現在の風頭公園山頂展望台あたりから撮影した風景である。
長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 長崎市ノ景
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
NAGASAKI GENEI
長崎古えはがき 長崎名所写真帳 長崎市ノ景
■ 確認結果
「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。
長崎古えはがきの長崎名所写真帳19枚目にある「長崎市ノ景」。密集した町の中に1本の通りが左上へ伸びる。中央右上に高い石垣の大きな寺院がある。
この通りは「寺町通り」で、右上寺院は長崎市鍛冶屋町の「大音寺」だろう。その少し左側に写る寺は「皓台寺」と思われる。
撮影地は「寺町通り」をまっすぐ手前に伸ばして考えると、現在の西小島1丁目の「大徳寺公園」。大クスノキ(県指定天然記念物)のある神社あたりからとなる。大音寺本堂の向きが合う。参道左の赤く彩色した木は、クロガネモチ(市指定天然記念物)の大木だろう。
背後の山の稜線が、現在とは合致しないが、伊能忠敬研究会入江氏の見解は次のとおり。
「長崎市ノ景」は大音寺と晧台寺方向を撮影していると思います。赤く着色された木の左下に大音寺の中門が写っています。そして大音寺の右下に本石灰町の「満知多座」も写っています。幟が何本か立っている建物です。
この位置関係から大徳寺のあった高台、大クス付近から撮影されたものだと考えられます。大音寺の背後の山の稜線は右側が不自然で、若干塗りつぶされているようです。
長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 満知多座
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
NAGASAKI GENEI
長崎古えはがき 長崎名所写真帳 長崎市大工町
■ 確認結果
「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。
長崎古えはがきの長崎名所写真帳10枚目にある「長崎市大工町」。
この3階建て建物は、明治42年(1909)本石灰町に開設された寄席「満知多座」と思われる。新大工町にあった「舞鶴座」ではない。
伊能忠敬研究会入江氏の見解を、次のとおり教えてもらった。
「長崎市大工町」とは、「長崎市船大工町」のことだと思われます。「長崎市大工町」の古写真の左側に「HIKKUI MACHI」と「本石灰」の文字が写っているので「本石灰町」の住居表示のようです。
しかし、「長崎市船大工町」とすると古写真のように左にカーブする道ではなく、昔も今も「籠町」まではほぼ直線です。そこで住居表示から考えると、現在の福砂屋前から思案橋方向を撮影すると、このようなカーブになるのでは。
3階建ての建物は本石灰町にあった長崎宝塚劇場の前身「満知多座」(みちたざ)のようです。高い所にある屋号が電信柱で見にくいですが、「満知多座」と表記されているようです。
「満知多座」(みちたざ)はWikipediaによると明治42年から大正5年までで、その後は「三七三座」(みなみざ)になっています。現在は「リッチモンドホテル長崎思案橋」です。
よって、撮影時期は明治末から大正初めということだと思います。
満知多座の沿革は、若浦重雄氏著「長崎の歌舞伎」昭和50年発行にあるが、長崎年表の
1909年(明治42年)の記録は、次のとおり。
06/18★本石灰町34番地に寄席「満知多座」が開設
→1916(大正05)05/15☆「三七三座」に改称
→1919(大正08)05/03☆「南座」に改称
05/04☆こけら落とし興行は大阪歌舞伎の片岡仁左衛門一座。
演し物は長崎ゆかりの松平長七郎など
長七郎役の片岡我童が田上の長七郎の墓を参詣
→1942(昭和17)10/17☆大阪梅田映画劇場直営の演劇興行「長崎宝塚劇場」となる
→のち☆洋画常設館となる
→2005(平成17)02/18☆閉館となる
長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古えはがき 長崎市ノ景
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
NAGASAKI GENEI
長崎古えはがき 長崎名所写真帳 長崎市ノ景
目録番号:5643 長崎清水寺(11)
〔画像解説〕
真言宗清水寺の遠景。元和9年(1623)、僧・慶順が運慶の仏像を抱いて来崎し開いたという。島原城主・松倉重政が「瓦堂」(中央)を喜捨し、石欄をめぐらして京都の清水寺に擬したと古書は伝えている。この本堂は寛文8年(1668)10月、何高材が重建した。アーチ型の天井が前廊ではなく、内部にあるのが珍しい。安産祈願の参拝者が多い。
■ 確認結果
「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。
長崎古えはがきの長崎名所写真帳5枚目にある「長崎市ノ景」。長崎市鍛冶屋町の「清水寺」が写っているが、石門に対し本堂、鐘楼が逆である。おかしいと思ったら、写真版が反転されている。長崎大学データベースでは、目録番号:5643「長崎清水寺(11)」と同じような作品。
旧茂木街道が始まる東小島町の正覚寺境内あたりから撮影した写真と思われる。
長崎外の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 222頁 神奈川の街道
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
222頁 神奈川の街道 (長崎大学附属図書館蔵)
目録番号:6212 神奈川の街道
〔画像解説〕 なし
■ 確認結果
山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
222頁「神奈川の街道」(長崎大学附属図書館蔵)は、長崎大学データベース目録番号:6212「神奈川の街道」の作品だが、ともに画像解説はない。
この項は本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2330
目録番号:6212「神奈川の街道」は、朝日新聞社「写真集 甦る幕末」1986年刊84頁に掲載があり、タイトルを同じとしたようだが、写真集とも画像解説がないので場所がわからない。
横浜開港資料館HPの「3.F.ベアト幕末関係画像集」によると、この写真は「神奈川台町の関門 幕末期」【請求記号】Bc1-216-48 として解説している。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/picture/03_09.html
横浜の関門は、西ノ橋、海岸通4丁目のほか神奈川宿の神奈川台下や戸部村字石崎にも置かれていた(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。青木町は神奈川台町のことのようだ。
「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社1987年刊の53頁には、次のとおりタイトルなどが変更され解説がある。
作品 55、56:神奈川台町の関門
55(長崎大学データベース目録番号:6326「神奈川台町の関門(3)」の作品 掲載略) 神奈川開港後、警備を厳重にするために設けられた。被撮影地点が神奈川であることを疑問視する人もいるが、「ファー・イースト」1871年1月5日号に同一地点が写っている写真がある。後者では右手の崖が鉄道用地埋め立てのための土取り場として削りとられている。(ベアト撮影)
56(長崎大学データベース目録番号:6212「神奈川の街道」の作品) 写真55とは別なもうひとつの関門。左手が山側、右手が海側である。下田屋の看板が見える。(ベアト撮影)
長崎の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 197頁 日除船
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
197頁 日除船 (日本大学芸術学部蔵)
〔画像解説〕
小舟に屋根をつけた船は、日除船または屋根船と呼ばれ、特別豪華な船を屋形船と称し区別した。
目録番号:1276 和船(3)
〔画像解説〕
台紙にGroup of Japanese Junk and boat in the Canalとある。向こう岸にもやっている和船はかなり大型である。ここは運河というより入江みたいなところであろう。人々の生活のにおいがする。
目録番号:1206 長崎稲佐海岸(2)
〔画像解説〕
対岸には長崎の町並みが見える。民家を背景に3人の人物が座っている屋形船を写している。撮影者は内田九一。ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。
〔画像解説〕 超高精細画像
この写真は、長崎市街地の対岸、当時の渕村稲佐郷平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したものである。明治中期の写真である。目録番号5310(整理番号102-16)の写真と同じ場所のものである。潮が引いた船と人物を配して、岬の形の良い松の木と風格のある屋敷が写されている。岬の向こうに、長崎市街地の浦五島町が見える。絵画的な構図を意図した写真である。長崎湾の湾奥は、稲佐地区が長崎市街地側に突き出た地形になっており、そこを過ぎると長崎湾の北側の端である、浦上新田が見えてくる。稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。写真左手の岬の対岸が西坂の丘になっている。明治20年(1887)代には、長崎市街地の北の端は、西坂の丘付近であった。写真右に長崎湾の向こうに見えている長崎市街地は、立山の山裾と風頭山の山裾に挟まれた中心部の全域である。
■ 確認結果
山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
197頁「日除船」(日本大学芸術学部蔵)は、「幕末日本の風俗」の中に収録されているが、撮影地の解説がない。これは長崎港対岸、「稲佐崎」の舟津浦で撮影された写真である。
先の記事により154頁「和船」を載せた。長崎大学データベースでは、目録番号:1276「和船(3)」をF・ベアトは撮影している。同じとき撮影した日除船ではないか。
この項は本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3632
次のデータベース目録番号:1206「長崎稲佐海岸(2)」は、内田九一の撮影となるが、「ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している」と解説している。これがこの、197頁「日除船」(日本大学芸術学部蔵)だろう。
有名な写真で、朝日新聞社「甦る幕末」に掲載されていると現地説明板にあった。「甦る幕末」
1986年刊の95頁「屋形船 金持ちが舟遊びに使った」のことだが、撮影地の解説はない。対岸市中との間の「渡し舟」ではないか。
現在の写真は、丸尾町から稲佐崎があった旭町方面、旭町岸壁から大黒町方面を写した。
背景の山は、中央が武功山で左上が烽火山、右奥は日見峠方面の山である。山の稜線が同じであることがわかるであろう。
この項は本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1557
長崎の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 156頁 春徳寺の墓地
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
156頁 春徳寺の墓地 (厚木市郷土資料館蔵)
〔画像解説〕
長崎の春徳寺の墓地。
目録番号: 767 長崎の墓地(1)
〔画像解説〕 超高精細画像
F.ベアトによる書き込みに1866年3月とあって、撮影者と時期が判明する。ベアトは長崎では墓地をよく撮影していたが、これは春徳寺墓地の一葉である。春徳寺は、もとトードス・オス・サントス(ポルトガル語で諸聖人の意)という永禄12年(1569)に創設された長崎最初のカトリック教会があった場所で、現在は県の史跡に指定されている。この教会が慶長19年(1614)に破壊されたあと、寛永17年(1640)にそれまで岩原郷にあった寺を移転して創建したという、臨済宗の寺院である。その墓地は、境内から裏山に広がり、そこには著名な「東海の墓」(県指定有形文化財)もある。現在は墓域が再整備されているため、画面の位置を特定することは難しいが、地形からすれば「東海の墓」の裏手あたりか思われる。左上の樹叢が長崎氏の城跡「城の古趾」に連なるのであろう。ベアトの別の一葉の解説では、春徳寺を「“SPRING VIRTUE” TEMPLE」とも訳していた。
■ 確認結果
山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
156頁「春徳寺の墓地」(厚木市郷土資料館蔵)は、はっきりと「長崎の春徳寺の墓地」と解説しているが、はたしてそうだろうか。
長崎大学データベースでは、目録番号: 767「長崎の墓地(1)」にベアト撮影の同じような長崎の墓地の作品があり、これも「春徳寺墓地の一葉である」と解説している。
ベアトの書き込みが、両作品とも撮影地をはっきりと「春徳寺」と記しているのだろうか。「春徳寺」の墓地とするには疑問が多い。
この項は本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3523
156頁「春徳寺の墓地」(厚木市郷土資料館蔵)では、右下に写る大屋根の寺の確認が必要である。長崎大学データベース目録番号: 767「長崎の墓地(1)」では、背景に薄く写る山の稜線の確認が必要である。
松の木の樹形が同じものがある。墓地は同じところを撮影していると考えて間違いない。
「春徳寺」の墓地へ出かけても、このような景色は確認できない。墓地の地形も問題となる。寺の背後には広い竹林があり、寺と墓地は同時に写らない。この向きなら「城の古趾」へ連なる稜線ではなく、彦山や風頭山が近くに大きく写るはずである(最後の写真)。
私の感じでは、寺の位置と背後の山の稜線から、現在の写真どおり鍛冶屋町「大光寺」の墓地が最も考えられる。ベアトや上野彦馬は、大光寺を訪ねた写真が残る。
長崎大学で現地確認し、正しい検証をお願いしたい。
長崎の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 155頁 長崎遠景
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
155頁 長崎遠景 (横浜美術館蔵)
〔画像解説〕
ベアトは長崎の人口密度の高さを、この写真の墓地と長崎市内の建物で表現しようとして撮影したもようである。
目録番号:1292 小島付近墓地からの長崎市街地
〔画像解説〕 超高精細画像
現在の中小島付近から、小島養生所越しに、長崎市中心市街と立山を撮影した写真である。撮影時期を特定する対象物がないが、小島養生所の東側の建物が見えているので、目録番号
5306(整理番号102-12)と同じく明治10年(1877)代後半から明治20年(1887)代中期頃の写真と思われる。写真手前には、小島付近の墓地が撮影されている。その下の長い建物は、小島養生所から続く病院東側の建物である。その下の林は大徳寺の木立である。写真右側の町並みは油屋町で、山側の寺院は、清水寺と崇福寺である。油屋町の左側に整った家並みが見えるが、これは鍛冶屋町通りである。写真左の少し木のある場所は、長崎市役所から県庁に続く高台である。写真中央の山が立山で、その下に諏訪神社が見え、そこから左側の山裾の建物は、筑後町に続く長崎市の北側の寺町である。写真右の山に挟まれた地域が、片渕から西山である。丸山町・寄合町の山手中腹から、北側と南側の寺院群に囲まれた、長崎市街地の中心部を俯瞰した写真である。
■ 確認結果
山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
155頁「長崎遠景」(横浜美術館蔵)は、中央左下に小島養生所の建物が見えているので、小島養生所(現在の長崎市立佐古小学校の地)の上の尾根にある墓地から撮影されている。
長崎大学データベースでは、目録番号:1292「小島付近墓地からの長崎市街地」の作品である。これでは撮影地を、「小島付近墓地から」「現在の中小島付近から」「長崎の正覚寺の右上、小島郷のどんの山の墓地付近から」長崎の市内中央を望むと説明している。
撮影地はまだ上部。中新町あたりとなる「十善寺郷墓地」の高台からであろう。ドンの山までは行かない。長崎大学側で再検証をお願いしたい。
この項は本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1512