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長崎の古写真考 古写真集: 19 対岸より南山手・浪の平を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 19 対岸より南山手・浪の平を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

古写真集 居留地: 19 対岸より南山手・浪の平を望む

■ 確認結果

長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地」平成7年刊の36頁に掲載されている「 19 対岸より南山手・浪の平を望む」の古写真。
同137頁による「図版説明」は次のとおり。古写真データベースでは、目録番号: 987 「飽の浦からの汽船と南山手(1)」の作品となるので、同画像解説も参照。

19 対岸より南山手・浪の平を望む 〔彩色〕      横浜開港資料館所蔵
右下に身投岩がみえるように飽の浦の裏山から居留地の南端を望んだもの。海岸沿いに浪ノ平の町並みが続き、そのうしろに南山手の洋館群やドンドン坂などがみえる。背後の山は鍋冠山。明治20年新築の鎮鼎小学校(のちの浪の平小学校)の校舎(茶色に塗られた2階建て)や、ともに明治22年に建設という南山手25番館(赤色の建物、現在は犬山市・明治村に移築)と右手の山の上の聖ベルナール病院がみえるが、明治28年建設という高木氏宅や同31年建設のマリア園がないので、明治20年代中頃の撮影とみられる。
現存する杠葉病院本館・別館もみえないように、この当時はまだ、この地区に2階建ての洋風住宅は建っていなかったことがわかる。左側に艦船へは団平船による石炭の積み込み作業が行われているが、このような光景が写されているのも珍しい。

現地へ行ってみた。これも撮影場所の説明は違うようである。「身投岩」の岬とは、現在の長崎市岩瀬道町「三菱重工業(株)長崎造船所本館」が建つところ。古写真の「右下」ではなく、「左下」の岩が「身投岩」のようである。この間に湾入があり、現在は第3ドックができている。
浪の平の背後の山は鍋冠山。真ん中に星取山がわずかに覗く。右奥の遠い山は戸町岳である。「三菱重工業(株)長崎造船所本館」は入構禁止なので、正門前から写真を写した。

古写真の撮影場所は、この正門あたりと思われるが、鍋冠山をまだ下から眺め、星取山がわずかに覗くようにならないといけない。したがって実際の撮影場所は、正門から少し下った迎賓館「占勝閣」付近になると思われる。ここには以前から八幡神社があり、「占勝閣」の庭となっている。古写真「右下」は、立神側の先の尾根であろう。
後ろの3枚の写真は、それぞれ岩瀬道の山手の方からと、港内の船上から写してみた。
長崎新聞コラム”水や空”による「占勝閣」の記事は次のとおり。「占勝閣」は公開されていない。

占 勝 閣   (2004年5月25日付)

長崎市飽の浦町、三菱重工長崎造船所本館に隣接して緑の木立に囲まれたとんがり屋根のしゃれた洋館が目につく。第3ドック北側の丘の上にあり木造2階建て。同造船所の迎賓館「占勝閣」だ▲もともとは所長社宅として明治37年に建てられたが、翌年軍艦千代田がドック入りして修理中、艦長の東伏見宮依仁親王が宿泊され、風光景勝を占めるとの意から名付けられた。孫文が大正2年来所した折の扁額揮毫(きごう)もある▲昭和24年5月、昭和天皇が九州巡幸の途中に造船所を視察され、ここに宿泊された。造船所を訪れる皇族や内外賓客の接待に供されている趣のある建物。港と洋館が風景にマッチして長崎の絵になるスポットでもある…

なお、目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手」は、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊62頁にも掲載されている。同解説は次のとおり。撮影年代は「1890年頃」となっている。
85 長崎港 ca.1890 長崎
鎖国時代唯一の外国貿易港は、明治になっても良港として外国船の出入りでにぎわった。この角度では船影がまばらだが、港全体はパノラマ撮影によらなければ写せない。稲佐山側から港内を撮影したもの。

長崎の古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) 関連作品: 545 同(1)、 694 同(2)、3238 同(5)
目録番号:1208 飽の浦からの長崎港(4) 関連作品:3239 同(6)
目録番号:5298 飽の浦船着場と長崎港
目録番号:4632 飽の浦からの長崎港(7)
目録番号:1694 長崎稲佐海岸(2)     関連作品: 546 飽の浦恵美須神社(2)

■ 確認結果

目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」は、長崎港を望む海岸の高台。2人の人物が松の木の根元に座って憩う。古写真集にほとんど出てくる風景。南山手や浪の平の居留地が前面に見える。
長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成7年刊の37頁に同じ写真が載せられ、「図版解説」による説明は次のとおり。

20 稲佐方面の人物と背後の居留地〔彩色〕    長崎大学附属図書館所蔵
上野彦馬の撮影。水の浦付近の丘の先端で休息する2人の人物を配した写真で、遠くの対岸に南山手と浪ノ平から小菅にかけてが望まれる。右手の近景は石炭置場で、左は恵比寿神社。左端に遠く大浦天主堂がみえる。明治中期頃の撮影であろうか。

この古写真の中央から右へ遠く霞む山は戸町岳と熊ヶ峰。手前の鍋冠山との山の重なりから見ると、飽の浦町の「恵美須神社」近くに間違いない。図版説明のとおり「左は恵比寿神社」とすると、「水の浦付近の丘の先端」とはならないのではないか。

2枚目の目録番号:1208「飽の浦からの長崎港(4)」は、その場所からの左側続きである。右上に松の先端の枝が写り、左側には市街地と背後に彦山の姿を写している。
また、3枚目の目録番号:5298「飽の浦船着場と長崎港」は、高台の松を良く見てもらいたい。同じ木であろう。
4枚目の目録番号:4632 飽の浦からの長崎港(7)は、1枚目の目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」と同じ写真であるが、「内田九一」の撮影である。

ここまではすぐわかった。2枚目の目録番号:1208「飽の浦からの長崎港(4)」の左に続く写真があった。それが古写真考の前項でふれた5枚目の目録番号:1694 長崎稲佐海岸(2)である。「恵美須神社」を社殿後ろの右方の高台から撮影している。
古写真の連結写真が、三菱重工(株)長崎造船所史料館(飽の浦町三菱構内)に展示されていた。

したがって、1、2、5枚目の古写真は連結作品で、撮影場所は古写真考の前項で説明したとおり、現在の飽の浦町「菱重興産ビル 第二別館」が建っているあたりの岩場だったところから撮影したものと考えられる。HPや古写真集には、こんな図版解説をしてもらいたい。
連結写真の旧・新を作ってみた(クリック拡大)。新は三菱工場、クレーン、ビルが眺望を遮り、同じ場所から写せないので不揃いとなった。

4枚目の目録番号:4632「飽の浦からの長崎港(7)」は、次のとおり説明している。
「従前、上野彦馬撮影とされていた古写真は、近年、「明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場(海上?)には天皇のお召し艦が見える。もともと上野彦馬の撮影と見られていたが、霞会が所蔵していた西国巡幸の内田の献納写真に同じものがあり、撮影者が九一であることがわかった」。
この「長崎港の4枚組写真の一枚」の所在を、まだ解しかねている。
最後の写真は、長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成7年発行の33頁に掲載されている「16 対岸から居留地を望む」の古写真から、恵美須神社と思われる所の拡大写真。

長崎の古写真考 目録番号: 51 飽の浦恵美須神社(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 51 飽の浦恵美須神社(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:  51 飽の浦恵美須神社(1) 

目録番号:1694 長崎稲佐海岸(2)  (関連作品) 目録番号: 546 飽の浦恵美須神社(2)

■ 確認結果

長崎市飽の浦町の「恵美須神社」を撮影した古写真の3作品。神社越しに長崎港を見ている。
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅠ 長崎の史跡(北部編)」平成14年刊の74頁による神社の説明は次のとおり。
神社は「長崎名勝図絵」にも描かれている。境内に現在「恵比須波止」の標石が残る。

152 釛山恵美須神社 (所在地:長崎市飽の浦町)
釛山恵美須神社は、最初、恵比須町居住の町人某宅に祀られていたが、寛永10年(1633)現在地へ移された。以後、諏訪神社の末社に列し、五箇所商人をはじめ多くの人達の信仰を集めた。旧村社。かつて同社の全面の海中に黄金島とか裸島と呼ばれた島があった。「御用留」には万延元年(1860)この黄金島に船舶標識のための鉄製の灯籠が長崎製鉄所によって製作されることになり、…以下略

目録番号: 51「飽の浦恵美須神社(1)」と目録番号:1694「長崎稲佐海岸(2)」とも日下部金兵衛アルバムらしい。両方とも神社裏の同じ高台から撮影している。
目録番号:1694には赤鳥居と社殿が写っているので、撮影年代が違う。この写真は英文で「長崎、稲佐の景色」と題されているため、タイトルが「長崎稲佐海岸(2)」となっているようだ。

現在の社殿の裏の高台は、「全造船機械三菱長船分会」の組合事務所となっている。ここから写した景色は上のとおり。古写真の左側は水の浦や大鳥崎の尾根、背後の霞む山並みは金比羅山、中央の三角の山が健山、右側は烽火山と武功山となることを確認した。
実際は、社殿向きがまだ左に寄っているので、組合事務所の先のビル「菱重興産第二別館」あたりにあった続きの岩場から撮影されたと思われる。ビルは岩場を削って建てられている。

長崎の古写真考 古写真集: 37 金星観測眼視望遠鏡

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長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 37 金星観測眼視望遠鏡

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬歴史写真集成: 37 金星観測眼視望遠鏡

■ 確認結果

これは長崎大学HPの目録番号にはなく、馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年初版の52頁に掲載されている「37 金星観測眼視望遠鏡」の古写真。
同頁の「図版解説」は次のとおり。写真は日本大学芸術学部所蔵である。

37 金星観測眼視望遠鏡
明治7年(1874)12月9日の金星の太陽面通過に伴い、その金星観測絶好の地として日本の長崎、神戸、横浜などが選ばれた。彦馬は長崎のアメリカ観測隊に加わり、我が国初の天体写真を撮影したとされる。これはその際の望遠鏡を撮影したものと思われる。なお、彦馬撮影による肝心の金星の写真は一枚も発見されていない。

前の記事「星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える」を参照。
https://misakimichi.com/archives/141
「写真集成」による図版解説や、星取山現地「さるく説明板」の説明はそのとおりである。ただ、望遠鏡背景の山並みを、これまでほとんど確認されていないように感じたのは、不可解だった。
山頂はNTT無線中継所が大きく占め、フェンスに囲まれ中に入れない。木立が高く山頂からの眺めはまったく得られない。

視界が開ける山頂手前、「NNK中継所アンテナ」のある所の道路からや、もう少し下った大正寺管理「星取墓地公園」からの展望は、上の写真のとおりである。
「37 金星観測眼視望遠鏡」の背後の山並みは、戸町岳とはまったく反対側。北方の彦山から田手原・甑岩にかけての山に間違いない。手前の尾根は三景台や風頭町あたりである。
したがって、この古写真は星取山山頂に据えた望遠鏡を撮影していると断定できる。
「さるく説明板」左側下にあるもう1枚の古写真の「観測所」風景の背後の盛り上がった地面は、同じ所に見えるが、これは観測所から東方へ少し離れた「唐八景」山頂の稜線であろう。

長崎の古写真考 古写真集: 16 対岸から居留地を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 16 対岸から居留地を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

古写真集 居留地編: 16 対岸から居留地を望む

■ 確認結果

「16 対岸から居留地を望む」の作品は、長崎大学データベースでは見当たらない。長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成7年発行の33頁に掲載されている。同137頁の「図版解説」は次のとおり。

16 対岸から居留地を望む         長崎市立博物館所蔵
対岸の淵村、立神の山の中腹から長崎港越しに居留地を遠望したもので、中央に下り松から浪ノ平と南山手、左手には梅香崎、右手には小菅までが写っている。手前側には左手に岩瀬道の漁村集落、右手側に初期の三菱造船所がみえる。やや不鮮明ながら大浦天主堂は改築後の姿で、東山手の丘にはラッセル館がなさそうなことから、撮影は明治10年代前半期であろう。

すぐ思い浮かぶのは、稲佐山展望台から眼下に見える光景である。長崎製鉄所(明治17年払い下げ、三菱会社長崎造船所飽の浦機械工場となる)と身投崎が手前の右手側に写っているので、立神の山からとはならない。
手前側の左手は「水の浦」、中央は「恵比須神社」、右手は「飽の浦」である。
対岸の右手の山は鍋冠山と星取山。奥にかすむ三角のピークが戸町岳。山の稜線の重なりを見ると、撮影場所は稲佐山の山頂からではない。

飽の浦から登山道が現在もある稲佐山の中腹。現在の長崎市大谷町、社会福祉法人長崎厚生福祉団の介護老人保健施設「シンフォニー稲佐の森Ⅱ」が建ったケアハウス背後あたりが考えられる。ここなら山の重なりが合う。
「シンフォニー稲佐の森Ⅱ」が建ったため、古写真と同じような光景を写せない。登山道も迂回してしまった。現在の写真は、景色が確認できる適当な場所から撮影している。

(追 記 平成21年2月14日)
失礼してしまった。長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年発行の第3版によると、137頁の「図版解説」では、撮影場所は「対岸の稲佐山の山頂下付近から遠望したもの」と所要の修正がなされていた。
撮影者は不詳。明治20年代中頃の撮影であろうとなっている。

「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」による「御崎道」研究の問題点

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「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」による「御崎道」研究の問題点

長崎歴史文化博物館編「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」が平成19年11月発行されている。定価800円。
長崎街道・浦上街道・西山街道・島原街道・茂木街道・御崎道が取り上げられている。博物館の長崎歴史文化研究所と長崎学サポーターの方々による長崎学研究の本である。

「御崎道」とは「みさき道」。長崎市中から脇岬の観音寺まで七里(28km)。江戸時代から”みさきの観音”の参詣で賑わった歴史ある道。
苦労して調べられた研究に論をはさむのは心苦しく、なるべく差し控えていたが、長崎歴史文化博物館の本なので市販されている以上、読んだ方が誤った理解をされないとも限らない。
「御崎道」に関する研究の主な問題点をあげるので、今後の参考としていただきたい。

1 長崎歴史文化博物館が編集発行した「長崎学」のハンドブックである。当時の文献や資料にもとづいた信頼性のある、正確な調査と研究をお願いしたい。
2 江戸・明治・大正・昭和期と時代を混同されたルート図となっている。私たちが知りたいのは、江戸時代の参詣の道であろう。他の街道でも同じようなことが見られる。
3 明治以降できた県道・市道などを主な道としている。極端な例として竿浦町付近では、近年の「サイクリング道路」をそのまま街道と誤認されている。
4 地元を知る識者や古老の聴き取りを行うと、今でも街道の様子がおぼろげながらわかることがある。参考となる史料や図書が、地元に残っている場合がある。
5 文献や資料と照らし合わせ、現地を実際に歩いて踏査し、確認すべきではないか。現地踏査がおろそかになっている。大籠町ー晴海台団地間は地図が欠落。
6 当時の文献や資料の研究を、ほとんどなされていないように見受けられる。主な史料類を以下に掲げるので、参考としていただきたい。
7 「御崎道」研究の第1級史料である長崎医学伝習所生「関覚斎日記」の存在にまったくふれず、研究されていないのはいかがであろうか。
8 佐賀領各村地図・街道図・居留地地図などと国土地理院明治期旧版地図の調査研究と活用をお願いしたい。根拠のない推測の道では困る。
9 当時の長崎半島の地形をどれほど認識されているのだろうか。海岸部はほとんど後年の埋立て。道がなかった所は歩けない。赤道調査の必要がある。
10 川原・岬木場回りの「御崎道」の研究もお願いしたい。殿隠山・遠見山は通らず、直接、井上へ下って観音寺へ向かっているようである。
11 テレビ番組や新聞記事が安易な内容となってないだろうか。慎重な取材をしたうえで、正確な報道をお願いしたい。

「御崎道」に関する主な文献と資料

① 長崎医学伝習所生の関覚斎「長崎在学日記」      北海道陸別町関寛斎資料館所蔵
文久元年(1861)4月3日から4日にかけて仲間3人で脇岬観音寺へ詣でた日記
② 「肥前一国絵図」(正保4年)・肥前全図(元禄14年)  長崎歴史文化博物館所蔵
③ 佐賀藩南佐賀領各村地図 (安政・萬延・文久年間)        同   上
④ 庶務課史誌挂事務簿 「西彼杵郡村誌」 明治18年5月     同   上
⑤ 真鳥喜三郎著 「ふるさと地名の研究」          長崎市土井首地区公民館蔵書
⑥ 国土地理院旧版地図 (明治34年測図)
⑦ 長崎市市道(赤道)認定図
⑧ このほか、平凡社「長崎県の地名 日本歴史地名大系43」2001年など、多数がある。

長崎の古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 (続き)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 (続き)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口(再掲)
目録番号:5565 立山からの長崎港遠望

■ 確認結果
目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」は、1886年に英国の写真家フェリックス・ベアトが撮影した長崎港の古写真。
2009年(平成21年)1月1日付朝日新聞長崎地域版に、開港150年の年頭特集記事として飾られた。この項は、前項 https://misakimichi.com/archives/1575 の続き。

最初の写真が、私が探した撮影場所。ホテルの長崎の左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりでないだろうかと考えた。
次の新聞記事と写真が、朝日新聞記者が探した撮影場所。福済寺長崎観音の背後、ホテル長崎の展望浴場のすぐ下の墓地あたりからと思われる。

ところでベアトが撮影したこの古写真と、撮影場所が似ていると思われる写真がある。もちろんここからは、多少の場所の違いや高度差を抜きにして話を進める。
次の古写真の目録番号:5565「立山からの長崎港遠望」。撮影者未詳、アルバム名:明治期手彩色小型写真帖でなっている。上野彦馬もまた、まったく同じような古写真を残している。

長崎市写真団体合同展実行委員会が平成15年6月発行した「上野彦馬没後100年・第30回記念 写真集 長崎 第7集」の表紙となっている古写真。
同実行委員会も、古写真の撮影場所を探しているのがわかった。対比写真は記者からまだ左寄りの上、ホテル長崎の展望浴場の横からを写している。
「福済寺」の大雄宝殿の跡に建てられた長崎観音の像は、古写真の外のまだ右となるので、これも合わない。要は、神崎鼻の先に香焼島が古写真どおり写らないのではないか。

上野彦馬は周りを囲む山々から、長崎港を俯瞰した写真を多く撮影している。
馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年7月初版の60頁には、47、48で「福済寺裏山からの長崎港」がある。同70頁にも「79、墓地越しの長崎港眺望」を載せられていた。実行委員会写真集の表紙となった古写真は、47の作品と若干違うが、上野彦馬の作品に違いないだろう。

88頁には、年代不詳で未整理されている「87、福済寺裏山からの長崎港眺望」の作品がある。左右下に赤×があり、台紙裏に年月などの書き込みが何もないらしい。
朝日新聞の記事となった1886年ベアトが撮影した目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の古写真と、まったく同じような構図である。
たしかに詳しく見ると、港内の船や市街の家は少し違う。だが、撮影年代はそう変らないようで興味深い。上野彦馬の写真の撮影年代を推定できるのではないか。
古写真を所蔵する資料館や専門に研究される方において、はっきりした検証をお願いしたい。

本蓮寺のオオカナメモチ(テツリン)とムクノキ  長崎市筑後町

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本蓮寺のオオカナメモチ(テツリン)とムクノキ  長崎市筑後町

本蓮寺は、JR長崎駅近く筑後町の高台にある。元和6年(1620)、大村本経寺の僧・日彗によって建立された日蓮宗の寺院。寺町界隈にある晧台寺、大音寺と共に長崎三大寺といわれていたが、原爆で全焼。現在の本堂は昭和30年(1955)に再建された。

本堂の右脇に、大きく根を張り、多くの支幹をつけているのが、”テツリン”と呼ばれる「オオカナメモチ」で、寺で大事にされている古木である。植物図鑑による説明は次のとおり。
本堂裏の山手斜面には、同寺の広い墓地があり港が見える。中段に大木が1本立つ。ムクノキで、幹囲3.5m、高さ12mほどあった。まだ枯れてないようだ。
いずれも原爆の業火に遭いながら、生き残った木である。

【バラ科 カナメモチ属】  オオカナメモチ  Photinia serrulata

【 大要黐 】 別名 / テツリンジュ
●常緑高木 ●高さ:4〜6m ときに10m ●花期:5〜6月 ●果期:10〜11月 ●分布:本州(岡山県),四国(愛媛県),九州(奄美諸島),沖縄(西表島)
参考文献:「山渓ハンディ図鑑3 樹に咲く花 離弁花①」(山と渓谷社) P653

●見分けるポイント●
カナメモチに比べて,葉の形状はよく似ているが,はるかに大きい。オオカナメモチが10〜20cm,カナメモチは6〜12cmと,2倍にちかい大きさ。
●豆知識●
生け垣に利用されるレットロビンは,カナメモチとオオカナメモチの雑種。
「○○モチ」と名があるが,モチノキ科ではない。

三菱長崎造船所「三造」の標石  長崎市岩瀬道町

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三菱長崎造船所「三造」の標石  長崎市岩瀬道町

長崎の外国人居留地跡標石の項で、長崎クラバー園入口などにあった「三菱用地」の標石写真を載せていたが、これより古いと思われる標石を見かけた。
場所は長崎市岩瀬道町。三菱重工業(株)長崎造船所本社ビルがある。第三ドックの先に迎賓館「占勝閣」が見える。「岩瀬道」の次の「八軒屋」バス停から現在の県道236号線ができる前の旧道の坂段道に入り、立神へと歩いてみた。

昭和30年頃までは、車やバスが通う道は飽の浦までで、立神・西泊・木鉢と次々と山越えして歩かなければ、小瀬戸まで行けなかった。陸の孤島といわれた地域で、船が唯一の交通手段だった。今はトンネルができ、神の島も陸続きとなって、この地域は発展を続けている。
八軒屋バス停から旧道を登りきると、岩瀬道町と東立神町の町境。ちょうど住居表示板に挟まれて、電柱の根元に「三造」と刻んだ標石があった。寸法は16cm角、高さ50cm。
三菱造船所の古い境界標だろう。現在、ここは民間の住宅地のようだ。

本造船所の歴史は、日本初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」として出発。幕府から明治政府に管理が移った後、1887年(明治20年)三菱に払い下げ、以後、民営の造船所として、戦後も多数の艦船を建造しているとあった。工部省所管「長崎造船局」時代の1879年(明治12年)に、立神第一ドックがすでに完成している。
標石の年代を一番古く見積もると、三菱に払い下げがあった1887年(明治20年)ともなろう標石ではないだろうか。