倉田水樋水源跡  長崎市伊良林1丁目

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倉田水樋水源跡  長崎市伊良林1丁目

創設前の水道「倉田水樋水源跡」は、長崎市伊良林1丁目にある。中島川の上流部。川沿いの市道は一方通行なので、長崎市民会館横から入り、伊良林小学校へ向けて進む。学校へ出る手前右方に「倉田水樋水源跡」の記念碑がある。

「倉田水樋」は近代水道が創設されるまでの218年もの間、長崎の人々の生活を支えていた。1891年(明治24)本河内水源地が完成すると、同水樋は廃止された。
「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊33〜35頁による説明は次のとおり。

第2章 近代水道前史   第2節 倉田水樋の建設

長崎で最初の水道は1673年(延宝元)に完成した「倉田水樋」とされている。本五島町の乙名で、廻船問屋を手広く営んでいた二代目倉田次郎右衛門吉重が私財を投じ、7年の歳月を費やして創設したもので、一般生活用の水道としては江戸時代日本では22番目のものである。
長崎は、開港以来急激な人口増加に海岸や沼地を埋め立てて街づくりを行ってきた。そのため、井戸を掘っても良質な水は出ず、町民は水に不自由していた。…

次郎右衛門の計画概要

水 源  主水源となったところは、かねてから次郎右衛門自ら各所を踏査した結果、銭屋川(中島川の別名)と伊良林の若宮稲荷境域を流れる若宮川ー通称ばんぞ川ーの合流地点(今の伊良林1丁目)にあった。ここは旧水神社裏手にあり、湧水量が豊富で味が良い。これに目を付け、1653年(承応2)川の中に堰を築き、井筒を積み上げたところ、堰を越えるような勢いで、水が吹き上がった。次郎右衛門はさらに、奉行所の許可を得て「水車」を作り、これを使って川の中んら吹き上がった水を近くの八幡町地上に引き揚げることに成功したのである。
この「水車」は長崎最初のもので、のちのちまで「倉田車」と呼ばれて長崎名物の一つとなった。
他に補水用として1670年(寛文10)岩原郷、西山郷、本河内郷、小島郷、片渕郷から取水する許可をもらった。

配水幹線  主水源からは銭屋川左岸に沿って開渠を通じ、八幡町に来て道路を3尺(1尺は0.303m)から5尺に掘り下げ木樋を埋め、中島川の東部は八幡町から銅座町まで、中島川西部は大井手町から築町に配水幹線を設け、分岐箇所には堰子を設け支樋を通して配水した。

樋の用材  主として檜と杉を用い、主幹は厚さ1寸の板で、1辺が1尺から6寸(1寸は3.03cm)までの箱型断面で1本の長さは9尺から15尺とした。
支管は直径1尺前後の檜と杉の丸太の上部を薄切りにし、厚材の方は幅、深さとも4寸の溝をえぐって薄切りにした蓋をかぶせて檜皮や杉皮で2寸の厚さで巻き付け船釘で止めたものや、直径4寸から5寸の孟宗竹の中節をとり、2寸厚さの天川土を塗り付けたものであった。…