倉田水樋の木管・支管用土管  長崎市水道資料館に展示 ( 長崎県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

倉田水樋の木管・支管用土管  長崎市水道資料館に展示

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。長崎市田中町卸団地内の東長崎浄水場3階に「長崎市水道資料館」があり、出土した倉田水樋の木管や支管用土管を展示している。
本ブログ次も参照。  倉田水樋水源跡  長崎市伊良林1丁目  (立山役所水樋狭田井は別項)
https://misakimichi.com/archives/1202

倉田水樋の木管 くらた
長崎市 長崎市水道資料館<長崎開港旧町への給水幹線施設> 木管(上水道) 延宝元(1673) WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp4-6 長崎市水道資料館に展示/明治24(1891)に本河内水道が完成し自然消滅→銭屋川の堰・揚水のための水車などは一切残っていない/展示されている木管は年代不明(木管の寿命は長くないので、後世の更新時のものの可能性あり) 寛文の大火後に、回船問屋・倉田次郎右衛門吉重が生活用水+消火用水を兼ねた水樋の建設に着手(寛文7)→私財だけでは工事費が足らず、宅地3ヶ所、回送船3隻を売却し、さらに長崎奉行所から銀10貫目を拝借(要・返済)して延宝元に完成(寛文11には商人でありながら水樋役に任命)/水源は銭屋川の伏流水/2本の幹線路と多数の支管から構成(火災の際に、火災現場に多量の消火用水を供給できるよう木製の「堰子」が支管の分岐点毎に設置)/水の恩恵に与った50余ヶ町の人々が感謝を込めて「倉田水」と名付けた/江戸初期の町民による大規模上水は他に例がない 4 A

倉田水樋の支管用土管 くらた
長崎市 長崎市水道資料館<長崎開港旧町への給水支管施設> 土管(上水道) 寛政8(1796)以降?? WEB(みさき道人)/館内展示解説 長崎市水道資料館に展示/木管からの変更時期・規模ともに不明 上記の「倉田水樋の木管」の支管部分を土管に更新したもの 3 C

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

倉田水樋
倉田水樋(くらたすいひ)は、江戸時代に長崎に水を供給した水道。

水道敷設の経緯
この水道は、本五島町の乙名である倉田次郎右衛門が私費を投じて創設したものである。
長崎の町は元々水源に乏しく、生活用水や非常時の消火用水の不足が問題になっていた。そして、寛文3年(1663年)の大火の際に水不足を痛感した次郎右衛門は、長崎のための水道を造る事を決意。寛文7年(1667年)、許可を得て中島川の上流の現・伊良林1丁目付近の銭屋川を水源とする水道の敷設工事に着手した。
この水道工事は市内36町に水樋を引き送水するというもので、多額の工費が必要となり、次郎右衛門が私財のほとんどを売却しても足りなかったため長崎奉行も白銀300枚の資金援助をした。
水道が完成したのは延宝元年(1673年)の事であった。奉行所では水樋係を新設し、その任を倉田氏に世襲させた。以後、明治24年(1891年)に日本初の上水用ダムである本河内高部ダムが完成するまで、倉田水樋は200年余りにわたって長崎の住民に水を供給し続けた。

水樋
工事はパイプである木樋作りから始まった。松や檜の丸太を幹の縦方向に約3分の1切り離し、残りの部分を幹沿いに丸くくり抜く。これに初めに切り取った部分をかぶせてパイプとし、この外に杉皮や桧皮を巻いて、丸太のくり抜き木樋とした。後には板製の箱型木樋も用いられた。
木樋は中島川沿い左岸の八幡町−銅座町、右岸の大井手町−築町に通じる木樋を2幹線とし、町のほぼ中心部に当たる38ヶ所に埋設された。水は町の所々にある溜枡(貯水槽)に流れ、さらに下手に向かって配水された。この溜枡から市民は水を汲む事が出来、また溜枡には塞弁(そくべん)という板がつけられ、必要に応じて一定方向に水量を調節する事が出来るようになっていた。

参考文献
・『長崎 歴史の旅』 外山幹夫著 朝日新聞社 ISBN 4-02-259511-6
・『長崎県大百科事典』 長崎新聞社
・『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』 平凡社