長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 19 対岸より南山手・浪の平を望む
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
古写真集 居留地: 19 対岸より南山手・浪の平を望む
■ 確認結果
長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地」平成7年刊の36頁に掲載されている「 19 対岸より南山手・浪の平を望む」の古写真。
同137頁による「図版説明」は次のとおり。古写真データベースでは、目録番号: 987 「飽の浦からの汽船と南山手(1)」の作品となるので、同画像解説も参照。
19 対岸より南山手・浪の平を望む 〔彩色〕 横浜開港資料館所蔵
右下に身投岩がみえるように飽の浦の裏山から居留地の南端を望んだもの。海岸沿いに浪ノ平の町並みが続き、そのうしろに南山手の洋館群やドンドン坂などがみえる。背後の山は鍋冠山。明治20年新築の鎮鼎小学校(のちの浪の平小学校)の校舎(茶色に塗られた2階建て)や、ともに明治22年に建設という南山手25番館(赤色の建物、現在は犬山市・明治村に移築)と右手の山の上の聖ベルナール病院がみえるが、明治28年建設という高木氏宅や同31年建設のマリア園がないので、明治20年代中頃の撮影とみられる。
現存する杠葉病院本館・別館もみえないように、この当時はまだ、この地区に2階建ての洋風住宅は建っていなかったことがわかる。左側に艦船へは団平船による石炭の積み込み作業が行われているが、このような光景が写されているのも珍しい。
現地へ行ってみた。これも撮影場所の説明は違うようである。「身投岩」の岬とは、現在の長崎市岩瀬道町「三菱重工業(株)長崎造船所本館」が建つところ。古写真の「右下」ではなく、「左下」の岩が「身投岩」のようである。この間に湾入があり、現在は第3ドックができている。
浪の平の背後の山は鍋冠山。真ん中に星取山がわずかに覗く。右奥の遠い山は戸町岳である。「三菱重工業(株)長崎造船所本館」は入構禁止なので、正門前から写真を写した。
古写真の撮影場所は、この正門あたりと思われるが、鍋冠山をまだ下から眺め、星取山がわずかに覗くようにならないといけない。したがって実際の撮影場所は、正門から少し下った迎賓館「占勝閣」付近になると思われる。ここには以前から八幡神社があり、「占勝閣」の庭となっている。古写真「右下」は、立神側の先の尾根であろう。
後ろの3枚の写真は、それぞれ岩瀬道の山手の方からと、港内の船上から写してみた。
長崎新聞コラム”水や空”による「占勝閣」の記事は次のとおり。「占勝閣」は公開されていない。
占 勝 閣 (2004年5月25日付)
長崎市飽の浦町、三菱重工長崎造船所本館に隣接して緑の木立に囲まれたとんがり屋根のしゃれた洋館が目につく。第3ドック北側の丘の上にあり木造2階建て。同造船所の迎賓館「占勝閣」だ▲もともとは所長社宅として明治37年に建てられたが、翌年軍艦千代田がドック入りして修理中、艦長の東伏見宮依仁親王が宿泊され、風光景勝を占めるとの意から名付けられた。孫文が大正2年来所した折の扁額揮毫(きごう)もある▲昭和24年5月、昭和天皇が九州巡幸の途中に造船所を視察され、ここに宿泊された。造船所を訪れる皇族や内外賓客の接待に供されている趣のある建物。港と洋館が風景にマッチして長崎の絵になるスポットでもある…
なお、目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手」は、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊62頁にも掲載されている。同解説は次のとおり。撮影年代は「1890年頃」となっている。
85 長崎港 ca.1890 長崎
鎖国時代唯一の外国貿易港は、明治になっても良港として外国船の出入りでにぎわった。この角度では船影がまばらだが、港全体はパノラマ撮影によらなければ写せない。稲佐山側から港内を撮影したもの。