月別アーカイブ: 2007年9月

大村湾の風景(2)  喜々津から伊木力・長与へと行く

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大村湾の風景(2)  喜々津から伊木力・長与へと行く

平成19年9月27日と28日、喜々津から伊木力・長与へと行く。県道207号線沿いの大村湾の風景。のぞみ公園・虚空蔵山・高岩神社・堂崎の鼻・湧井崎公園などから写した。

長崎街道久山茶屋跡の井戸は、竜馬の井戸か?

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長崎街道久山茶屋跡の井戸は、竜馬の井戸か?

ブログ”長崎風来紀行”は、あくまで私が素人目で感じた歴史のおもしろい話題の寄せ集めに過ぎず、別段深い史実の考察をするものでない。この井戸の話も、地元はそうなってほしいかも知れないが、はたしてどうだったか考えさせる指摘があり、紹介してみたい。
松尾卓次著「長崎街道を行く」葦書房1999年刊、30〜31頁の説明は次のとおり。

竜馬の井戸?
井樋尾峠を下ったら久山茶屋跡に出た。途中の道はダム築造ですっかり変わってしまった。茶屋跡には大きな石組みの井戸が残っている。旅人はこの井戸でのどを潤して、元気をつけて歩き通したのか。これだけが当時を語る証人だ。
なんとこの井戸を「竜馬の井戸」という人がいる。坂本竜馬が長崎へ行ったとき、ここで一服したという。これは間違いであろう。竜馬は、この峠道を通ってはいない。
確かに長崎街道を竜馬は行った。元治元(一八六四)年二月二三日と四月四日に往復している。勝海舟が欧米列強の下関砲撃を慰留するために、長崎へ遣わされたときのことである。師として仰ぐ海舟のお供として同行した。
『勝海舟日記』などによって、竜馬たちの足取りを探ろう。
一行は二月一四日、海軍塾生の操艦訓練を兼ねて兵庫を出帆。翌日豊後・佐賀関に着岸し、豊後街道を熊本へ向かう。二〇日に熊本・新町の本陣に止宿。二一日夜、有明海を渡海して翌朝早く島原湊に上陸、城下本陣で一休みして長崎へ急いだ。
「熔岩様交りの悪路を通る」と、日記に書かれているので、島原街道の抜け道である温泉岳の北山麓をつき切る千々石道を通行している。この道は、海沿いの街道にくらべると二里程短く、島原藩主の長崎監視時によく利用されていた。その夜は愛津村庄屋宅に宿泊している。
この年、勝四二歳、竜馬三〇歳と意気盛んな年齢であった。二三日島原領を抜け、諌早領有喜村、田結村を通って矢上宿へ出、長崎街道を行く。長崎へ着いたら、すぐに奉行役宅に出向いている。
愛津村から諌早を通ると大回りになって、急ぎ駆け付けねばならぬ旅であるから、久山茶屋を通過したことはあるまい。また長崎到着は案外早い時刻であったろう。
なお帰路は四月四日に長崎出立。往路と同じ道をたどったと見え、五日島原宿まり、一一日に佐賀関を出帆。翌日には大阪に着いている。
このように島原街道は、長崎街道の脇街道としての役割を果たして、長崎への往復に多くの旅人が利用していた。

琴の尾岳のもう1つの烽火台跡  山頂北側山腹

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琴の尾岳のもう1つの烽火台跡  山頂北側山腹

諌早市多良見町と西彼杵郡長与町の境にある琴の尾岳は、標高451.4m。四方の眺望よく大村湾と長崎空港を眼下に望み、公園として整備されている。山頂の展望台には琴尾神社があり、鎖国時代、長崎烽火山から烽火の知らせを受ける重要な中継地点となり、烽火台跡がある。その跡は無線中継所下の駐車場側にあり(別項ですでに紹介している)、一般の人にはここしか知られていない。

しかし、琴の尾岳にはあと1つ、別の場所に同じような烽火台跡があった。別項の引用文末尾にあったが、多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊の「二、琴ノ尾岳狼煙台跡」の項195頁の記しているのは次のとおりである。

狼煙場跡は、この地から約一キロメートル北側にも一基ある。これは『郷村記』には記されていない。位置にしても「長崎狼火山の狼煙」と直接には、「請継」ぐことはできないところにある。どのような意味をもち、働きをするものか容易には断定できない。本来の「狼煙場」がなんらかの事故により狼煙を上げえなかった時、その補助的意味をもつものであろうか、という見方もある。

この一基はどこにあり、どんなものか、私も知らなかったから、さっそく行ってみた。現地は多良見町佐瀬。琴の尾岳の北側山腹となり、車で行く以外はわかりにくいところにある。伊木力から長与へ至る県道207号線で五十石公民館まで行く。この先に入口案内標識があり、標識に従い10分ほど勢女集落を過ぎ林道をひたすら登る。畑地の奥にやっと烽火台跡が見える。
写真のとおりの見事な烽火台跡である。郷土誌が記す疑問がよくわかる。不思議な烽火台跡であった。
場所は、別項の琴尾神社一の鳥居(勢女道)があったとされる近くであるので、その地図を見てもらいたい。道路マップにも表示されている本がある。

琴尾神社の一の鳥居はどこにあるか

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琴尾神社の一の鳥居はどこにあるか

諌早市多良見町と西彼杵郡長与町の境にある琴の尾岳は、標高451.4m。山頂に琴尾神社が祀られている。多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊785頁の説明は次のとおり。

1.琴尾神社一の鳥居
明治三十一年四月、村長川津藤十の時に建てた。往時の琴尾神社参道をまたいでいる。

2.琴尾神社一の鳥居(勢女道)
当時の参道は廃道となり、雑木林の中にある。額は琴尾神社、昭和三十二年、五十石中とある。もとはもっと下方にあったが、台風で倒壊、側の石垣にはめこまれている。

3.琴尾神社
祠の前に二の鳥居。祠の中に厨子二基がある。右は大きく、光背をそなえた普賢菩薩を安置する。左の厨子は小さく中に「琴尾大神」を納める。明治廾□年九月吉日の奉造である。祠の脇に「伊木力村中 佐瀬村中 乙夘三月吉日建立」の小さな碑がある。乙夘は寛政七年である。この年正月廾三日「普賢菩薩の御神体と祠を建立したい」と願い出たことが、前出稲毛文書に書かれている。鳥居の傍に「寛政八年丙辰八月吉日 佐瀬村 崎邊田 大浦 氏子中」の他五名の氏名を刻んだ石柱がある。何を寄進したのか不明。辺りは公園として整備され、眺望もすばらしい。

山頂にある鳥居は、二の鳥居である。長崎から行くと一の鳥居はお目にかからず、どこにあるのか、地図を見て探しに行ってみた。1に記した一の鳥居は、松ノ頭トンネル入口から「琴の尾公園」の標識に従い、車で登ると山頂との中間くらいに琴ノ尾集落があり、琴ノ尾公民館がある。大きくカーブしている地点で、この下の作業所下の農道を少し下ると三叉路に鳥居があった。ここが伊木力からの往時の参詣道である。

問題は、伊木力の先、佐瀬の勢女(せめ)集落というところから上がった参詣道である。今は廃道となったが、かつてこの勢女道にも2に記すとおり、五十石中が奉造した一の鳥居があった。台風で倒壊して石垣にされているが、それを探しに行ってみた。
地図から見ると、佐瀬は五十石バス停先から入る。琴の尾岳のもう一つの烽火台跡に行く道で、案内標識に従って登った。佐瀬勢女集落の一番上の家とその上の高台の墓地の間あたりにあったようだと、地元から話を聞いたが、探してもまだわからずにいる。

「多良見町郷土誌」平成7年刊のこの調査は、中里名にお住まいの田中秀穂先生の稿である。掲載写真では鳥居が完全に建っていて、記されていることと写真が違うので、先生の自宅をお訪ねし聞いてみた。先生が言うには、勢女ないし佐瀬道には鳥居が2つあった。台風で壊れたのと、その先の山頂への道をたどって行ったら、雑木林の中に完全に立っていた鳥居があり、自分もびっくりしてこの写真を撮って、郷土誌に載せたとおっしゃる。年月が経ち、場所をよく聞いてもはっきりしない。

高齢となられ同行は願えず、先生の話の聞き違いと思われず、今3度通ってこの辺りを探している。地元の人の話もはっきりしない。まことに不思議な佐瀬一の鳥居の話である。できれば地元でよく調査をし、記録してもらえればと思う。私は地図12「琴の尾」を見ると、まったく別の場所を探しているように感じる。

多良見町西園の「十六善神社」と元釜虚空蔵さんの「浮」の額片

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多良見町西園の「十六善神社」と元釜虚空蔵さんの「浮」の額片

旧喜々津村と大草村の境、立石峠に残る「十六善神道」の標石(別項)から「十六善神社」を調べねばならないこととなった。立石峠が十六善神に参詣する多くの人たちが通った道だったからである。
多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊710〜711頁は次のとおり「十六善神社」を記している。現在の所在地は、多良見町西園にあり、東西園公民館の上に神社はある。

十六善神社 由緒及び沿革
この神社は、もとは元釜名字浮津にあって、浮津大明神(神社)といった。浮津は琴海中学校の校門前一帯の地名で、むかしの海岸である。
延宝三年(一六七五)のこと、疱瘡(天然痘)が流行したとき、神のお告げにより現在地に遷して祀ったところ、疱瘡の流行が止んだという。専務神官をおいたのは寛文十六年(一六六一)というから、浮津宮時代からの神官ということになる。以来一二代に亘って高以良氏が奉仕されたが、現在は神官不在である。
寛永六年に描かれた絵図・大草村図には、十六善神社と浮津大明神も記載されているところを見ると、浮津宮を全て遷したのではなく、浮津宮から十六善神のみ分けて遷したものと考えられる。
ともあれ、十六善神は疱瘡の神様としてひろく崇敬され、遠来の参詣者もあったらしく、立石峠には「十六善神道 木下又平」の道標が建っている。諌早家においても、その年中行事暦「神社祭礼と仕来り」に「九月十七日 大草村十六善神社祭 御代参」と書き留めて、毎年代参を遣わし、米一二俵が供進されたのであった。
天保十四年、藩主鍋島家の若君勇太郎が疱瘡にかかった時は、喜々津村の村役も十六善神社(惣百姓は氏神社)に参詣するようお達しがあっている。
一の鳥居は安永五年(一七七六)の建立で、高井良□□、その他数行の氏名が刻んである。馬場には泉水があって石の太鼓橋が架かっている。寛政元年(一七八九)に寄進されたものである。泉水もこの時造られたものであろう。二の鳥居右柱には、當村領主、三村□□□門と刻まれている。…

伊木力にあった神社を神のお告げにより、古くから大草に移転したので疱瘡の流行が止んだと記している。もともとの神社の地がどこだったか。これは同じくあった浮津宮の鳥居の額片が、琴海中学校あたりの畑から出土したので、場所がわかった。
この貴重な額片は、現在、高岩神社と谷を隔てたもう一方の高台の山中にある元釜虚空蔵さん仏石座の真ん中に据えられてある。同「多良見町郷土誌」774頁の説明は次のとおり。
2.虚空蔵(こくんぞ)さん 自然石に菩薩像を浮き彫りしてあり、神々しい趣がある。中央の鳥居の額片は浮津神社の跡地から出土したもので「浮」の字がよめる。

立石峠の「立石」と「十六善神道」の標石  多良見町喜々津・大草境

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立石峠の「立石」と「十六善神道」の標石  多良見町喜々津・大草境

別項の『多良見町で見る「立石」と「石仏」』において、④「立石峠」は次のように紹介していた。

最後の④は、まだ現地に行ってないので写真はない。②にも記している多良見町木床・東園境の立石峠にある。同「多良見町郷土誌」757頁に次のとおり記している。
3.立石峠 旧喜々津村・大草村の村境の峠。傍らに大きな石が立ててある。道端に「十六善神道 木下又平」の標石がある。ここは喜々津・大草を結ぶ道筋であり十六善神へ参詣する人が通った道であった。
郷土誌には大きな石の写真はない。道端の標石はある。ここは東園の小字「上西ノ浦」か、すぐ下に「立石ノ下」なる小字がある。

この「立石峠」の名の由来になった「立石」とは、はたしてどんな石だろうか。「多良見町郷土誌」に写真はなく、実際に峠の現地を探してみた。地図では赤点の位置である。林道が大きく尾根を曲るところで、目印は角の多良見町防災無線中継局。のぞみ公園の県道先から入れるし、西川内から虚空蔵公園へ上らず林道をずっとたどっても行ける。

中継局の反対、林道上手の山中の尾根筋を探すとすぐ見つかる。ここが「立石峠」で昔の旧道跡が三叉路に残る。石を立てているのでなく、大岩が立っている。自然のものとも考えられる立石である。苔むして高さ1.9m、横1.2m位。上への道は虚空蔵山の方へ上り、当時の諌江八十八所巡りの道とも考えられる。
「十六善神道 木下又平」は、道を隔てた小さな自然石に浅く彫られ、字は消えかかっている。高さ50cm、横23cm、巾20cmほど。立石峠は当時の集落を結ぶ重要な要路。十六善神の参詣路でもあったが、今、そのことと位置を知る人は、地元でもほとんどいなくなって、忘れられた存在となっている。

「十六善神神社」については、いろいろいきさつがあり、次項で紹介する。

多良見町にもあった2つの「龍宮(じゅうご)さん」祠

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多良見町にもあった2つの「龍宮(じゅうご)さん」祠

天草の漁民信仰「十五様」(じゅうごさん)祠は、長崎にも小浜富津弁天山公園と茂木赤崎鼻にあることを別項で紹介していたが、大村湾の奥部、多良見町にも同じ呼び方の「龍宮(じゅうご)さん」が2つあることが、最近わかった。

多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊新版の「三、野の仏たち」の中、地図1〔化屋・元釜・船津〕723〜724頁は、同町化屋の化屋公園近くに「龍宮(じゅうご)さん」があることを次のとおり記している。
6.龍宮(じゅうご)さん
堂に龍王ほか観世音など数体の尊像を安置する。堂の左側には立派な石塔がある。『塔施 弟 中』の四文字が読める。これら尊像も塔も、部落の丘の上にあった「大島庵」にあったものと、近所の老人は語っている。堂右脇の蛭子神は喜々津駅前の「シマヤ」の庭先にあったものを持って来たという。

また、地図5〔先木床〕758頁は、同町木床の白岩鼻近くの海岸部に「龍宮(じゅうご)さん」があることを次のとおり記している。
7.龍宮(じゅうご)さん 
龍宮さんは大島(うしま)にもあるので、行って話をしてみると、大島でも「ジュウゴサン」といっている。柱状節理の発達した安山岩の崖に抱かれるようにして、龍宮神の祠がある。龍宮神は海を鎮め、豊かな漁をもたらす<釣>の神であるが、ツリが攣(痙攣 けいれん)に転じて、子供のひきつけを封じる<攣神さん>ともされ、まっくろく焦がした大豆を供えて「この豆が芽を出すまでお守り下さい」と祈願したものだという。
ピャーロン開始に先だって関係者は必ず参詣する。干潮時には「のぞみ公園」から行ける。(潮の満ちていたため、祠はまだ未確認)

虚空蔵山系の飯盛山と歌舞多山頂にある「鑛福」の標石

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虚空蔵山系の飯盛山と歌舞多山頂にある「鑛福」の標石

京都市上西勝也氏は、測量標石から見た近代測量史の研究家。インターネットサイト「三角点の探訪」を作成されている。氏のもとに鹿児島の測量業の方から、同県内で「鑛福」と刻字のある標石が見つかったので素性を知りたい、と相談があった。
氏が調べると、戦前、九州全体の鉱山を統括する福岡鉱山監督署またはその関係によって設置された鉱区の境界を示す標石のようで、鹿児島だけではなく、長崎や他県にもあることがわかったそうである。
長崎県では、山歩きをする人のHPに虚空蔵山系の飯盛山と歌舞多山にこの標石があることが記録として出ており、現地へすぐに行けないので、私に調査依頼があった。

平成19年9月26日、車で調査に行く。東そのぎインターで降りて北を見ると、飯盛の形そっくりの山がすぐわかる。国道34号線嬉野へ下る俵坂峠手前から左の「広域基幹林道虚空蔵線」へ入る。5分ほど走ると飯盛山への尾根を越すところがあり、ここから植林地の尾根の踏み跡を伝うと15分で飯盛山の山頂へ着いた。四等三角点009 426。標高362.4m。
この傍らに53cm離れて「鑛福」の標石があった。15cm角、高さは低く、地面から14cm。赤茶けた色をしており花崗岩のよう。刻面は正面の「鑛福」と上面に方角を示した「+」のみ。「鑛福」は横書きで左から読めばそうだが、右からは「福鑛」と読め、これが正しいのでないだろうか。

虚空蔵山の奇岩鋒下を回り込み、波佐見に続く広域林道をさらに20分ほど行く。岩屋・木場の両登山口を過ぎ、木場林道分岐から石木ダム建設に揺れる川棚町木場の集落へ降りた。歌舞多山は、岩屋川と木場川に挟まれた山。集落の背後にそびえるコニーデ状の山で、山城跡である。
中木場バス停に車を置き、上に見える山頂を目指した。植林地の中は右手尾根沿いに道跡があり、谷間をつき上げると後は大石の岩場の稜線を頂上へ10分ほど急登した。歌舞多山は現行地形図に山名はないが、標高343.0mの山。中木場は150m位だから標高差200mほど登ったこととなる。山頂近くに境塚らしきものを10基ほど見、その写真を撮りながらであったから、約50分を要した。
植林の山頂は、歌舞多城跡の表示あり、四等三角点009 412がある。この傍らに74cm離れて「鑛福」の標石があった。飯盛山のとまったく同じもので苔むしていた。

帰りは虚空蔵山の方へ尾根が続き、道がはっきりしていたので辿ってみた。頂上直下はロープが長く張られた岩場の急斜面を降下する。ここにも木場へ下る道があるようだ。あとは雑木林の尾根道がたんたんと続き、頂上からは30分ほどして「木場へ」の標識あり、下ると林道となり、すぐ木場の水汲み場のところへ出た。この尾根縦走路は、平成15年県体コースで整備されているようで、広域林道の木場登山口に出て虚空蔵山へと続いている。
なお、後日虚空蔵山へ行った時、上木場の橋脇に「歌舞多城址登り口」の案内標石を見た(最後の写真)。この道から登るのがいいようだが、もう荒れているのではないか。

「彼杵鉄鉱山跡」と「歌舞多古城」の史料

山歩きの人のHPは、「鑛福」で検索すると標石の記録と写真が出てくる。これを参考に現地の標石を確認したわけであるが、帰ってから史料など少し当ってみた。
標石の設置史料はまだ見出しえないが、その背景となる史料類。まず「彼杵鉄鉱山跡」は、大村史談会「大村史談 第十二号」昭和52年3月発行に掲載されている。東彼杵教育委員会「東彼杵町史跡あんないー探訪のしおりー」中の113頁に以下のとおり説明がある。
虚空蔵火山が造り出した各種鉱石の鉱脈は、山系周辺の各地に見られた。明治以後、波佐見では大金山が採鉱された。嬉野温泉センターの泉源も石炭試掘の恩恵とのことである(波佐見史下巻)。また、川棚史談会松崎会長にお聞きすると、飯盛山の標石はご存じなく、歌舞多山のは見ている。山の持ち主標石と思っていた。他にある所は調べられてないということであった。

彼杵鉄鉱山跡
飯盛山のふもとに川内郷木場前からと飯盛側から何本かの坑道が掘られ鉄鉱山の跡が残っている。この鉄鉱山から産出する鉄鉱石は褐鉄鉱という黄褐色の鉱石で鉄の含有量は三〇〜四〇%の貧鉱であり、鉄の生産には余り適当とはいえない。この鉄鉱石がいつの頃発見され、利用され始めたかは不明である。大正の初期この鉱石を製鉄のためでなく顔料(ペンキなどの着色剤)の原料として採掘したことがあったが収益上らず廃鉱となった。
昭和に入り、戦争が激しくなると、重要鉱山として指定され、昭和十三年から三和工業所(本社・大阪 社長倉本徳一氏、鉱長野田寛治氏)の手で製鉄のための鉱石採掘が再開され一〇〇名ぐらいの人が就労し、鉱石は八幡製鉄所に送られた。採鉱は敗戦の時まで続いたが廃鉱となり現在は全く放置されている。

次は藤野保編「大村郷村記 第三巻」昭和57年刊、川棚村の項224頁の「歌舞多古城」の古記録。
一 歌舞多古城
東川棚村木場と云ふ所にあり、此城至て嶮岨にて、東北の方は鳥も翻りかたき難所也、西の方追手と見へ少しの平易あり、北の方山の八合目の所に樵夫の通ふ細き横道あり、此道より頂上まで五拾七間、手の裏を立たるか如し、天和の記曰、本丸東西壱町、南北拾弐間、石垣高四間、長拾五間、西の方にありと云、今は石垣の形ちのみ残れり、此所より小峰の城酉の七度に當る、二の丸南の方堅六間、横三間、石垣高三尺五寸、長九間、今は雑木山にて其跡分明ならす、水の手弐間程下にあり…

陸軍省要塞標石探し  佐世保市高橋輝吉氏の足跡 (2)

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陸軍省要塞標石探し  佐世保市高橋輝吉氏の足跡 (2)

2007年(平成19年)8月31日付読売新聞夕刊と同記事が9月2日付佐世保版に掲載があった。東京都小笠原諸島まで調査しているので、写真とも続報として紹介する。

多良見町に見る自然石の「立石」と「石仏」

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多良見町に見る自然石の「立石」と「石仏」

上の写真のとおり、多良見町に不思議な自然石の立石が建てられている。

最初の①は、長崎バイパス前岳トンネルの北上の山で大山と言われるピーク。四等三角点があり、標高は424.2m。長崎市畦別当町と諌早市多良見町山川内、同西川内の三方境にある。
これは別項「藩境塚」ですでに紹介している「大村郷村記」壱岐力村(伊木力村)や浦上木場村に記された三方境折木境塚の塚上「立石」である。「山」と刻みがある。「郷村記」よる寸法は「高さ四尺(121.2cm)廻り五尺(151.5cm)」。ここは西川内の小字「折木」か山川内の「大山」。

次の②は、多良見町西川内の虚空蔵山公園登り口となる西川内高部配水池のタンク裏にある。これは多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊751頁に次のとおり記している「石仏」である。
11.石 仏 西川内から中里へ越える峠の畑の中にある。立石峠の「立石」と同種のものであろう。余所(よそ)から悪霊(病気など)が入って来るのを塞ぎとめる<塞ぎの神>ではなかろうか。
畑が今、配水池となっている。寸法は高さ120cm、根元の全横80cm、石の厚さは20cm。台座廻りは125cmだった。ここは西川内の小字「石佛」。

次の③は、多良見町元釜の高岩神社の参道途中左に建つ。同「多良見町郷土誌」774頁に次のとおり記している「巨石」である。
1.高岩神社 『諌早日記』文政八年四月四日に「大草村元釜金毘羅山」と記されたところで、一般には「こんぴらさん」といわれている。登山口に明治十三年建立の「高岩神社」の鳥居がある。尾根筋に出ると眺望が展け絶景である。路傍に巨石が建つ。嘉永六年の大草村地図にも載っているものである。…
以前に水洗山からの下りにこの石は見ていた。寸法は再度行って測ると、高さ170cm、横60cm、巾36cmあった。ここは元釜の小字「下ノ谷」。

最後の④は、まだ現地に行ってないので写真はない。②にも記している多良見町木床・東園境の立石峠にある。同「多良見町郷土誌」757頁に次のとおり記している。
3.立 石 峠 旧喜々津村・大草村の村境の峠。傍らに大きな石が立ててある。道端に「十六善神道 木下又平」の標石がある。ここは喜々津・大草を結ぶ道筋であり十六善神へ参詣する人が通った道であった。
郷土誌には大きな石の写真はない。道端の標石はある。ここは東園の小字「上西ノ浦」か、すぐ下に「立石ノ下」なる小字がある。

以上、多良見町にある4つの同じような格好の石を紹介した。①のみ「山」と刻みあり、他は無刻の自然石である。「郷村記」に記した①との関連から、特に②が寸法が似ていたので少し調べてみた。「境石」か「石仏」か。小字名もいろいろあり、地元でもう少し詳しく調べていただければ幸いである。
なお、同郷土誌は稿の前書きとなる721頁、「三、野の仏たち」は次のように記していた。

路傍の祠をたずねて町内くまなく歩いたつもりだが、まだまだ失礼している祠もあるかもしれない。それを思うと何だかバチがあたりそうで気が安まらない。
さて、この写真の石(注 高岩神社 こんぴらさん参道脇に立つ巨石が掲載されている)は何のいわれ、目的でたてられたものかはっきりとは判らない。旧大草村と旧喜々津村の村境、立石峠にも大きな石が据えられているし、中里名と西川内名の名境の峠の畑の中にも石仏(いしぼとけ)と称する巨石が立っている。
佐瀬の黒崎海岸近くにあるエビスさまも自然石である。これらの石は、一見してただの石ではない、と思わせる何かをそなえているのである。
人はこれに霊気を感じ、禍霊(まがつひ)の侵入を遮断するカミ—塞の神や、海の幸をもたらす蛭子神としてあがめまつったのであろうか。
この稿のタイトルに用いた「仏たち」は、如来、菩薩、天、神、明神、権現などの総称である。人々はこれら「仏たち」にすがって、豊かな収穫と家内安全をこいねがいつつ、つつましくくらしたことであったろう。他に記念碑等も二、三記録した。

この稿は、中里名にお住まいの田中秀穂氏がまとめられたものである。「多良見町郷土誌」に①の境塚立石の紹介がなかったからふれてみたが、よく読むと「山」と刻みのある①の立石は、「山川内」の項768頁に「6.山守神社 むかしは道が谷川ぞいにあったらしく、この神さまも谷底にあったそうである。このずっと奥「大山」に「山ノ神」があるというが未確認である。」と記述があり、これが「郷村記」の記す境塚立石であり、奥の「山ノ神」ではないだろうか。田中氏には先日お会いし、この報告はした。
同氏の話では、高岩神社③の石は格好が陽石に似ており、神社の手水を陰石に見立て陰陽石と考えられるとのことであった。④立石峠については、先日調査した結果を別項に載せた。