長崎名勝図絵の風景 17 大 徳 寺
「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)
本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
大徳寺は明治維新の際に廃寺となり、長崎七不思議に「寺もないのに大徳寺」と称された。本堂と忘言閣の格天井等の部材の一部が延命寺に、鐘楼が三宝寺にそれぞれ売却された他に、全て破壊された。(長崎の史跡 南部編)
現在は「大徳寺公園」として整備され、梅香崎神社と一緒にある。
長崎名勝図絵 巻之二下 南邊之部
141 青龍山大徳寺慈眼院 (文献叢書 87〜95頁 所在地 長崎市西小島1丁目)
正覚寺の西、十善寺郷にある。真言宗。江戸護持院の末寺。境内1370余坪。もとは伊勢町に大徳寺大教院という…寺があったのを、…宝永5年(1708)…現在地に開創移建した。…宝暦11年(1761)五代豁元は永代院家の職を授かり、七箇年に一度参府すべき旨、将軍の命を蒙り、永く恒例となる。…
この寺地は広々とした閑静な処で、庭内に泉水築山があり、後山から庭にかけて、種々の木が高く秀でて、中でも桜が多い。神木とされている。4月ともなれば、行楽客が多い。左に唐館があって、これを見下ろすと、漢土に行ったようなながめである。右には新地唐人荷蔵や出島が見えて、これもまた変った風景である。瓊の浦と呼ばれる湊は、丁度泉水のように前にひろがる。その向うは屏風を立てたように群山が高く聳え、朝な夕なの景色は、いろいろ変化がある。土地の人も旅から来た人も、一度此処を訪れると、いつまでも帰えるのを忘れるくらいである。実に長崎第一の壮観、そして数ある寺の中でも、秀れた景勝の地である。…