月別アーカイブ: 2013年3月

長崎の古写真考 ベアトの幕末 155頁 長崎の波止場

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長崎の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 155頁 長崎の波止場

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
155頁  長崎の波止場  (横浜美術館蔵)
〔画像解説〕
稲佐側から出島と居留地を望む。

■ 確認結果

山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
155頁「長崎の波止場」(横浜美術館蔵)は、どうしてこのようなタイトルと解説になったのだろう。同じ写真が横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1−幕末日本の風景と人びと」明石書店
2006年刊124頁に掲載されているが、タイトルは「159.長崎港遠景」である。
長崎大学データベースに見当たらない作品。

写っている手前の岬は、稲佐というより飽の浦側、長崎港の対岸にあった「身投崎」である。
現在、長崎市岩瀬道町のここに、三菱重工長崎造船所本社ビルと迎賓館「占勝閣」が建ち、下の入江に三菱造船所第2ドックができている。
遠く対岸の山は、烽火山と武功山、右は風頭山稜線の一部である。これらの山と手前の岬の位置を合わせると、現在の岩瀬道町「八軒家」バス停の上部高台から撮影した写真と考えられる。
この項は本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2670 

長崎の古写真考 ベアトの幕末 154頁 和 船

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長崎の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 154頁 和 船

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
154頁  和 船  (長崎大学附属図書館蔵)
〔画像解説〕
入江に浮かぶ和船と働く人が写っている。

目録番号:1276 和 船(3)
〔画像解説〕
台紙にGroup of Japanese Junk and boat in the Canalとある。向こう岸にもやっている和船はかなり大型である。ここは運河というより入江みたいなところであろう。人々の生活のにおいがする。

■ 確認結果

山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
154頁「和 船」(長崎大学附属図書館蔵)は、長崎港の稲佐崎、舟津浦の風景。
舟津浦は現在、埋立てられている。長崎市丸尾公園角にあった入江の波止場から対岸旭町の稲佐崎の高台の方を写している。遠くの山は浜平上や日昇館ホテルなどの山となる。

長崎大学データベースでは、目録番号:1276「和 船(3)」の作品である。
この項は本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1557
海岸埋立の様子は、丸尾公園に設置している「旧渕村の歴史を顕彰する会」説明板から。

長崎の古写真考 ベアトの幕末 153頁 鍋冠山からの長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 153頁 鍋冠山からの長崎港

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
153頁  鍋冠山からの長崎港  (長崎大学附属図書館蔵)
〔画像解説〕
大浦居留地、出島、対岸、長崎湾北部、長崎湾上の多数の船。慶応年間(1865〜67)の長崎の賑わいが見てとられる写真。

目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
〔画像解説〕    超高精細画像
鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

■ 確認結果

山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
153頁「鍋冠山からの長崎港」(長崎大学附属図書館蔵)は、何度も同じことを指摘するが、撮影地は「鍋冠山」ではなく、「星取山」からが正しい。
現在の写真は、上が星取山山頂近くの墓苑から、下が鍋冠山展望台から。景色の違いが、明らかにわかるだろう。 

F.ベアト撮影のこの作品は、多くの出版物に利用されている。長崎大学附属図書館が間違った解説の写真を、いつまでもそのまま提供するので、出版物はすべて誤っている。
この項は、本ブログ次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3626
https://misakimichi.com/archives/2832
https://misakimichi.com/archives/3107

山川図書出版について言うと、2011年4月25日発行した同じ古写真シリーズ集「レンズが撮らえた 幕末の日本」202頁に掲載された写真も、「鍋冠山からの長崎港」と解説している。
同編集部へ間違いを指摘したが、今回も生かされていない。目次頁に「*本書に収録した写真は、原則として所蔵元の題名で掲載した」とあるが、どこも無責任である。
所蔵元長崎大学の権威が疑われる。監修者も読者の立場に立った解説指導をお願いしたい。

長崎外の古写真考 ベアトの幕末 144頁 東海道

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長崎外の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 144頁 東海道

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
144頁  東海道 (厚木市郷土資料館蔵)

■ 確認結果

山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
144頁「東海道」(厚木市郷土資料館蔵)は、神奈川県足柄下郡箱根町湯本山崎の風景と思われる。資料「古老が語る 箱根山崎の歴史」と、現在の写真がある。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2669

長崎大学データベースでは、目録番号:2110「山間の民家」と、次の目録番号:5044「箱根街道(3)」に同じような松並木の街道の風景がある。
これは、HP「OLD PHOTOS of JAPAN」にある〔撮影者:江南信國〕の古写真だろう。

長崎外の古写真考 ベアトの幕末 140頁 駕籠が行く

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長崎外の幕末・明治期古写真考 ベアトの幕末 140頁 駕籠が行く

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

レンズが撮らえた F・ベアトの幕末
140頁  駕籠が行く (放送大学附属図書館蔵)
〔画像解説〕 
東海道を行く旅人と松並木の風景。

113頁  戸塚 (横浜美術館蔵)
〔画像解説〕
東海道、日本橋から5番目、距離にして10里半(約42キロメートル)の宿場町戸塚宿の風景。

■ 確認結果

書評は、2013年1月20日付朝日新聞。山川図書出版企画・編集「レンズが撮らえた F・ベアトの幕末」が2012年11月発行されている。
以下、疑問がある作品を、数点取り上げる。

140頁「駕籠が行く」(放送大学附属図書館蔵)は、東海道を行く旅人と松並木の風景である。
113頁「戸塚」(横浜美術館蔵)と、同じ近くの場所ではないか。遠い背景が似ているし、松の木の同じような枝ぶり?が確認できる。
140頁「駕籠が行く」も、宿場町「戸塚」付近の風景と思われるので、検証願いたい。

長崎県庁玄関前の孝子ソテツ  長崎市江戸町

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長崎県庁玄関前の孝子ソテツ  長崎市江戸町

長崎市江戸町の長崎県庁玄関正面の植え込み。北村西望翁の彫塑像「獅子吼」の背後にある。現地説明板は、次のとおり。加津佐町に生えていた由緒ある「孝子ソテツ」を、移植している。
現在の県庁の建物は、昭和28年(1953)できてから60年が経つ。そうするとソテツの樹齢は360年以上。長崎らしい見事な巨樹名木である。
ヒマラヤスギの幹囲2.5mくらいの大木も近くにあった。Go!Go!ともっちやさるくちゃんは、こんなことも紹介してほしい。

『蘇鉄 県庁へお嫁入り』   本朝24孝の1人が植えた由緒の品

去る6月近代建築の粋を集めて新装成った県庁へ日本24孝の1孝子が親のために植えたという樹齢300年を越える由緒ある蘇鉄2本が寄贈され、27日その玄関に姿を現わした。
この蘇鉄は延宝年間南加津佐町津波見名の安永安治さん(通称久右衛門)が父安兵衛さん夫婦の老後を慰めるため現在の同名字乙名に隠居場を建てその入口両側に植えたもので、現在根本の直径一尺高さ一丈五尺に上り、年中青い葉を付け、生き生きと風格を備えている。
安治さんは朝な夕な農耕にいそしむ傍ら年老いた父母の身を案じて痒いところに手の届くように面倒を見てつかえていたが、これが領主松平忠房公の耳に聞え延宝7年12月5日召出されて町民の模範としてお誉めになった。感激した安治さんはいよいよ両親の孝養に努め、その後も度々金品を賜って領主からお誉めにあずかったことが記録に残っている。

加津佐町ではこの遺徳を讃えるため孝子の命日である4月24日を記念し、毎年「孝子祭」を催してその供養を行うとともに青年団が主体となって町内孝子の表彰などをしているが、終戦後その子孫である安永ヨシさんが外地から引揚げてから元陸相荒木貞夫大将の題字を貰って新たに孝子の碑を建立、孝子祭もより盛大に行われるようになった。
現在同家跡にはその末えい安永軍蔵氏が居住しているが、同町長栗原大島太郎氏は、今回県庁が立派に竣工したのを機会にその玄関へこの由緒ある蘇鉄を持って行って植えたら県民の敬老心の作興にまことに意義深いと思立ち軍蔵氏に話しを持ちかけたところ同氏も快く承諾”無償で県へ寄付しょう”ということになったもの。
県では”それはまことに奇篤な”と大喜びで26日トラックに載せ運搬27日周到な地ならしをして植え付けた。
〔長崎民友新聞 昭和28年8月28日(金)〕 *注意*一部を常用漢字に修正しています。

獅子吼? 長崎市江戸町長崎県庁

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獅子吼? 長崎市江戸町長崎県庁

長崎県庁に用務があったのではない。北村西望翁の彫塑作品を見学に行った。玄関前正面に像はあるが、植え込みが茂り過ぎ邪魔。作品名の銘板や台座がまともに写せない。
「建立趣旨」は、次のとおり。歳月が経つと、こうも粗末に扱われるのだろうか。手前の植え込みは不要ではないか。作品全体を鑑賞できるよう配慮をお願いしたい。

建 立 趣 旨
この像は、長崎県名誉県民、北村西望翁(昭和33年文化勲章受賞、日本芸術院会員、日展名誉会長、日本彫刻会名誉会長)より、百歳慶賀に際し、県に寄贈された。
卓越した彫塑芸術の粋を極めたこの像は、翁の郷土愛の証ともいうべきものである。
ここに、北村翁への、敬愛と賛仰の誠をこめ、活力ある県政の象徴として、この像を建立する。
昭和58年12月16日   長崎県知事 長崎県議会議長

長崎の古写真考 長崎さるく 31頁 鍋冠山からの長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎さるく 31頁 鍋冠山からの長崎港

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

もうひとつの長崎さるく 豊かな景観と育んだ歴史的個性
31頁 鍋冠山からの長崎港

目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
〔画像解説〕    超高精細画像
鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

■ 確認結果

谷村賢治・杉山和一・渡辺貴史氏著「もうひとつの長崎さるく 豊かな景観と育んだ歴史的個性」晃洋書房2011年11月発行の31頁に掲載された「鍋冠山からの長崎港」の新旧対比写真。長崎大学データベースでは、目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」の古写真である。

著者は、いずれも長崎大学大学院水産・環境総合科学研究科の教授ら。目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」の撮影地は、「鍋冠山」ではない。「星取山」からでないと、稲佐山と岩屋山の稜線が合わないし、大浦川の河口がこのように斜めに写らない。
新旧対比写真を掲げながら、教授らはなぜ撮影地の間違いに気付かないのだろうか。

F.ベアト撮影のこの作品は、多くの出版物に利用されている。長崎大学附属図書館が間違った解説の写真を、いつまでもそのまま提供するので、出版物はすべて誤っている。
この項は、本ブログ次の記事を参照。以前から何度となく指摘している。
https://misakimichi.com/archives/2832
https://misakimichi.com/archives/3107

間違いを指摘しても、一向に訂正しない長崎大学附属図書館の体制は問題が多い。現地確認を早急にお願いしたい。利用者や出版社にとっては、ひどく迷惑である。
一方、目録番号:4878「ドンの山(から)見た大浦居留地・出島」も同じ写真。なぜこれも「ドンの山」からとなるのか。「星取山」からが正しい。
現在の写真は、上が星取山山頂近くの墓苑から、下が鍋冠山展望台から。

煉瓦造アーチ式石橋の橋名と架橋年代が判明  坂下橋は現存せず

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煉瓦造アーチ式石橋の橋名と架橋年代が判明  坂下橋は現存せず

長崎市に残る煉瓦造アーチ式石橋は、本ブログ次の記事を参照。石張りの川「地獄川」と「シシトキ川」の溝梁に3橋が現存する。
https://misakimichi.com/archives/787
https://misakimichi.com/archives/810
銀屋町公民館角シシトキ川の「稲荷橋」のみ橋名がわかっていたが、ほかの橋とも正しい橋名と架橋年代が確認できなかった。

長崎歴史文化博物館の郷土資料として、古賀十二郎文庫「長崎橋梁台帳」があることがわかり、同台帳の記録は次のとおり。
写 真  2〜  4  桜 町のは、「真 中 橋  明治28年4月起工」
写 真  5〜  7  栄 町のは、「引 地 橋  明治28年4月起工」
写 真  8〜 10  銀屋町のは、「稲 荷 橋  明治28年4月起工」

なお、同台帳には、今魚町・材木町間(現在の賑町)にも、煉瓦造アーチ式石橋「坂 下 橋  明治28年4月起工」の記録がある。
写 真 11〜 16  賑 町の、 「坂 下 橋  明治28年4月起工」 現状と遺構
現在の中央公園南側となる。坂とは長崎地方法務局横の「天満坂」のことだろう。坂下の通りであるから、居酒屋鍋幸前あたり。中央公園の開口部から暗渠を調査したが、水路が直角に2方向へ変更され、オーバーフローを中島川に別に流すようなマンホールがあった。
煉瓦造アーチ式石橋「坂 下 橋」が、いつ撤去されたか不明。すでに現存せず、橋桁部分のような煉瓦造石積み跡だけ確認した。

最後の図は、布袋厚氏著「長崎石物語」(2005年刊長崎文献社)24〜25頁の”石張りの川 シシトキ川”から。長崎市に残る煉瓦造アーチ式石橋について、橋の位置を表示した。
栄町長崎女子商高角の「引地橋」は、海野酒店側から暗渠を潜った内部にあるので、通常はその姿を見ることができない。

長崎の古写真考 長崎古写真 佐賀藩屋敷跡砲台場?

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長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古写真 佐賀藩屋敷跡砲台場?

長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

NAGASAKI GENEI
長崎古写真  不明 長崎あるいは例外 佐賀藩屋敷跡砲台場?

目録番号: 35 長崎のパノラマ(2)
〔画像解説〕    超高精細画像
聖福寺裏山中腹から市街地北部と湾口を撮影した着色写真である。撮影年代は、明治20年代後半、明治23年以降明治30年までと考えられる。写真左中央付近に緑色の木立があるが、左に県庁舎があり、右が出島である。出島の端にトラス橋が見えるが、これは第1次長崎港改修事業の中島川変流工事で変流した中島川河口に、明治23年(1890)に架設された新川口橋である。また、出島から大波止・浦五島町・大黒町に至る海岸線に、浦上新道が建設されている。写真右側の緑の平地は、旧佐賀藩邸跡に建設された砲台であり、海岸線に並ぶ大砲を見ることができる。明治10年(1877)代の目録番号2899(整理番号58-33)の写真と比べると、海岸線付近の建物が建て変わり、海岸線に向いて長い倉庫郡が形成されている。写真下部中央の家並みの中に道路があり、この道路が海と接する付近が、岩原川河口で、河口に架かる岩原橋が見えている。明治22年(1899)の市制施行直後の、長崎市街地北部と、後に内陸化する砲台付近の海岸線が撮影されている。

■ 確認結果

「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。

長崎古写真の中にある「不明 長崎あるいは例外」の7枚目と11枚目。撮影地は同じと思われる。何かの式典の様子。中央の万国旗、受付のような建物、その横に立つ人物が同じであろう。
左右に並べると、背後の山は、左側は稲佐山の稜線の奥に岩屋山、右側は西坂の丘の上に立山山頂へ稜線が上がる。JR長崎駅前高架広場からいつも見慣れる景色である。

白塀や屋敷、松、煙突などに注目した伊能忠敬研究会入江氏の調査によると、長崎大学データベース目録番号: 35「長崎のパノラマ(2)」の超高精細画像に該当する場所があった。
現在の長崎駅前西口から南口にかけてあった「佐賀藩屋敷跡に築かれた砲台場」である。撮影年代は不明だが、貴重な古写真となろう。

西坂の丘上は、本蓮寺までは写っていない。現在のNHK長崎放送局、26聖人殉教地記念館、または長崎市立西坂小学校あたりの当時の建物と思われる。
参考に布袋厚氏著「復元! 江戸時代の長崎」長崎文献社2009年発行 復元図2も掲げる。
現在の写真は、山の稜線が見えるところから適当に撮影し合成した。