月別アーカイブ: 2012年3月

長崎名勝図絵の風景  31  萬 福 寺(淵神社)

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長崎名勝図絵の風景  31  萬 福 寺(淵神社)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
淵神社の境内は、稲佐山山頂と結ぶ長崎ロープウェイの発着駅となっている。福山雅治は、ここの宝珠幼稚園に通った。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

203  宝珠山能満院萬福寺  (文献叢書 186〜189頁  所在地 長崎市淵町)

稲佐村にある。俗に稲佐辦才天社と称する。新義真言宗 寺は海岸にあり、上の山を妙見岳或いは虚空蔵岳という。山頂に虚空蔵と玄武神〔北方の神〕を祀る妙見祠があったからである。この山の別名は宝山(ほうざん)。これをのちに宝珠山と改めた。樹木が生茂って山の姿が、きれいな宝珠の形をしている。山頂の妙見祠も、麓の辦才天祠も共に、年を経て荒廃していたのを、正保4年(1647)僧龍宣〔延命寺開山〕が辦才天の像と祠を再建し、寺を重修した。すべて古制に復したが、妙見は祀らず、寺の名を宝珠山萬福寺と号した。寺地は山を背にし、海に臨み、景勝の地である。渕村の総鎮守として、沿岸の諸村では毎年祭礼を執行する。海岸に石鳥居がある。…

長崎の古写真考 目録番号:5258 茂木長崎ホテル(4)の訂正記事

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5258 茂木長崎ホテル(4)の訂正記事

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5258 茂木長崎ホテル(4)

■ 確認結果

きょう、2012年3月31日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載されたのは、「石炭積み込み 客船の船腹に沖仲仕」。
今回の古写真考でふれるのは、この記事ではない。左下横の「訂正記事」。
まず本ブログの次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/3149

訂 正 17日付「長崎今昔」で「道長エイが外国人のための茂木長崎ホテル(のちのビーチホテル)を建てます」とあるのは、「道長エイが『茂木ホテル』を購入し、外国人のためのビーチホテルと改称します」の誤りでした。当時、茂木には「茂木長崎ホテル」(のちの松柏楼)と「茂木ホテル」の二つがありました。記事についている写真も道長エイが購入した「茂木ホテル」とは別の「茂木長崎ホテル」でした。訂正します。

先々週3月17日紙面で、目録番号:5258「茂木長崎ホテル(4)」の作品を。道長エイが建てた「茂木ホテル」と解説していたので、そのほかの疑問点とともにすぐ間違いを朝日新聞へ知らせた結果の、きょうの訂正記事である。
訂正されたのは了とするが、執筆者が訂正されたのなら、読者に配慮したもう少し懇切な記事とならなかったろうか。茂木とは関係ない「石炭積み込み」を次回にまわしてでも、本文において正しい「茂木ホテル」の記事を掲載してほしかった。写真は次の作品の収集に努めてもらいたい。

茂木町「裳着神社の由緒」現地説明板に、茂木ホテル(後のビーチホテル)の古写真があるので、後ろに載せた。両ホテルの造りと建物背後の山手の違いを良く見てもらいたい。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1535
https://misakimichi.com/archives/1818
また、ブライアン・バークガフニ氏の研究紀要「古写真と絵葉書に見る茂木街道」が、長崎大学附属図書館「古写真研究 第3号」2009年5月発行57〜62頁に掲載されている。これにも詳しい茂木ホテルの写真がある。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2795

長崎大学は古写真研究の基本的なことが、おろそかになっていないだろうか。世界に誇る古写真コレクションなのに、国登録有形文化財のボードインアルバム、F.ベアト、地元の上野彦馬など貴重な作品の、現地調査がほとんど行われず正しい検証がなされていない。本ブログで以前から何度となく指摘している。
国の科学調査研究費の補助を受けて構築されたデータベースである。国民の文化啓発のための作品であろう。長崎大学や執筆者のみの占有古写真ではない。学生にまかせた方が研究となり、データベースも臨機応変にすぐ正しいものに改善されるだろう。

現在のテータベースの古写真解説などには、閲覧者や利用者、出版社など非常に困惑している。文化庁に昨年8月、国費の返還を含め長崎大学学長を指導するよう要望したが、今もって回答がない。これで良いと思っているのだろうか。
朝日新聞も自身で事前にチェックを入れないと、権威が疑われるような不名誉な紙面が多い。
私もこれ以上、いちいち言いたくない。決して中傷ではない。長崎大学側の貴重な古写真研究とデータ管理体制に問題があることを指摘している。

旧道「界橋」は長崎半島一?の桁石橋  長崎市宮崎町に残る

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旧道「界橋」は長崎半島一?の桁石橋  長崎市宮崎町に残る

「みさき道」は、江戸時代盛んになった長崎市中より脇岬観音寺まで、みさき観音参りの道である。長崎半島を東回りするコースも考えられ、平成17年9月発行の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集38頁に、推定ルート図を概略で載せていた。
長崎半島の東回りコースで解明したいのは、川原小池上にあった明治32年建立の道塚である。「東 脇岬」「西 高浜」と刻む。道塚は現在、三和公民館中庭へ移設展示されている。

集落を結ぶ道は、当然、昔からあった。「東 脇岬」の道が江戸期にも観音参りに利用されたと思われる。三和町郷土誌には、近隣の集落で年中行事により観音参りが行われていたと記している。東回りコースがその主な道であろう。熊ノ岳を越す場合もある。
最近、伊能忠敬研究会の入江氏の協力により、詳細なルートを研究、踏査して確認している。

長崎市宮崎町の石橋について、すでに以前に次の記事としているので参照。
https://misakimichi.com/archives/3125
https://misakimichi.com/archives/2572
以上の2橋の外、街道に関わる橋を新たに2橋確認しているので、ここにまとめて明治道塚とともに、写真により紹介する。架橋年代はいずれも不明。流された橋もある。

写真  1〜  2   明治32年建立「東 脇岬」「西 高浜」の道塚
もともとあった場所は、川原小池上の字池田(池平)。「みさき道」の今魚町系道塚ではない。明治となって「西彼杵郡村誌」が記す河原村における「脇岬村路」と「高浜村路」の分岐を示す道標。現在は三和公民館中庭に移設展示されている。

写真  3〜  5   モータレ川(宮崎川)の渡り石跡
現在の「宮崎橋」近く。石橋と記している資料があるが、飛び石のようである。川岸の地蔵石祠横に置いている石が、当時の渡り石と地元の証言があった。「せんたく石」を削り取った跡も確認した。現在の1万分の1地形図には、宮崎橋の1つ上流の橋に「モタリ橋」の橋名が表示されている。潮が満ちている場合の上流迂回路と思われる。

写真  6〜  7   宮崎ダム奥を上がった谷間に残る桁石橋
徳道集落から川原へは、主にこの谷間の道を下った。ゴルフ場地蔵道塚に刻む「左 川原道」は、この道と思われる。川原小学校への通学路でもあった。宮崎ダムができて通れなくなったが、石柱を渡した貴重な桁石橋が1つは流され、1つは現存していた。

写真  8〜  9   川原木場途中の桁石橋跡
長崎バス川原終点から川原木場へ向かう。ちょうどその中間くらい。県道下の旧道に入る。そこから途中、川を1回渡る。石柱を渡した桁石橋があったが、水害で橋は流されている。川に石柱が散乱していた。

写真 10〜 18   旧道に現存する立派な桁石橋「界橋」
川原木場を過ぎた現在の県道34号線「界橋」上流の旧道に残る。橋名のとおりこの熊川が、河原村と脇津村の村境だった。旧三和町川原木場と旧野母崎町岬木場の町界。
旧道を今回、踏査して桁石橋を確認した。長崎半島に現在残る石橋では、最も立派な桁石橋で大きく高い。現県道「界橋」下付近には、見事な滝が流れていた。川原木場公民館グランド南西には、「熊川清四郎力士の碑」があり、一帯はおもしろい。

長崎名勝図絵の風景  30  桑 姫 君 墓

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長崎名勝図絵の風景  30  桑 姫 君 墓

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

HP「広助さんの丸山歴史散歩」によると、次のとおり。
E-168:桑姫様屋敷跡・墓所跡
竹の久保町12(旧 浦上淵村竹ノ久保郷/竹ノ久保町)【西高校】
西高校がある高台は江戸時代、竹ノ久保郷字尾崎と称し、その昔、大友宗麟の子である大友義統(ヨシムネ)の娘:阿西御前(オニシゴゼン)の屋敷とその後の墓所があった場所でした。そして明治時代になりその場所が陸軍の重砲大隊用地となることになり、明治33年(1900)志賀家子孫:志賀親朋によって淵神社内に移設されました。※E-146:2009/10/24参照

ブログ「シスターのつぶやき」2009年11月23日 (月)記事■ 桑姫社 には、禰宜の下條氏を訪ねて、次のようなお話があったと紹介されている。
現地の淵神社には、大友家の家紋が入った桑姫の由来を記している石祠もある。
「また、桑姫は天女にも言われています。桑姫の死後、「桑姫御前塚」と彫られた塚が築かれました。その塚は「長崎名勝図絵」に“桑姫君墓”として紹介されました。いかに人びとに愛されていたかがわかります。文政12(1829)年には、桑姫の徳をたたえる大きな石碑“天女廟碑”が、万福寺(現淵神社)境内に建立されました。
桑姫の塚は、行方不明になっていましたが、ロープウェイの工事の時に発見され、現在は桑姫社の祠の下部に置かれています」

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

195  桑 姫 君 墓  (文献叢書 184〜185頁  所在地 長崎市淵町)

浦上渕村竹のくぼという所にある。桑姫というのは豊後の大友宗麟の女で、阿西御前という。 邸宅のあった場所の名を取って称した。大友氏滅亡(1587)後、家臣志賀某 今の渕村庄屋志賀氏の祖 がのがれて長崎の浦上渕村に住んだ。のちに西の御前が孤児となって、寄るべなく哀れに住んでおられる由を聞き、すぐさま迎えに行き、甲斐々々しく仕えたので、人皆感心して噂した。寛永年中(1629−32)奉行、*竹中采女正がこの事を聞かれ、時服米穀酒若干を賜わった。その後、西の御前が病死されたので、その居所であった竹の久保に葬り、塚を築き、桑を植えて墓所の標とした。それからは誰いうとなく桑姫君と呼ぶようになり、今もなお年々の祭りがされている。

野口文竜云、今は桑の木はない。巨石一個があるだけである。里民がこの墓に不敬をすれば、祟りがある。傍の小樹は、後の世の人が植えたのであろう。〔*竹中采女正は豊後府内城主より長崎奉行に転じてきたといわれるので、大友家の末流については、関心をもったのであろう〕

長崎名勝図絵の風景  29  爛 鯖 巌(鯖腐らかし岩)

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長崎名勝図絵の風景  29  爛 鯖 巌(鯖腐らかし岩)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
「鯖腐らかし岩」は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/267

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

194  爛 鯖 巌  (文献叢書 182〜184頁  所在地 西彼杵郡時津町元村郷)

浦上から時津に行く道の側にある。大岩上にまた一つの石が乗っている。見るも危く、今にも落ちそうにしているので、或る時、鯖を売るために擔っていた魚屋が、きっと落ちるに違いないから、いっそ落ちるところを見て行こうと、終日立ち尽くし、とうとう鯖が全部腐ってしまったという。それで鯖腐らかし岩という。

長崎名勝図絵の風景  28  神 通 寺(岩屋神社)

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長崎名勝図絵の風景  28  神 通 寺(岩屋神社)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

193  巌屋山神通寺  (文献叢書 180〜184頁  所在地 長崎市虹が丘町)

長崎の西北二里ほどで、ここは大村領になる 長崎の領外ではあるが、春には長崎の人の行楽地となる。故にこれを載せる。… 山は嶮しく深く、登るのに難渋するが、山上は平らにひらけて、遠望が利く。周囲の山々から、海上の島々漁舟に至るまで、すべて一望のもとに見遥かし、誠に絶景である。大権現の三字を刻む碑があったが、今はなく、石仏の像があるだけである。往古妙見感応の地で、崇岳廃寺 … と表裏をなしていた。下に寺があり、旧は神通寺と称していた。… 36の支院があったが、皆壊滅した。言い伝えでは、行基菩薩が山を開き、北朝観応元年(1350 南朝貞和5年)将軍足利尊氏が修理を加え、料地を附した。…

万治3年(1660)大村純長公が寺を再建され、僧尊覚をして中興たらしめ、今の名に改めて神通寺と号した。寺内には本地大日堂があり、少し登ると山の傍に石窟がある。数十人は入れる広さである。仙人窟という。大きな足跡が横面についている。巌屋山の名は、この石窟からきている。… 毎年正月にこの山に登ると、運が開らけるといわれ、正月の5,6日から15日頃まで、多数の参詣者が道に連らなり、互に、呼び合う声が、山にこだまし、谷に響く。山上、寺前には茶店が出て、そうめんの煮売、菓子果物等を売るという賑わいである。五里七里の遠い所からも登山者が来る。帰路は裏道をとって、西南に下だり、梁の川辺を逍遥する者が多い。裏道の傍に、神山、圓山等の地名がある。言い伝えでは、昔圓山にかきあげ城〔軽易で臨時的な築上げの砦〕があり、堀切の跡が今もあるという。

長崎名勝図絵の風景  27  浦上村梁白魚

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長崎名勝図絵の風景  27  浦上村梁白魚

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
浦上村山里「やなの川」ではあるが、図絵に描かれた場所がわからない。「この辺りの里の名にもなっている」という現在の町名「梁川町」は、渕村でたしかに対岸の少し下流側に存在する。
HP「広助さんの丸山歴史散歩」によると次のとおり。「浦上村山里」が?。

E-156:梁川(やながわ)
江戸時代、浦上川の下流部にあたるこの地域は流れも緩やかで白魚漁が盛んに行われていました。付近は周囲を竹で渡し堰を作り魚の集まる場所が作られ網を沈めて仕掛けが作ってありました。そうして網を引き揚げひしゃくですくい上げるように獲るのです。この仕掛けを梁(ヤナ)といい、梁がある川を梁の川、いつしか梁川と呼ばれるようになります。この白魚漁は早春のころ最盛期を迎え、連日行楽客で賑わい、白魚の味は天下一と称されるほどでした。
昭和41年(1966)旧 竹の久保町の一部が町界町名変更によって梁川町が誕生します。

長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の102頁に掲載された、「白魚とりの浦上川」大正の中期・浦上川?の古写真があり、浦上川と下の川が合流する現川口町の川岸あたりの現在の風景を、この記事には載せる。
この古写真は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/3111

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

183  梁 白 魚  (文献叢書 171〜176頁  所在地 長崎市川口?町)

やなの川は浦上山里村にある。流れ清く、余り深くない。川中の処々に網を置いて、白魚を取る。網は蚊帳の布のようなものを用い、四手に竹を組みわたし、緒縄をつけて杭にかけ、魚の集まるような場所に卸しておいて、時々これを引揚げては杓ですくいとるのである。網を置く所の側には藁小屋を作って仕事場にする。梁は魚を取る道具の名である。この川は、古くは別の名があったに違いないが、白魚の名所となったので、やな川と呼ばれるようになったのであろう。今はこの辺りの里の名にもなっている。この白魚は、正月の初めから出て、二月彼岸の頃が最盛期となる。だから毎年その時期ともなれば、毎日のように行楽の人が来て、川の近くの家は勿論、水のない所は川の中でもどこでも、毛氈や莚を敷き、弁当をひらいて賑わう。…

長崎名勝図絵の風景  26  圓 福 寺(山王神社)

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長崎名勝図絵の風景  26  圓 福 寺(山王神社)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
白巖山圓福寺は、現山王日吉神社である。一本足鳥居は、原爆の風圧によって片方の柱と上部の笠石などが崩壊し、その凄まじさを今に伝える。被爆クスノキも生きている。
被爆写真は、山王神社境内の展示作品から。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

179  白巌山観音院圓福寺 (文献叢書 169〜170頁  所在地 長崎市坂本2丁目)

浦上村山里郷の内にある。新義真言宗 延命寺末寺。地名は坂本。寛永15年(1638)松平伊豆守信綱が、島原の賊徒を征伐しての帰途、ここを通られた時、代官末次茂房を顧みて、景色が比叡山々麓に似ているし、地名も偶然坂本といい、これも一致するから、山王を祀るがよかろう。と言われたので、末次代官は堂を建て僧龍宣 延命寺の開基 を開創とした。然し附近は墓地が多いので、慶安5年(1652 承応元年)第二世法印尊覚が、今の地に移して社殿を建てた。一説には、山王社はもと白山の岡にあったという。岡は、浦上川橋口に臨む地である。その側を塔の尾という。圓福寺の旧跡であったので、山王社とした。永年のうちに荒廃していたので、ここに建てた。… 

長崎名勝図絵の風景  25  聖 徳 寺

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長崎名勝図絵の風景  25  聖 徳 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
爆心地に近い長崎市銭座町の「聖徳寺」は、原爆により焼失。戦前の寺の姿を寺所蔵写真から写させてもらった。本堂両脇の石燈籠だけ残り、原爆落下中心地公園に移設されている。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

174  天王山聖徳寺法輪院 (文献叢書 163〜168頁  所在地 長崎市銭座町)

浄土宗 鎮西派の寺。馬籠村 村の上の山を有馬岳という。昔有馬軍が駐屯していたという。村の名もこれによる。 尾上にある。始めは稲佐の坊山 一名鵬ヶ崎(ぼうがさき)稲佐岳の北の麓にある。 にあった。言い傳えでは、この寺はもと巌屋山三十六坊 三百坊ともいう の一であったが、永年のうちに寺も廃れて、村主の宅となっていた。寛永3年(1626)僧専誉 悟真寺二代 がここに寺を再興し、のち今の地に移建した。専誉は筑後善導寺の弟子で、その関係から善導寺の末寺となった。背後は海岸で、松樹生茂り、海の中に突き出た地形は、丁度島を見るようで、鐘の音は松風に和して、海上の漁舟に響き渡り、誠に秀れた景色である。〔長崎八景聖徳晩鐘…〕

長崎名勝図絵の風景  24  本 蓮 寺

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長崎名勝図絵の風景  24  本 蓮 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
長崎市筑後町の「本蓮寺」は、長崎原爆により本堂などすべて焼失したが、二天門の礎石は、現在も残っている。勝海舟寓居の地でもある。
本蓮寺は本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1568

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

173  聖林山本蓮寺   (文献叢書 162〜165頁  所在地 長崎市筑後町)

長崎の北 茶臼山の下にある。もと船津村の内で、元亀天正の頃から切支丹の邪徒が横行し、三壽庵という大寺を建てていた処である。…その後元和6年(1620)僧日慧 本端院と称す。肥後熊本の産。大村本経寺を開き、住持であった。 が大村から来て、ここに法華布教の基地とし、邪教徒の教化に奔走した。…次第に心服して、佛教に転ずる者が多くなった。そこで官命により寺を建てることになり、京都本国寺の末寺として、聖林山本蓮寺と号した。寛永18年(1641)寺地が増されたので、堂宇が再建された。大村純宣〔21代純信〕公と長崎代官末次平蔵茂房が財を喜捨し、これを捐けた。…元禄11年(1698)堂宇修復中、市中大火があり、当寺も類焼々失してしまった。その後久しく仮堂であったが、宝永4年(1707)九代日随の時、財を募って再建されたのが、今の伽藍である。…