月別アーカイブ: 2012年3月

長崎名勝図絵の風景  23  福 済 寺

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長崎名勝図絵の風景  23  福 済 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎市筑後町の「福済寺」は、現在、フーコの振り子がある「萬国霊廟長崎観音」で有名。長崎原爆により、本堂・大雄宝殿などすべて焼失した。文政初年(1878〜)頃の復元模型が、長崎歴史文化博物館2階に展示されている。監修者は、村田明久氏(長崎総合科学大学)。
福済寺は本ブログの次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1568
福済寺の古写真考は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1576
https://misakimichi.com/archives/1577

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

164  分紫山福済寺   (文献叢書 148〜161頁  所在地 長崎市筑後町)

躰性寺の右 臨済宗黄檗派 唐僧の開基 漳州寺という。もと村主の宅があったのを、寛永5年(1628)明国泉州の道者覚悔が来て、小庵を結び、天妃聖母…を祭祀した。長崎来往の唐船が、海上安全を祈願すれば、必ず霊験があったので、覚悔を開基とした。…明暦元年(1655)木庵和尚が来朝、直接当寺に入られた。寺域は、背後に山を擁し、前面には湊の眺望が展開し、出船入船の行き交うさまを見おろして、長崎第一の勝景である。…

長崎名勝図絵の風景  22  海 門 山(権現山)ほか

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長崎名勝図絵の風景  22  海 門 山(権現山)ほか

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
「黒船礁」は、日南海岸の鬼の洗濯岩に似た「脇岬のビーチロック」(県指定天然記念物)のことである。

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

164 海 門 山   (文献叢書 142〜146頁  所在地 長崎市野母町)

長崎の南七里 野母浦の高山。他の山に接せず、これだけが高く聳えているので、登って見ると、周囲が果てしなく見渡せる。権現山、日の山、火の山とも称する。山上の木立ちの中に、火山権現の祠がある。夜になると、山の頂に燈火が現れその光は尋常のものではない。人皆これを霊異とした。外国の船が入津するに当たって、この燈火を目印にした。また熊野権現の祠がある。…

165 野母の遠見番所 (文献叢書 144〜146頁  所在地 長崎市野母町)

権現山の内にある。港から中番所まで約580丈、さらに上の番所まで230丈。又霧番所がある。…寛永15年(1638)2月、松平伊豆守源信綱が、…野母崎は港外の高山で、南は薩摩、西は平戸五島まで見える最適の場所であり、ここに番所を設けて、異船が見えたら速刻飛船(足の速い舟)で奉行所に注進させよ、とあって、ここに遠見番所が建てられた。…

166 圓通山観音寺  (文献叢書 144〜147頁  所在地 長崎市脇岬町)

長崎の南七里 御崎村にある。野母浦の南で、深堀に属する。元享釈書に肥之御崎と称す。所謂日域西南之隅、異木奇岩ありとしているのがここである。この地は阿膠木(あこうぼく)を多く産する。西北に野母浦があり、浦に鬚巌(たてがみいは)がある。古来奇石異木寺と称している。昔和銅年中(708−714)行基菩薩が創立されたもので、規模雄壮、僧房棟を連らね、法燈大いに隆盛であったが、のち切支丹の横行は、この地にも災が及んで、衰滅に瀕した。
天文6年(1536)御崎備後守廣重が重建、僧良圓が財を募って修めた。今寺の前、数百畝の田は、古寺の遺址である。祀るところの千手観音は、行基菩薩が、長良橋の梁木から七体の像を刻んだ。そのうちの一本で、材は榧の木。立像の高さ8尺。長谷寺にあるものと全く同じである。この寺は昔からの景勝の地で、且つ霊跡が極めて多い。…
長崎の湊より肥の御崎にいたれば西南もなき処、唐船行きかふ潮路なりといふに
郭公むなしちくしの沖の雲     石蘭

167 黒 船 礁   (文献叢書 144〜147頁  所在地 長崎市脇岬町)

野母海中にある。昔覆没した蛮船が、年を経て遂に石と化し、礁となったという。一名板礁。

168 樺   島   (文献叢書 144〜147頁  所在地 長崎市野母樺島町)

野母浦の南五十町、民家多く繁栄している。海岸の巌石は、その形奇にして、漢画の山水を見るようである。中に一奇洞がある。…

長崎名勝図絵の風景  21  河 原 池(川原池)

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長崎名勝図絵の風景  21  河 原 池(川原池)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
雌池「川原大池—阿池姫(おちひめ)伝説と湖畔風景」は次を参照。最後の写真が雄池(川原小池)跡。昭和52年埋立てられ、平成16年「三和記念公園」として整備された。
https://misakimichi.com/archives/147

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

162 河 原 池   (文献叢書 139〜142頁  所在地 長崎市宮崎町)

長崎の南五里半 河原村にある。池が二つあり、一を雌池、一を雄池という。雄池の方が小さい。雌池は雄池の南にあって、海に近い。広さは数百畝ばかり。池の水は青く澄みちぎって、塵一本浮いていない。…(龍と化した阿知姫伝説が続く)…村人は雄池雌池併せて二霊池と称する。後世一寺を建立、池の祭祀に当たらせた。河原山龍池院法音寺という。雌池の傍にあり、土地の人は、池の御前と呼んでいる。この雌池の伝説とよく似た話が、普の干寶の捜神記にある。和漢と同じ話ではある。
うくものは紅葉もめでず池の神  沈山   池辺にある発句の石碑

長崎名勝図絵の風景  20  雄  浦(大浦)ほか

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長崎名勝図絵の風景  20  雄  浦(大浦)ほか

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

147 雄   浦   (文献叢書 136頁  所在地 長崎市大浦町)

梅が崎の側にある。旧名大浦。大村領である。木々の生茂った崖が、入海を挟んでおり、漁家数十戸がある。雄浦欵乃(欵乃は船唄)と題し、長崎十二景の一である。

148 道栄が浜    (文献叢書 136頁  所在地 長崎市松が枝町)

大浦第一の景勝の地で、昔林道栄が大村侯から賜わり、ここに仮寓していたので、道栄が浜と称するのである。

149 妙 行 寺   (文献叢書 136頁  所在地 長崎市相生町)

雄浦にある。一向宗の道場。もと高力左近将監の別業であった。寛文年中(1661−72)大村純長公が寺に寄進した。一説ではこの寺地は、興福寺の唐僧如定が退隠していた所という。今年文政2年(1819)の春火災に罹り、堂宇悉く灰燼に帰した。側の山上に日親の祠がある。

クイーン・メリー2の長崎入港  2012年3月

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クイーン・メリー2の長崎入港  2012年3月

世界最大の豪華客船クイーン・メリー2が、2012年3月20日、長崎に入港した。昨年はあの3月11日の翌日、入港予定だったがキャンセルとなった。
おなじみ宮さんが山行きを休み、クイーン・メリー2の長崎入港から出港までを撮影しているので、ブログ「船を楽しもう!」から傑作写真を載せる。詳しくは次の記事を参照。

Queen Mary 2 入 港  http://blogs.yahoo.co.jp/theomiya01/4099115.html
Queen Mary 2 松ヶ枝  http://blogs.yahoo.co.jp/theomiya01/4105476.html
Queen Mary 2 出 港  http://blogs.yahoo.co.jp/theomiya01/4113309.html

Queen Mary2(クイーン・メリー2)
総トン数:148,528t 乗客定員:2,620名 航海速力:30.0ノット
全長:345.0m 全幅:41.0m 喫水:9.9m 就航:2004年1月 船籍:イギリス

ほしなべ氏ブログ版「長崎遠めがね」とHP「長崎の白い船」の、「QM2」2年ぶり2回目の長崎入港(女神大橋から)にも美しい画像がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/hoshinabedon/36182830.html
http://hoshinabe.fc2web.com/433_qm2megami/433.html

多良山系縦走2 春日越から岩屋越へ  2012年3月

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多良山系縦走2 春日越から岩屋越へ  2012年3月

2012年3月20日(火 春分の日)曇りのち晴。多良山系縦走2 春日越から826mピークを経て岩屋越へ。参加11人。みさき道歩会の例会。
萱瀬ダム9:30発ー林道終点10:40ー春日越(12:00着 昼食 12:30発)ー826mピークー岩屋越14:00ー大ケヤキ・モミ14:40ートンネル横15:20ー岩屋口15:55ー萱瀬ダム
16:15着(徒歩距離 約12km)

各登山口の現況調査もあり、体力に合わせ小分けして多良山系縦走中。昨秋10月23日に萱瀬ダムから遠見越ー春日越を歩いたから、きょうはその続き。長崎を8:00車2台で出発。長崎バイパス・三浦半島経由で萱瀬ダム公園へ駐車。9:30から前回下りの道を春日越へ向かう。
峠まで約2.5km。林道と渓谷沿いの道が半々くらい。春日越に12:00着昼食。

午後は12:30発。国見岳と分岐し、経ヶ岳縦走路が南東に曲がる20分行った尾根ピークに、「山」「補點」の古い標石がある。急なピーク3〜4の起伏と痩せ尾根を繰り返し、岩屋越14:00着。展望が効くのは、826m一つ手前のピーク岩場だけだった。
岩屋越から岩屋へ20分ほどガレ場を下ると、大ケヤキ(谷両岸に2本 幹囲5m、4.2m)とモミ(4m)の大木があるので見学。平谷・黒木トンネル横を下り、岩屋口に出た。峠から岩屋へ2kmの標識があったが、岩屋口までは2時間要した。萱瀬ダム公園16:15着。高速道で帰った。

長崎名勝図絵の風景  19  新貨蔵(新地蔵)

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長崎名勝図絵の風景  19  新貨蔵(新地蔵)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
新地蔵所の南門橋古写真は、 https://misakimichi.com/archives/2348
新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社1987年発行110頁の拡大、川原慶賀筆「長崎図」の一部は、筑摩書房「江戸時代図誌25 長崎・横浜」から。
新地蔵所の東門橋古写真は、 https://misakimichi.com/archives/2764

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

144 新 貨 蔵   (文献叢書 124.132〜133頁  所在地 長崎市新地町)

唐館の西の海中にある。元禄15年(1702)に竣成した。これは唐船の貨物を入れておく所である。元は江戸町、樺島町、五島町、大黒町などの、浜辺にある町家の土蔵を借り、唐船の積んできた貨物は皆、これに入れていた。元禄11年(1698)4月24日後興善町から出火して、22ヶ町が焼失したが、この時唐船の貨物を入れた土蔵33の内、18が類焼して、貨物も殆んど焼けてしまったので、その後土蔵の持主39人が、海中に島を埋立てて、土蔵を建てることを、奉行所に願出た。早速江戸にお伺いが立てられ、御許容の命が下りたので、同12年着工、15年に竣成した。東西70間、南北55間。惣門の左右に長屋があり、役人の詰所となっている。水門は4つあって、貨物運送の時ここから出し入れする。番所は東西南北の4ヶ所にあり、二の門を入って右に土神祠がある。この門の前に橋を架け、東の方にも橋があって、唐館に通ずる。

長崎名勝図絵の風景  18  唐館(唐人屋敷)

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長崎名勝図絵の風景  18  唐館(唐人屋敷)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
唐人屋敷跡は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1501
唐人屋敷跡の古写真風景は、     https://misakimichi.com/archives/1606  
2枚目の唐人屋敷復元模型は、長崎歴史文化博物館の展示作品。

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

143 唐   館   (文献叢書 95〜105頁  所在地 長崎市館内町)

大徳寺の左、狐嶺と梅が崎の間にある。昔は十禅寺 俗に十善寺と書く の跡で、…のちに薬園が置かれ、代官末次平蔵が薬草各種を栽培し、用に備えた。それを元禄元年(1688)に唐人屋敷とされた。そもそも唐土船が日本に来たのは、大変古いことで、元の世祖が…元禄元年(1688)…十善寺村御薬園所を開らいて、唐館を造営すべき事が決まり、その年の9月25日に着工、翌年4月15日に竣成した。そして長崎在留の唐人全部を、この館内に入れられた。…造営の費用は銀634貫440目であったという。館内の広さ9363坪8合。内に長屋数十棟があり、一つの街のようである。地勢に従って高さ7尺余の牆壁をめぐらし、また広さ6尺余の壕がある。…

陸軍省要塞地帯(区域)標と海軍省軍港境域標の調査

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陸軍省要塞地帯(区域)標と海軍省軍港境域標の調査

陸軍省要塞地帯標や海軍省軍港境域標の標石探しと、研究をされている佐世保市高橋輝吉氏から寄せられた資料である。
本文は、主に佐世保市小佐々、冷水岳と、西海市大瀬戸、西彼方面の同標石のこれまでの調査記録をまとめられている。詳しくは、以前の記事にあるので参照。

高橋 輝吉氏稿   陸軍省要塞地帯(区域)標と海軍省軍港境域標の調査

陸軍省要塞地帯(区域)標の調査が終りに近づいた頃、海軍省の標石は?と見直してみた。海軍では、「軍港境域標」という。海軍省沿革史の本に境域地図があり、佐世保市小佐々町の最西端方面へ出かけた。老人漁夫の方と話し、「海軍省」と刻んだ石がありますかと尋ねると、入江などにあるとのことだった。
その初めとして、楠泊海岸にあった。「海軍水準 水路部」の水準点標石だった。その出先の岬みたいな所にも、御影石の15cm位角石があると島を指さす。鼻にありますと。干潮時に行く。佐世保軍港境域標「第221号」でした。

後日、老人の方に船を頼み、近くの入江などなどを探した。陸からも行かれるようで、後で地図を見て、1日1本のつもりで陸から探してみました。今まで10回位通ったかなー。一番多く行ったのは、神崎鼻方面。
山の老人と海の老人とは、話しの変化を見た。海の方には陸軍省要塞標の話は通用せず。海の方は干潮時でも船が繋げる所を言う。地図では干潮の図なし。何回となく、干潮時、満潮時と行ってみた。2通りあることが解かった。この一帯は亀瀬という。今までは陸の石ばかり探していたので、高い所ばかり見ていたが、海は違った。入江、干潮時になっても船が繋がれる所。船は遠浅を一番嫌う。

幸いかな、小佐々海岸の入江は、天然の港が多い。海軍はこの入江、港に目をつけた。これは日露の戦いのとき、敵艦待ち伏せ用の場所、入江かと思った。小型船ならば良い場所、入江で、良い港ばかり。この入江に、海軍省の標石が多いのが解かった次第です。
読売新聞佐世保支局が報道してくれた。針尾の方より針尾に海軍省の石ありと知らせが入り、「第128号」でした。浅子の方からも石ありと連絡あり、「第261号」明治の日付です。

これからが大変でしたね。海軍省標石探しにも変わった。耳、目の2通りの話を。特に西海市方面“用心”。西海橋の下にあると聞いても、本気にはしなかった。しかし、千綿まで海軍は水を取りに行っていた。艦船ボイラー用の必要な水です。標石は必ずあると思った。
1回目は解からず、2回目のとき四角の型石が見えたので、若しやと思い枯れ枝を取ってみると、何と海軍省の石が。青色になり横倒しとなっていたので洗い、良く見ると「第139号」でした。「明治35年11月4日」(陸自内にある石と同じ日付)。

少し元気づいたので、前に1回地元の方に連れられて行った、西彼町の白岳方面を再び探すこととした。陸軍の標石はと思い、以前、案内してくれた家に行くと、当の老人の方は亡くなられ、家族では場所がまったく解かりません。
以前、見つけたのは、陸軍の「第151号」と「第147号」。九電の送電線が見えていたのを思い出したが、25年ほどの杉山ばかりで方向がわからず、それを見つけるのに3年位かかった。(西海市寄船近くの地にも、「陸軍省 SM2ndZ 長崎要塞第二地帯標 第75号 明治32年」あり)

白岳の杉山で「第152号」を新しく発見。この石を起点として3か月後、「第151号」を再発見。「第147号」は、畠の中、段差があったのを思い出し、3回目にして再発見した。標石は石垣に埋めてありました。石の角が見えたので、この一帯には御影石なし、上より見えるのは牧草一面、段差があったので、再発見に至りました。このたび東西南北の写真を撮り安心です。
さて、大瀬戸の海軍省の石は、沿革史の地図を見ると、高帆山の西海岸にあるような気がした。大岩付近の海抜3m位、海岸近くの雑木林内にあった。海軍省「第202号」でした。七釜の町中の石垣でも発見。号なし、海軍省の石です。長崎のHさんに知らせ、案内しました。

西彼町白崎の母衣崎、四天堂公園の「第158号」は、海軍沿革史の地図により8年前位に発見。西彼町や大瀬戸町の地元の方は標石のことが解からず、再発見と別に新しい標石を、元の石の横に2本見つけた。何と申しましょうか? 2,3度電話しました。しまったと思ったでしょう。
海軍省の標石3本。「第138号」、「第202号」、「第〇〇号」(番号は消している)。陸軍省のは、「第147号」、「第152号」、「第151号」、「第158号」、「第75号」の5本発見。いろいろありましたが、「第158号」は、私が8年位前に発見したものです。

佐世保市小佐々方面の海軍省の標石は、「第207号」、「第208号」、「第211号」、「第215号」、「第216号」、「第217号」、「第218号」、「第221号」、「第236号」、「第261号」と、10本になります。
後で亀瀬方面で、陸軍省の石がありますかと尋ねると、ありますと。島へ渡り野島の林の中に、「第140号」がありました。冷水岳の下近くに、「第138号」あり。「第139号」はなし。3回位、山へ行く。陸軍要塞地図にはあり。

見つけているのは、「第130号」、「第131号」、「第135号」(個人所有)、「第136号」(個人所有。3つに割れているため友人宅へ)、「第137号」、「第138号」、次の「第139号」はなし。「第140号」は野島にありとなります。
臼の浦に海軍火薬庫あり。「海軍用地」の石が2本。うち1本は確認せず。用心しょう。

長崎名勝図絵の風景  17  大 徳 寺

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長崎名勝図絵の風景  17  大 徳 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
大徳寺は明治維新の際に廃寺となり、長崎七不思議に「寺もないのに大徳寺」と称された。本堂と忘言閣の格天井等の部材の一部が延命寺に、鐘楼が三宝寺にそれぞれ売却された他に、全て破壊された。(長崎の史跡 南部編)
現在は「大徳寺公園」として整備され、梅香崎神社と一緒にある。

長崎名勝図絵 巻之二下   南邊之部

141 青龍山大徳寺慈眼院   (文献叢書 87〜95頁  所在地 長崎市西小島1丁目)

正覚寺の西、十善寺郷にある。真言宗。江戸護持院の末寺。境内1370余坪。もとは伊勢町に大徳寺大教院という…寺があったのを、…宝永5年(1708)…現在地に開創移建した。…宝暦11年(1761)五代豁元は永代院家の職を授かり、七箇年に一度参府すべき旨、将軍の命を蒙り、永く恒例となる。…

この寺地は広々とした閑静な処で、庭内に泉水築山があり、後山から庭にかけて、種々の木が高く秀でて、中でも桜が多い。神木とされている。4月ともなれば、行楽客が多い。左に唐館があって、これを見下ろすと、漢土に行ったようなながめである。右には新地唐人荷蔵や出島が見えて、これもまた変った風景である。瓊の浦と呼ばれる湊は、丁度泉水のように前にひろがる。その向うは屏風を立てたように群山が高く聳え、朝な夕なの景色は、いろいろ変化がある。土地の人も旅から来た人も、一度此処を訪れると、いつまでも帰えるのを忘れるくらいである。実に長崎第一の壮観、そして数ある寺の中でも、秀れた景勝の地である。…