虚空蔵山系の飯盛山と歌舞多山頂にある「鑛福」の標石

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虚空蔵山系の飯盛山と歌舞多山頂にある「鑛福」の標石

京都市上西勝也氏は、測量標石から見た近代測量史の研究家。インターネットサイト「三角点の探訪」を作成されている。氏のもとに鹿児島の測量業の方から、同県内で「鑛福」と刻字のある標石が見つかったので素性を知りたい、と相談があった。
氏が調べると、戦前、九州全体の鉱山を統括する福岡鉱山監督署またはその関係によって設置された鉱区の境界を示す標石のようで、鹿児島だけではなく、長崎や他県にもあることがわかったそうである。
長崎県では、山歩きをする人のHPに虚空蔵山系の飯盛山と歌舞多山にこの標石があることが記録として出ており、現地へすぐに行けないので、私に調査依頼があった。

平成19年9月26日、車で調査に行く。東そのぎインターで降りて北を見ると、飯盛の形そっくりの山がすぐわかる。国道34号線嬉野へ下る俵坂峠手前から左の「広域基幹林道虚空蔵線」へ入る。5分ほど走ると飯盛山への尾根を越すところがあり、ここから植林地の尾根の踏み跡を伝うと15分で飯盛山の山頂へ着いた。四等三角点009 426。標高362.4m。
この傍らに53cm離れて「鑛福」の標石があった。15cm角、高さは低く、地面から14cm。赤茶けた色をしており花崗岩のよう。刻面は正面の「鑛福」と上面に方角を示した「+」のみ。「鑛福」は横書きで左から読めばそうだが、右からは「福鑛」と読め、これが正しいのでないだろうか。

虚空蔵山の奇岩鋒下を回り込み、波佐見に続く広域林道をさらに20分ほど行く。岩屋・木場の両登山口を過ぎ、木場林道分岐から石木ダム建設に揺れる川棚町木場の集落へ降りた。歌舞多山は、岩屋川と木場川に挟まれた山。集落の背後にそびえるコニーデ状の山で、山城跡である。
中木場バス停に車を置き、上に見える山頂を目指した。植林地の中は右手尾根沿いに道跡があり、谷間をつき上げると後は大石の岩場の稜線を頂上へ10分ほど急登した。歌舞多山は現行地形図に山名はないが、標高343.0mの山。中木場は150m位だから標高差200mほど登ったこととなる。山頂近くに境塚らしきものを10基ほど見、その写真を撮りながらであったから、約50分を要した。
植林の山頂は、歌舞多城跡の表示あり、四等三角点009 412がある。この傍らに74cm離れて「鑛福」の標石があった。飯盛山のとまったく同じもので苔むしていた。

帰りは虚空蔵山の方へ尾根が続き、道がはっきりしていたので辿ってみた。頂上直下はロープが長く張られた岩場の急斜面を降下する。ここにも木場へ下る道があるようだ。あとは雑木林の尾根道がたんたんと続き、頂上からは30分ほどして「木場へ」の標識あり、下ると林道となり、すぐ木場の水汲み場のところへ出た。この尾根縦走路は、平成15年県体コースで整備されているようで、広域林道の木場登山口に出て虚空蔵山へと続いている。
なお、後日虚空蔵山へ行った時、上木場の橋脇に「歌舞多城址登り口」の案内標石を見た(最後の写真)。この道から登るのがいいようだが、もう荒れているのではないか。

「彼杵鉄鉱山跡」と「歌舞多古城」の史料

山歩きの人のHPは、「鑛福」で検索すると標石の記録と写真が出てくる。これを参考に現地の標石を確認したわけであるが、帰ってから史料など少し当ってみた。
標石の設置史料はまだ見出しえないが、その背景となる史料類。まず「彼杵鉄鉱山跡」は、大村史談会「大村史談 第十二号」昭和52年3月発行に掲載されている。東彼杵教育委員会「東彼杵町史跡あんないー探訪のしおりー」中の113頁に以下のとおり説明がある。
虚空蔵火山が造り出した各種鉱石の鉱脈は、山系周辺の各地に見られた。明治以後、波佐見では大金山が採鉱された。嬉野温泉センターの泉源も石炭試掘の恩恵とのことである(波佐見史下巻)。また、川棚史談会松崎会長にお聞きすると、飯盛山の標石はご存じなく、歌舞多山のは見ている。山の持ち主標石と思っていた。他にある所は調べられてないということであった。

彼杵鉄鉱山跡
飯盛山のふもとに川内郷木場前からと飯盛側から何本かの坑道が掘られ鉄鉱山の跡が残っている。この鉄鉱山から産出する鉄鉱石は褐鉄鉱という黄褐色の鉱石で鉄の含有量は三〇〜四〇%の貧鉱であり、鉄の生産には余り適当とはいえない。この鉄鉱石がいつの頃発見され、利用され始めたかは不明である。大正の初期この鉱石を製鉄のためでなく顔料(ペンキなどの着色剤)の原料として採掘したことがあったが収益上らず廃鉱となった。
昭和に入り、戦争が激しくなると、重要鉱山として指定され、昭和十三年から三和工業所(本社・大阪 社長倉本徳一氏、鉱長野田寛治氏)の手で製鉄のための鉱石採掘が再開され一〇〇名ぐらいの人が就労し、鉱石は八幡製鉄所に送られた。採鉱は敗戦の時まで続いたが廃鉱となり現在は全く放置されている。

次は藤野保編「大村郷村記 第三巻」昭和57年刊、川棚村の項224頁の「歌舞多古城」の古記録。
一 歌舞多古城
東川棚村木場と云ふ所にあり、此城至て嶮岨にて、東北の方は鳥も翻りかたき難所也、西の方追手と見へ少しの平易あり、北の方山の八合目の所に樵夫の通ふ細き横道あり、此道より頂上まで五拾七間、手の裏を立たるか如し、天和の記曰、本丸東西壱町、南北拾弐間、石垣高四間、長拾五間、西の方にありと云、今は石垣の形ちのみ残れり、此所より小峰の城酉の七度に當る、二の丸南の方堅六間、横三間、石垣高三尺五寸、長九間、今は雑木山にて其跡分明ならす、水の手弐間程下にあり…