長崎の幕末・明治期古写真考 長崎古写真 佐賀藩屋敷跡砲台場?
長崎大学附属図書館幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
NAGASAKI GENEI
長崎古写真 不明 長崎あるいは例外 佐賀藩屋敷跡砲台場?
目録番号: 35 長崎のパノラマ(2)
〔画像解説〕 超高精細画像
聖福寺裏山中腹から市街地北部と湾口を撮影した着色写真である。撮影年代は、明治20年代後半、明治23年以降明治30年までと考えられる。写真左中央付近に緑色の木立があるが、左に県庁舎があり、右が出島である。出島の端にトラス橋が見えるが、これは第1次長崎港改修事業の中島川変流工事で変流した中島川河口に、明治23年(1890)に架設された新川口橋である。また、出島から大波止・浦五島町・大黒町に至る海岸線に、浦上新道が建設されている。写真右側の緑の平地は、旧佐賀藩邸跡に建設された砲台であり、海岸線に並ぶ大砲を見ることができる。明治10年(1877)代の目録番号2899(整理番号58-33)の写真と比べると、海岸線付近の建物が建て変わり、海岸線に向いて長い倉庫郡が形成されている。写真下部中央の家並みの中に道路があり、この道路が海と接する付近が、岩原川河口で、河口に架かる岩原橋が見えている。明治22年(1899)の市制施行直後の、長崎市街地北部と、後に内陸化する砲台付近の海岸線が撮影されている。
■ 確認結果
「NAGASAKI GENEI」というサイトがある。ウェブ検索でなかなか表れないが、長崎の貴重な古絵葉書や古写真を多数、公開されている。
タイトル以外、特に説明がない。撮影地など一般にわかりにくいものを、取り上げ考えてみる。
長崎古写真の中にある「不明 長崎あるいは例外」の7枚目と11枚目。撮影地は同じと思われる。何かの式典の様子。中央の万国旗、受付のような建物、その横に立つ人物が同じであろう。
左右に並べると、背後の山は、左側は稲佐山の稜線の奥に岩屋山、右側は西坂の丘の上に立山山頂へ稜線が上がる。JR長崎駅前高架広場からいつも見慣れる景色である。
白塀や屋敷、松、煙突などに注目した伊能忠敬研究会入江氏の調査によると、長崎大学データベース目録番号: 35「長崎のパノラマ(2)」の超高精細画像に該当する場所があった。
現在の長崎駅前西口から南口にかけてあった「佐賀藩屋敷跡に築かれた砲台場」である。撮影年代は不明だが、貴重な古写真となろう。
西坂の丘上は、本蓮寺までは写っていない。現在のNHK長崎放送局、26聖人殉教地記念館、または長崎市立西坂小学校あたりの当時の建物と思われる。
参考に布袋厚氏著「復元! 江戸時代の長崎」長崎文献社2009年発行 復元図2も掲げる。
現在の写真は、山の稜線が見えるところから適当に撮影し合成した。