月別アーカイブ: 2015年6月

立山役所専用の狭田井水源と狭田水樋土管  長崎市水道資料館に展示 ( 長崎県 )

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立山役所専用の狭田井水源と狭田水樋土管  長崎市水道資料館に展示

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。長崎市田中町卸団地内の東長崎浄水場3階に「長崎市水道資料館」があり、狭田水樋土管を倉田水樋の木管や支管用土管とともに展示している。
この土管は約37年ほど前、立山公園入口から昔の道を広げて車道を造った際、古い土管が出土したという。
本ブログ次も参照。  立山役所の専用水源 狭田井と椎木泉 長崎市西山1丁目 (倉田水樋は別項)
https://misakimichi.com/archives/1233

狭田井 せばた
長崎市 <立山役所専用水樋?> 湧水井 延宝2(1674) WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp7 保存状態良好 長崎奉行・牛込忠左衛門が、上記の「倉田水樋」を完成させた回船問屋(水樋役兼)・倉田次郎右衛門吉重に命じて造らせた立山役所(上記参照)の専用水樋(延宝2、長1420m)の水源?/水源は背畠(狭田)山とされるが、現存する「狭田井」との関連がどの程度正しいのかは不明 1 C

立山役所専用水樋の土管 たてやま
長崎市 長崎市水道資料館<立山役所への給水施設> 土管(上水道) 寛政8(1796)以降? WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp7/館内展示解説 長崎市水道資料館に展示/当初は竹樋だったが、いつの時点からか土管が使われるようになった(ここでは、寛政8に竹樋から土管に布設替えされたとの説を採択) 長崎奉行・牛込忠左衛門が、上記の「倉田水樋」を完成させた回船問屋(水樋役兼)・倉田次郎右衛門吉重に命じて造らせた立山役所(上記参照)の専用水樋(延宝2、長1420m)/水源は背畠山/享保2(1717)には椿原の水源から長1400mの水樋を引く拡張工事が倉田源次兵衛常政により施工/宝暦11(1761)には長600mの支樋、文化7(1810)には長730mの水樋、万延元(1860)には長710mの水樋が完成 4 A

丹羽漢吉氏編「長崎市水道九十年の歩み」長崎市水道局昭和57年刊の特集7頁による説明は、次のとおり。

倉田水立山水系  立山役所専用水樋

立山役所(奉行官宅)は、倉田水樋が完成した延宝元年(1673)に、外浦町にあった奉行所内東西両屋敷の内、東屋敷が分離移転したものであるが、標高の関係があって、倉田水樋の水は引けなかった。
そこで翌延宝2年(1674)奉行牛込忠左衛門は倉田次郎右衛門に命じ、立山役所専用水樋を架設させた。
次郎右衛門は西山郷背畑(狭田)山に水源を求め、水道樋(延長約1,420mという)をもって、立山役所に水を引いた。しわゆる倉田水立山水系とでも呼ぶべきものの始まりである。
これによって次郎右衛門は、水樋役に任命され、本五島町乙名(寛文11年1671任命)とを兼ねることとなった。
一説に、狭田水を立山役所に引いたのは寛政8年(1796)とし、井戸所有者に年銀700目を給したという。
次いで、享保2年(1717)水樋役倉田(4代)源次兵衛常政は、奉行石河土佐守の命により西山郷椿原の水源から、水樋(約1,400mという)をもって、立山役所へ水を引いた。倉田水立山水系の第1次拡張事業である。…

(2015年6月30日 追 記)
入江氏から教示いただいた。国立公文書館所蔵「肥之前州長崎図(ひのぜんしゅうながさきず)」森幸安が寛延から宝暦(1748-63)にかけて書写、収集した地図類の、長崎奉行所岩原御目附屋敷の上のところに、後方に「せばた山」とあり、井戸の名は書かれていないが、「此水長崎第一ノ水トス 龍ノ口」と書かれているようなので、絵図を参考に追加する。

倉田水樋の木管・支管用土管  長崎市水道資料館に展示 ( 長崎県 )

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倉田水樋の木管・支管用土管  長崎市水道資料館に展示

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。長崎市田中町卸団地内の東長崎浄水場3階に「長崎市水道資料館」があり、出土した倉田水樋の木管や支管用土管を展示している。
本ブログ次も参照。  倉田水樋水源跡  長崎市伊良林1丁目  (立山役所水樋狭田井は別項)
https://misakimichi.com/archives/1202

倉田水樋の木管 くらた
長崎市 長崎市水道資料館<長崎開港旧町への給水幹線施設> 木管(上水道) 延宝元(1673) WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp4-6 長崎市水道資料館に展示/明治24(1891)に本河内水道が完成し自然消滅→銭屋川の堰・揚水のための水車などは一切残っていない/展示されている木管は年代不明(木管の寿命は長くないので、後世の更新時のものの可能性あり) 寛文の大火後に、回船問屋・倉田次郎右衛門吉重が生活用水+消火用水を兼ねた水樋の建設に着手(寛文7)→私財だけでは工事費が足らず、宅地3ヶ所、回送船3隻を売却し、さらに長崎奉行所から銀10貫目を拝借(要・返済)して延宝元に完成(寛文11には商人でありながら水樋役に任命)/水源は銭屋川の伏流水/2本の幹線路と多数の支管から構成(火災の際に、火災現場に多量の消火用水を供給できるよう木製の「堰子」が支管の分岐点毎に設置)/水の恩恵に与った50余ヶ町の人々が感謝を込めて「倉田水」と名付けた/江戸初期の町民による大規模上水は他に例がない 4 A

倉田水樋の支管用土管 くらた
長崎市 長崎市水道資料館<長崎開港旧町への給水支管施設> 土管(上水道) 寛政8(1796)以降?? WEB(みさき道人)/館内展示解説 長崎市水道資料館に展示/木管からの変更時期・規模ともに不明 上記の「倉田水樋の木管」の支管部分を土管に更新したもの 3 C

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

倉田水樋
倉田水樋(くらたすいひ)は、江戸時代に長崎に水を供給した水道。

水道敷設の経緯
この水道は、本五島町の乙名である倉田次郎右衛門が私費を投じて創設したものである。
長崎の町は元々水源に乏しく、生活用水や非常時の消火用水の不足が問題になっていた。そして、寛文3年(1663年)の大火の際に水不足を痛感した次郎右衛門は、長崎のための水道を造る事を決意。寛文7年(1667年)、許可を得て中島川の上流の現・伊良林1丁目付近の銭屋川を水源とする水道の敷設工事に着手した。
この水道工事は市内36町に水樋を引き送水するというもので、多額の工費が必要となり、次郎右衛門が私財のほとんどを売却しても足りなかったため長崎奉行も白銀300枚の資金援助をした。
水道が完成したのは延宝元年(1673年)の事であった。奉行所では水樋係を新設し、その任を倉田氏に世襲させた。以後、明治24年(1891年)に日本初の上水用ダムである本河内高部ダムが完成するまで、倉田水樋は200年余りにわたって長崎の住民に水を供給し続けた。

水樋
工事はパイプである木樋作りから始まった。松や檜の丸太を幹の縦方向に約3分の1切り離し、残りの部分を幹沿いに丸くくり抜く。これに初めに切り取った部分をかぶせてパイプとし、この外に杉皮や桧皮を巻いて、丸太のくり抜き木樋とした。後には板製の箱型木樋も用いられた。
木樋は中島川沿い左岸の八幡町−銅座町、右岸の大井手町−築町に通じる木樋を2幹線とし、町のほぼ中心部に当たる38ヶ所に埋設された。水は町の所々にある溜枡(貯水槽)に流れ、さらに下手に向かって配水された。この溜枡から市民は水を汲む事が出来、また溜枡には塞弁(そくべん)という板がつけられ、必要に応じて一定方向に水量を調節する事が出来るようになっていた。

参考文献
・『長崎 歴史の旅』 外山幹夫著 朝日新聞社 ISBN 4-02-259511-6
・『長崎県大百科事典』 長崎新聞社
・『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』 平凡社

立山役所の境界石  長崎市立山1丁目 ( 長崎県 )

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立山役所の境界石  長崎市立山1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。長崎公園六角堂近くの立山側の自然石に「従是御立山」と刻む。
笹やぶの中にあり場所が分かりにくいから、所在図参照。カーブミラーの真下くらいの遊歩道脇にある。
本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/3085

立山役所の境界石 たてやま
長崎市 長崎公園六角堂近くの立山側 役所の境界石 (自然石) 延宝元(1673)以降 WEB(みさき道人) (正面)「従是御立山…」 –

元・立山役所(石階段)  長崎市立山1丁目 ( 長崎県 )

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元・立山役所(石階段)  長崎市立山1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。

元・立山役所(石階段) たてやま
長崎市 長崎歴史文化博物館<長崎奉行所立山役所> 石階段 24段 延宝元(1673) WEB(みさき道人)/WEB 平成17に長崎歴史文化博物館が開館した際、石階段、石垣、井戸等を修復・復元 長崎奉行所の東役所/寛文3(1663)の大火で焼失したため東役所・西役所に分けて再建(隣接)、10年後に火災時の類焼を避けるため東役所を立山に移したもの/西役所は現・長崎県庁(遺構なし) 3 B

ウィキペディアフリー百科事典の「長崎歴史文化博物館」による説明は、次のとおり。

概略
2005年(平成17年)11月に開館。長崎県と長崎市が行政の垣根を越え予算と収蔵品を出し合い設置した。
建築
長崎県立美術博物館が閉鎖され、当博物館と長崎県美術館とに分離される際に、旧美術博物館の敷地と、同館に隣接していた旧長崎県知事公舎の敷地に建てられた。3階建。建設時には旧長崎奉行所の石段や庭園などの遺構が出土した。石段は補強され、奉行所門側のエントランスとして活用されている。設計は日本を代表する建築家黒川紀章。同館の西側には長崎原爆投下時に、第一報を政府や軍に打電した立山防空壕(旧長崎県防空本部)が残っている。同館のオープンにあわせ壕内を整備、周辺が公園化され、一般公開されている(無料)。

長崎開港史に関する文献類    古賀十二郎氏著「長崎開港史」ほか ( 長崎県 )

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長崎開港史に関する文献類  古賀十二郎氏著「長崎開港史」ほか

前記事「旧・「長崎開港旧町」の石垣 長崎開港当時の旧6ヶ町一帯」に関連し、布袋厚氏著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊42〜43頁以外の、長崎開港史に関するわかりやすい文献類を少しまとめて載せる。
・古賀十二郎氏著「長崎開港史」 同翁遺稿刊行会 昭和32年刊 18〜19頁
・江越弘人氏著「トピックスで読む 長崎の歴史」 弦書房 2007年刊 78〜79頁
・長崎市史編さん委員会編「わかる!和華蘭 『新長崎市史』普及版」 長崎市 平成27年刊 38〜39頁

古賀十二郎氏著「長崎開港史」同翁遺稿刊行会昭和32年発行の19頁は、次のとおり。

b 田辺氏は、長崎の町建が戦国時代にできた事など全く閉脚し、且つ大村純忠が町建着手に先ち、計画や設計に苦心した事には、いさゝかも理解をもつてゐなかったものと考へざるを得ないのです。大村氏は、長崎の町建に先ち頻に考案を練り、特に神父メルショウル・デ・フィゲイレドはもとより、家臣朝長対馬、長崎純景などとも協議した結果、町割の設計を定めたものでありませう。そして、朝長対馬は、土木事業や建築の事に長けてゐた人物であつたでせう。
随って、長崎最初の六町は、田辺氏の云うやうに「年々出来せし町筋」ではなく、町建着手より約半歳ぐらゐで完成または完成に近かつたもので、まさに大成功と称すべく吾邦の他の都市にして、斯くまで秩序ある準備を整へ、斯くまで速に建設されたものは、その類例が無いと思ひます。これは、確に長崎草創の一特色であると考へざるを得ないのです。

旧・「長崎開港旧町」の石垣  長崎開港当時の旧6ヶ町一帯 ( 長崎県 )

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旧・「長崎開港旧町」の石垣  長崎開港当時の旧6ヶ町一帯

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。

旧・「長崎開港旧町」の石垣 ながさき
長崎市 桜町〜興善町〜賑町〜築町〜県庁・南〜樺島町〜五島町〜金屋町 石垣 長約1.6㎞(当初) 16C後半
or 江戸期 WEB(みさき道人)/WEB 県庁南側と、五島町〜金屋町にかけて3ヶ所に分かれて残る 長崎の語源となった「海に長く突き出た岬」を囲むように築かれた石垣/長崎開港(16世紀後半)当時の長崎の遺構と見る説もある(大村・長崎対深堀・西郷の抗争の中で次第に構築されていった)/表題の「長崎開港旧町」は最初の6ヶ町を意味する→決まった名称はない 3 A

布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の42〜43頁による説明は次のとおり。

喧嘩坂 — 長崎版討ち入り事件の発端となった石段

忠臣蔵で知られる赤穂事件の前年、その元祖ともいうべき討ち入り事件「長崎喧嘩騒動」が起こっている。事のあらましはつぎのとおりである。
…事件の発端となった天満坂はのちに喧嘩坂とよばれ、現在は史跡に指定されている。その坂には長崎産の安山岩でできた石段があって、その両側には同じ材質の大きな自然石(または、それを二つに割った石)が空積みされた立派な石垣がある。

旧・「長崎開港旧町」の石垣は、この喧嘩坂の後段に次のとおり記述がある。

裏手の丘はもともと海に長くつきだした岬で、これが「長崎」の語源になったといわれている。長崎の町は、この岬からはじまり、周囲にひろがっていった。江戸時代の地図をみると、この丘をとりかこむ石垣が描かれており、そのあとにはいまなお自然石の石垣や、ていねいにしあげた正方形の石材を水平積みした石垣が断続的にのこっている。県庁の南東側には自然石の石垣の上に正方形の水平積みの石垣をつぎたしたものが見られる。全部が江戸時代またはそれ以前の遺構ではないとしても、このようなものが都市のまんなかに存在していること自体が貴重である。

さらにつけ加えれば、片寄俊秀氏(現関西学園大学教授)は、著書『長崎歩く考える』のなかで、結城了悟二十六聖人記念館前館長の考えを紹介し、この石垣が開港当時(16世紀後半)の城塞都市「長崎」の遺構である可能性を示唆している。当時の長崎はキリシタンの町であり、しばしば敵対勢力による攻撃をうけていた。
その意味からも、市中心部の石垣については、これをしっかりと保全し、調査していく必要がある。

先般、NHKテレビ「ブラタモリ 長崎編」により紹介があった。遺産サイトは城郭・山城までは調査対象としていないが、都市形成の遺構であり、私も現地を訪ねた。主に遺構が確認できる所在図赤線通りの金屋町・江戸町・築町一帯の石垣の現状を撮影して報告した。すでにコンクリート化された箇所もある。
出島の対岸となる一帯で、護岸もあるだろう。船つなぎ石も残る。私の調査は専門的な歴史研究ではないので正確な史実ではなく、石垣遺構の概要として判断いただきたい。
本ブログ古写真考の次も参照。  https://misakimichi.com/archives/3623

「長崎石物語」以外の長崎開港史を記述した主な文献類を、次の記事により少しまとめて載せる。 

天満坂(喧嘩坂)  長崎市万才町 ( 長崎県 )

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天満坂(喧嘩坂)  長崎市万才町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。現在の万才町、長崎地方検察庁と同法務局の間を築町側へ下る石階段の坂。

天満坂 てんまん
長崎市 万才町(長崎地方検察庁〜長崎地方法務局) 石階段 元禄13(1700)以前 WEB(みさき道人)/WEB 保存状態良好 「長崎喧嘩騒動」が起きた場所 1 C

布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の42〜43頁による説明は次のとおり。本ブログ次も参照。深堀の「金谷山菩提寺の沿革など」と「長崎喧嘩騒動」
https://misakimichi.com/archives/391

喧嘩坂 — 長崎版討ち入り事件の発端となった石段

忠臣蔵で知られる赤穂事件の前年、その元祖ともいうべき討ち入り事件「長崎喧嘩騒動」が起こっている。事のあらましはつぎのとおりである。
1700(元禄13)年12月19日の昼、「天満坂」(別名大音寺坂)で佐賀藩深堀領主鍋島官左衛門茂久の家臣である深堀三右衛門が杖をついて歩いているとき、誤って泥をはねた。これが、長崎の町年寄高木彦右衛門の使用人にかかって、口論となった。その場はいったん収まったものの、その日の夕方、長崎にあった深堀屋敷に高木家の使用人が大勢で押しかけて乱暴狼藉を働き、三右衛門らの刀をうばった。
この知らせが深堀の城下にとどき、翌日、家臣多数が長崎にむかい、三右衛門らとともに高木屋敷に討ち入り、彦右衛門らを討った。本懐をとげた三右衛門は屋敷内で切腹、その甥である志波原武右衛門はいまの浜市アーケード入り口にあった「大橋」(現在の鉄橋 くろがねばし)の上で切腹した。その後、幕府の判断をあおいだ長崎奉行は、「討ち入りに加わった深堀の家臣は切腹、遠島、深堀邸に乱入した高木家の使用人は斬首」との処分を下した。
事件の発端となった天満坂はのちに喧嘩坂とよばれ、現在は史跡に指定されている。その坂には長崎産の安山岩でできた石段があって、その両側には同じ材質の大きな自然石(または、それを二つに割った石)が空積みされた立派な石垣がある。…

長崎軍団片渕仮病院の位置について  長崎楽会中尾氏私見 ( 長崎県 )

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長崎軍団片渕仮病院(長崎歴史文化博物館所蔵の写真には官軍臨時病院と記載)
の位置についての私見

高橋氏の疑問の元は、松本良順が、仮病院の場所は新大工町であると記述してあることだと思われます。
結論から言えば、仮病院の所在地は間違いなく長崎村片渕郷の内(現・長崎市片渕一丁目)なので、この記述は厳密には言えば、明らかに間違っています。この場所は、新大工町の裏の狭い通路に接する地域で、新大工町側から入る所なので、新大工町裏の……と言えばよいのですが、町の境界は他地区の人にはよくわからず、今でも普通に、新大工町の………と言われたりすることがよくあります。(このような例は、近辺でもみられ、たとえば、片淵に接する夫婦川郷(現在は町)にあった高島四郎兵衛私有地の砲術稽古場は、俗には片渕の射的場と呼ばれていたそうです。)

➀ 仮病院が建てられた新大工町裏手一帯の土地は、私の友人大井氏の研究によると、以前から、幕府(奉行所)が、非常時のため確保していた土地で、天保14年(1843)には、立山奉行所の与力・同心を住まわせる御組屋敷(のち、手附出屋敷と改称)が置かれています。また、文久2年(1862)には岩原官舎に置かれていた英語伝習所が一時的にこの地に移転され英語稽古所となったり(翌年には立山役所に移転)、翌文久3年(1863)には、地役人を訓練するための乃武館(だいぶかん)と言う武術訓練所が設けられています。乃武館の訓練生は、奉行所お抱えの遊撃隊として、幕末長崎の治安活動に従事していたが、ほどなく、幕府が滅亡したため、解体の憂き目に合うが、薩摩藩士松方助左衛門の説得を受け、土佐藩大監察佐々木三四郎の説得を受けた海援隊の長崎残留者と合流、名を振遠隊と替えて、戊申戦争には新政府軍として奥州に出兵し活躍しています。

② 国立公文書館の軍団仮病院(官軍臨時病院)の写真は私も持っていますが、画質がきわめて悪いので、背景などがよくわからず細かい判読が難しいようです。長崎歴史文化博物館の精密画を拡大すれば背景まで鮮明に確認できます。富貴楼や諏訪神社がはっきり写っており、この地域を知っている人が見れば、この写真が新大工町裏手の現在の片渕一丁目辺りだと一目瞭然です。また、写した場所は、諏訪神社と富貴楼の位置関係から見ても、トッポ水横から階段を上った春徳寺裏門辺りより南側の一段下の地、現在シャン・ドゥ・プレ夫婦川マンション(トッポ水横棲登り口辺りの右手に見えるエンジ色のビル、入口は夫婦川横道の方から入る)の敷地南端当たりと思われます。写真でおもしろいのは、仮病院敷地に写っているすべての人物が写真を写している方向を向いていることです。

③ 写した位置が少しずれるが、軍団仮病院が建てられた同じ場所の写真があります。この写真は、明治元年に九州鎮撫総督兼長崎裁判所(行政府)総督として赴任した沢宣嘉が振遠隊の教練を閲兵したときの写真で、『長崎市史』地誌編神社教会下のp431−432梅香崎招魂社の項に掲載されているものです。画像がよくないが、原版は沢家から国会図書館に寄贈されたと聞いている。探せば、もう少しましな画像があるかもしれない。

平成27年6月17日  中 尾

国立公文書館『長崎師団仮病院写真』の真相と撮影地  古写真研究こぼれ話二から ( 長崎県 )

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国立公文書館『長崎師団仮病院写真』の真相と撮影地  古写真研究こぼれ話二から

高橋信一氏(前慶応大学准教授)著「フェイスブック版 古写真研究こぼれ話二 —真実を求めて—」が2015年6月に渡辺出版から発刊されている。
266〜270頁に「282 長崎軍団病院の写真」として、国立公文書館が所蔵する古写真の考察がある。

私は懇意にしてもらっており、現在の撮影地調査に協力した。私や堺屋氏(長崎の古写真研究家)の調査では、この古写真はトッポ(獨鈷)水横から春徳寺裏門へ登る坂段道の高台あたりから、「移設前の旧長崎原爆病院辺りの片淵の畑地に掛け小屋を建てて仮病舎としたと言われる」仮病舎そのものを撮影していると思われる。現在は住宅が建て込み、古写真とまったく同じ写真を写せない。
背景の諏訪神社、松の森神社の大楠、料亭富貴楼、遠く帆掛山・稲佐山稜線などを合わせると、だいたいこの春徳寺付近から、西方の片淵の仮病舎を撮影しているのは間違いない。

詳しい説明は省くが、要点は「仮病院の場所は新大工町である」との記述とか、上野写真撮影局屋上から撮影したとするのは、正確な事実と違い誤解を与える。古写真がこれを正しく記録している。というのが高橋先生の考察である。
長崎文献社刊「アルバム・長崎百年」などにも、同じ古写真が掲載されているので、主なものを参考に載せる。「続・アルバム長崎百年」から明治15年同地にできた長崎監獄(片渕監獄)の位置も参照。
その後、大戦後の日赤長崎原爆病院は茂里町へ移転。済生会病院がここに建っていたが、長崎市立片淵中学校の高台移転へ伴ない、済生会病院の新病院建物は、中学校跡地側へ移っている。

ところでこの広い平地「片淵の畑地」。いわく因縁のある官有地だった。軍団仮病院となる当時は、農民の畑地に一時払い下げられていたようだが、西南戦争拡大に伴いそれをまた買い上げて、長崎軍団片渕仮病院ができたというのが真相のようである。
地元片渕地区に住む私の知人、長崎楽会中尾氏がおもしろい研究をしてくれたので、次の記事「長崎軍団片渕仮病院(長崎歴史文化博物館所蔵の写真には官軍臨時病院と記載))の位置についての私見」によって紹介する。