長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

明治5年明治天皇の西国巡幸における「長崎港のパノラマ写真」の問題 ( 長崎県 )

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明治5年明治天皇の西国巡幸における「長崎港のパノラマ写真」の問題

「フェイスブック版 古写真研究こぼれ話 —真実を求めて—」など発刊されている高橋信一氏(元慶応義塾大学工学部准教授。定年後の現在、向学のため文学部3年に入学し勉学中)から送られてきた研究資料。
明治5年明治天皇の西国巡幸における「長崎港のパノラマ写真」の問題。この写真は本当に内田九一が撮影したのか?

本年7月3日、同先生が東京の青山学院大学で洋学史研究会の講演をした時の配布資料である。私の前記本の3冊でずっとやってきたテーマの総決算ということで、地元長崎の人の意見をぜひいただければとのことである。最終結論は8頁にあり、各位の意見がありましたら、コメントでお聞かせください。

この項は、本ブログ次の記事など参照。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか
https://misakimichi.com/archives/1589
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか
https://misakimichi.com/archives/2192
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3) ほか
https://misakimichi.com/archives/2186

「長崎港のパノラマ写真」関係は、次のHPに独特な考察がある。manu画面で青色色調の関係記事を参照。
囂庵(GOUANN)の幕末明治の古写真    http://www.gouann.org/
高橋先生の見解は、「春日」は外輪船であり、そのようには見えません。「龍驤」には舳先マストがあるはずですが、それがありません。主マストに錦旗がなければなりません。この船は万国旗を飾っています。それは可笑しい。

高橋信一氏著「古写真研究こぼれ話 三 —真実を求めて—」の新刊案内 ( 長崎県 )

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高橋信一氏著「古写真研究こぼれ話 三 —真実を求めて—」の新刊案内

高橋信一氏(元慶応義塾大学工学部准教授)の新刊「フェイスブック版 古写真研究こぼれ話 三 —真実を求めて—」が、2016年4月に渡辺出版から発行された。
現在に残された貴重な古写真の数々。知られている人物・年代・撮影者などは 本当に正しいのか?古写真界のシャーロック・ホームズの最後の事件簿。古写真に秘められた謎を解き明かす。古写真研究こぼれ話は、一・二に続く最後の三巻の出版。各巻定価 本体2000円+税。

10年以上古写真の研究を通じて、一般の方々に古写真の面白さとその歴史の資料としての重要性を知ってもらうだけでなく、専門の研究者へ古写真を見直し作業の呼び掛けもしてきました。私は、古写真には発見の楽しみがあると思います。やればやるほど未知のことが明らかになります。本書では「長崎港のパノラマ写真」、「フルベッキ写真」、「内田九一や上野彦馬の写真館スタジオの変遷」、「鎌倉・大仏」や「長崎・中島川」などをシリーズで扱っています。(本文より)

三の本書では、長崎の古写真が多く取り上げられている。129〜131頁「327 長崎軍団病院の写真(2)」では、撮影場所を考察した本ブログ記事を紹介されている。再掲となるが、この項は次を参照。
国立公文書館『長崎師団仮病院写真』の真相と撮影地  古写真研究こぼれ話二から
https://misakimichi.com/archives/4668
長崎軍団片渕仮病院の位置について  長崎楽会中尾氏私見
https://misakimichi.com/archives/4669

その外、長崎大学附属図書館が公開している幕末・明治期古写真も、解説の疑問が多く研究の対象となっているので、長崎大学側は、データベース改善について、真摯な対応を早くお願いしたい。

木橋の大浦橋(大浦石橋)が写った古写真など  長崎市大浦町 ( 大分県 )

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木橋の大浦橋(大浦石橋)が写った古写真など  長崎市大浦町

入江氏の研究により、大浦橋(大浦石橋)について、次のとおり報告があった。当時の大浦川の様子と架かっている場所から、「大浦橋」に間違いないだろう。
目録番号は、長崎大学附属図書館古写真データベースの番号とタイトル。「大浦橋」の解説はない。  

大浦橋(大浦石橋)についてお知らせします。木造の大浦橋が写っている古写真などがあります。
大浦橋は、伊能忠敬の測量日記では文化十年八月二十七日「大浦川尻巾八間」としか書かれていません。長崎の古地図などには橋は描かれていますが、木橋とは書かれていません。

添付画像 大浦橋 1
目録番号5385 「大浦川と居留地(2)」 撮影者 F.ベアト
撮影年代は幕末
弁天橋から撮影された一枚です。
画面中央に欄干の低い木造の大浦橋が写っています。
橋脚は3基のようです。

添付画像 大浦橋 2
目録番号5318 「大浦川と居留地(1)」 撮影者 上野彦馬
撮影時期は明治初期
同じく弁天橋から撮影されています。
画面中央に鉄製と思われる欄干のある橋が移っています。
欄干かその前に帆布のような白い布が掛けられていますので全体像が判りません。

添付画像 大浦橋 3
これは一関市博物館所蔵「長崎港図」川原慶賀筆です。
この絵の右に木造アーチ型の大浦橋が描かれています。
ベアト撮影の橋と同じ橋だと思いますが、誇張されているようです。

現在の大浦橋(石橋)については、本ブログ次を参照。
大浦川の暗渠下に残るアーチ石橋「大浦橋」   https://misakimichi.com/archives/792

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータ及び現地説明板は、次のとおり。

№3,325  大浦橋
長崎市大浦町
橋幅:4.0m  径間:10.0m  環厚:43cm

大浦橋
「石橋バス停前の道路には大浦橋(石橋)が架かっていました。実は、今でも道路の下を川が流れていて、かつての石橋が残っています。路面が盛り上がっている所がその目印で、親柱は、同バス停横にあります。昔は河口からこの辺りにも小舟が入っていたそうです。大浦橋は、当初、木橋だったといわれていますが、明治初期に簡素な石橋となり、明治19年(1886)、地元の有力者により、この写真の石橋に架け替えられました。」
管理者:長 崎 市

長崎の古写真考 目録番号:5867 対馬(1) ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5867 対馬(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5867 対馬(1)

対馬関連作品は、ほかに目録番号:5869(2)、5870(3)、5876(4)、5877(5)、5878(6)がある。

■ 確認結果

目録番号:5867「対馬(1)」は、撮影地が長崎県対馬の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港から撮影していると思われる。
先般4月22日、対馬を訪れ現地確認をしたが、古写真左下の三角形の島を大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)とすると、状景が現地写真2のとおりやや合わなく、確証を得られず調査保留とした作品。

撮影地はどこだろう。今、ほかの人のブログを見て気付いたが、現地写真3の黄囲線内のとおり、やはり美津島町尾崎漁港からの風景だろう。次の尾崎漁港岸壁からの写真を参照。
投げ釣り戦記 2008-10-29  http://blog.goo.ne.jp/jca1/e/425385776b539b0445951f91f2debbd4
古写真の撮影地は、大島「都々智神社」対岸となる当時の尾崎海岸あたりからと考えられる。現在は広い海岸埋立地となり、公園や高い防波堤があって状景確認ができなかった。

尾崎漁港は浅茅湾の西の入口にある。背景の左側遠く高い山は、対馬の名峰「白嶽」だろう。ここなら全体の状景が合う。問題は古写真左下の三角形の島。私は大島「都々智神社」ではないかと思っていたが、そうではない。現地写真3のとおり、撮影地尾崎岸壁の先に写る沖波止の岩礁類。沖波止の建設のため、この島は削られて低くなったのではないだろうか。地元の検証をお願いしたい。

この作品は、本ブログ次も参照。1890年、イギリス海軍の軍艦ヴァーノン号が対馬の浅茅湾に停泊した。撮影者は同じく、この軍艦の見習い将校ヘンリー・スチュアートが撮影した対馬の写真の1枚である。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5878 対馬(6)
https://misakimichi.com/archives/4549
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5869 対馬(2)
https://misakimichi.com/archives/4550

長崎の古写真考 目録番号:5869 対馬(2) ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5869 対馬(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5869 対馬(2)

対馬関連作品は、ほかに目録番号:5867(1)、5870(3)、5876(4)、5877(5)、5878(6)がある。

■ 確認結果

目録番号:5869「対馬(2)」は、撮影地が長崎県対馬の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港を撮影している。
前記事とした目録番号:5878(6)の、大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)のまだ手前、尾崎漁港入口のバス停あたりからの景色である。
ほかの関連写真も、近辺の集落や海岸と考えられるが、調査時間がなく、まだ確証を得るまでに至らなかった。

目録番号:5878「対馬(6)」は、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年刊の189頁に掲載があり、撮影者を次のとおり解説している。
目録番号:5869「対馬(2)」もこのとき撮影された湾内の1枚で、撮影者はヘンリー・スチュアートである。

82 都々智神社とイギリス軍艦
対馬の浅茅湾に進入したイギリス海軍ヴァーノン号と都々智神社。1861年にはロシア艦隊がこの湾の一部を半年間占拠した。
ヘンリー・スチュアート撮影、1890年、鶏卵紙、15.2×10.3

1890年、イギリス海軍の軍艦ヴァーノン号が対馬の浅茅湾に停泊しました。この軍艦の見習い将校ヘンリー・スチュアートが撮影した対馬の大島の都々智神社と軍艦の写真です (写真82)。場所は湾の入り口付近で、対馬を撮影した写真としては最古のものでしょう。長崎大学にはこのき撮影された湾内の写真がほかに5枚残されています。…

長崎の古写真考 目録番号:5878 対馬(6) ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5878 対馬(6)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5878 対馬(6)

対馬関連作品は、目録番号:5867(1)、5869(2)、5870(3)、5876(4)、5877(5)がある。

■ 確認結果

目録番号:5878「対馬(6)」は、撮影地が長崎県対馬の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影している。関連写真は、近辺の集落や海岸であろう。

この作品は、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年刊の189頁に掲載があり、画像解説は次のとおり。186〜187頁に詳しい解説がある。

82 都々智神社とイギリス軍艦
対馬の浅茅湾に進入したイギリス海軍ヴァーノン号と都々智神社。1861年にはロシア艦隊がこの湾の一部を半年間占拠した。
ヘンリー・スチュアート撮影、1890年、鶏卵紙、15.2×10.3

この項は、再掲。本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2390
今般、遺産リストで対馬を訪れる機会があり、古写真の現地確認も行った。目録番号:5878「対馬(6)」は、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影しているのは間違いないので、現在の写真を載せる。

これが星取山無線中継所からの景色  長崎市出雲3丁目 ( 長崎県 )

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これが星取山無線中継所からの景色  長崎市出雲3丁目

明治4年(1874)金星太陽面通過観測の最適地として日本が選ばれ、長崎ではフランス隊の金比羅山に対し、アメリカ隊の観測は星取山(当時は太平山。観測を契機に改称)で行われた。
長崎大学附属図書館古写真データベースにも、ほかに星取山から撮影した作品が数点あるのに、現在の山頂一帯は、NTT長崎星取無線中継所が建ち、高い木立に囲まれ見通しが効かない。
1月10日に機会があって、NTT長崎星取無線中継所に入れてもらった。構内の様子や建物屋上から景色を撮影できたので紹介する。長崎港口の方は展望できなかった。

星取山のHP「電話局写真館」による説明は、次のとおり。

NTTコミュニケーションズ 長崎星取無線中継所 | 長崎県長崎市出雲(星取山山頂)
坂の町を見下ろし、星の空を見上げる無線中継所。
坂の町・長崎、星取山山頂にあります。
町から見えた中継所。
明治4年アメリカ隊による金星太陽面通過観測が行われたそうです。
NTTコムとNTT西日本による案内板が設置されていました。
局前のバス停、「無線中継所前」。
時刻表によると一日に朝夕2回やってくるようですが、ここから乗り降りする人はいるのかなぁ。
ひっそりと建てられていた退職記念碑。
中継所に勤務されていた方でしょうか。思い入れが伝わってきます。

金星太陽面通過観測の地(長崎・星取山)
明治4年(1874)金星太陽面通過観測の最適地として日本が選ばれ、アメリカ、フランス、メキシコなどから観測隊が来日し、長崎、神戸、横浜、東京で観測が行われました。
アメリカのダビッドソン隊は、星取山(当時は太平山。観測を契機に改称。)に観測所を設け、12月9日、曇天の中、太陽面を通過する金星の観測を行いました。この観測隊には、当時の海軍省(水路寮:現在の海上保安庁)、文部省から係官が同行し、観測機器類や観測方法などが見聞きしました。後日、日本経緯度原点が東京麻布に設けられたのもダビッドソンの尽力によるものです。
なお、上野彦馬は第3写真助手として雇われ、観測所の風景などを撮影しました。また、長崎ではフランスのジャンサン隊も金比羅山(当時は琴平山)で観測を実施し、記念碑や観測台(いずれも県指定文化財)を残しています。
この案内板は、「長崎さるく博」(平成18年4月〜10月)の開催にあわせ、科学史における偉業が当地で行われたことを記すために設置されたものです。
2006年4月 NTTコミュニケーションズ株式会社 西日本電信電話株式会社
協力 日本大学芸術学部 長崎市教育委員会(長崎市科学館)
観測所風景(上野彦馬撮影)、アメリカ隊が観察に用いた望遠鏡。

この項は本ブログ次を参照。個々の詳しい説明は省くが、山頂からの景色と対比し確認していただきたい。
正門から入った南側の花壇と退職記念碑は取り払われ、そこにNTTが平成18年6月設置した「長崎星取山 金星観測地点」のプレートが新たに地面に埋め込まれていた。博物館と協議してこの場所と決めたらしい。

長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 巻頭2〜3P 星取山からの長崎市街のパノラマ
https://misakimichi.com/archives/3970
長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 14P 幕末長崎のパノラマ写真
https://misakimichi.com/archives/3971
星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える
https://misakimichi.com/archives/141
星取山「金星太陽面通過観測の地」の遺構がないか
https://misakimichi.com/archives/3115
長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 151・152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む
https://misakimichi.com/archives/2350

長崎の古写真考 目録番号:5638 新大工町通り(1) ほか ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5638 新大工町通り(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5638 新大工町通り(1)
[画像解説]
明治中期の新大工町の町並みである。通りは広く、人力車があちこちに見える。慶長11年(1606)頃大工が集まって大工町ができた。その後、大工町(本大工町)は手狭になり、当時の町外れに新大工町が分離した。寛永18年(1641)には内町の一つであった。寛文12年(1672)に出来大工町が分離している。旧新大工町は昭和56年
(1981)に伊勢町と分離した。

目録番号:6129 新大工町通り(2) (1)と同じ。掲載略。

■ 確認結果

目録番号:5638「新大工町通り(1)」と、目録番号:6129「新大工町通り(2)」は、長崎明治手彩色写真帖となった同じ作品。キャプションに「新大工町」とあり間違いない。
長崎ケーブルテレビで近年、「NAGASAKI古写真らいぶらり〜」があっている。私の家は視聴してないが、先日は新大工町周辺の放送があった。

知人入江氏がこの番組をいつも見ており、「江戸時代の絵地図を見ると、この場所に「天神」と書かれているものもあれば、「いふくじ」と書かれているものもあります。江戸時代は神仏混淆で両方がこの長崎村桜馬場郷の地に在ったのですが、明治の神仏分離令(神仏判然令)により天満宮だけが残りました」
入江氏からケーブルテレビ放送部へこの内容を知らせ、その後に放送された番組の最後に補足説明があった。他にも新大工町関係の古写真でわかったのは、入江氏の研究によると次のとおり。

「長崎大学古写真、目録番号:5638、目録番号:6129は「新大工町通り」としているのは良いのですが、「NAGASAKI 古写真 らいぶらり〜」での説明は大手橋を渡って新大工町通りに入った付近から撮影されたように話され、右側の窪んだ場所に舞鶴座が建ち、現在玉屋になっていると話されていました。長崎大学古写真の小さな写真を見ると、私もそのように思い込んでいました。
しかし、番組内の拡大した写真には擬宝珠の欄干のある橋が写っていました。新大工町に大手橋の他に橋が在るはずもありません。

そこで見つけたのが添付した写真です。   http://4travel.jp/travelogue/10889685 から。
長崎大学古写真と同じ場所から撮影したもので、前下がりの地形であること、左の角の家の様子、人力車が常駐していることから、撮影地点は諏訪神社一の鳥居前と考えます。私が作成した地図の×の地点です。
江戸時代は橋の手前に木戸があり、木戸番所があったようです。長崎大学の古写真には橋そばに番所小屋(明治期は交番)らしきものが建ち、警察官?が立っています。

この写真をアップした方はそこに気付いておられて、「当時の馬町と新大工町の町並み 中央の石畳は、長崎街道の入り口で、両脇に人力車や荷車が留めてあります。中央に大手橋の親柱が見えています。大手橋の名称は、曾て長崎氏が領主だった頃に、この橋が城の大手方向にあったことに由来しています。」とあります。
しかし、正確には右側は出来大工町で、その後取り壊されて馬町交差点となった場所です。撮影地点の背後が北馬町と南馬町です。」

私も目録番号:5638「新大工町通り(1)」の中央部分を拡大して、両方の古写真を比較した。左奥に同じ擬宝珠の親柱や欄干が、たしかに写っている。これは後、橋拡幅の際、撤去された。右手前のは消火栓?だろう。
親柱のところの道路は、アーチ状に盛り上がり、現在も新大工商店街入口の通り下部に残る西山川(堂門川)のアーチ式石橋「大手橋」に間違いないようである。

現在の「大手橋」は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/578
この記事でもふれているのは、「親柱が、暫らくは付近にあったが、無くなってしまったと聞いていたが、電車通りの向うの曹洞宗光雲寺の門柱になっていると聞いて見に行ってきた。残念ながら文字は確認できなかった。」という話が興味を引く。
「光雲寺にある石橋の親柱」は次を参照。  https://misakimichi.com/archives/249

入江氏から教えてもらったが、「大手橋」親柱のあと1本のその後については、「眼鏡橋の控柱(左岸上流側)に継ぎ石 なぜか1本だけ……!?」というおもしろい実証写真付きの研究がある。
HP「長崎補色 其之参拾伍」の話を参照。 http://f-makuramoto.com/01-nenpyo/02.essay/35/35.html
以上から、入江氏の「大手橋」という指摘はもっともであろう。長崎大学附属図書館でも研究し、目録番号の具体的な解説修正を早くお願いしたい。

なお、最後の古写真は、写真集「目で見る 長崎市の100年」株式会社郷土出版社2002年7月発行の57頁に掲載がある「大手橋から新大工町大通りを見る(新大工町・大正10年頃)」
この写真は、本ブログ次を参照。      https://misakimichi.com/archives/2190
画像解説は、次のとおり。2本の親柱はこの年代、大手橋を渡った右側に保存展示されていたようである。
「欄干の柱頭に擬宝珠のついた大手橋から、連合大売出しでにぎわう新大工町商店街を見る。慶長年間
(1596〜1615)に大工職人が集まってできた町といわれているが、周辺の人口増加とともにその後は食料品・日用品などを売る町並みとなり、現在に至っている。(提供:長崎電気軌道株式会社)」

(2014年11月21日 追 記)
目録番号:5638「新大工町通り(1)」の中央部分拡大は、長崎大学附属図書館に依頼して、写真2の鮮明画像を入手したので差し替えた。なお、画像解説は後段に「写真中央を拡大すると大手橋の擬宝珠の欄干が見えることから、撮影場所は諏訪神社一の鳥居前と思われる。」と挿入し、対処したいとのことである。

この写真2を見ると、新大工町の奥は坂になっていて、左手に大きな建物が見えます。森田庄屋の跡地に建った長崎県尋常師範学校かもしれませんね。Wikipediaによると「 1889年(明治22年)5月 – 西彼杵郡長崎村馬場郷(現・長崎市桜馬場2丁目、長崎市立桜馬場中学校校地)に校舎を新築し移転」とあります。
もしその建物であれば明治22年以降に撮影されたことになります。「長崎古写真ライブラリー」の番組の中の写真説明にも明治20年代と書かれていたようでした。(以上は、入江氏見解)

高橋信一氏著「古写真研究こぼれ話—真実を求めて—」の新刊案内

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高橋信一氏著「古写真研究こぼれ話—真実を求めて—」の新刊案内

高橋信一氏(元慶応義塾大学工学部准教授)の新刊「フェイスブック版 古写真研究こぼれ話—真実を求めて—」が、2014年9月15日に渡辺出版から発行されている。
現在に残された貴重な古写真の数々 知られている人物・年代・撮影者などは 本当に正しいのでしょうか?

先生の研究には、長崎大学附属図書館が所蔵するテータベースの作品も、数多く取り上げられているから、大学側は真摯な対応をお願いしたい。135〜137頁には、調査に協力している私も紹介されている。
定価 本体2000円+税。購入申し込みは、ちらしを利用してください。

古写真展『古写真で見る 1874年、激動の長崎—県庁倒壊と科学の黒船』

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古写真展『古写真で見る 1874年、激動の長崎—県庁倒壊と科学の黒船』

長崎市立図書館イベント情報は、次のとおり。

古写真展『古写真で見る 1874年、激動の長崎—県庁倒壊と科学の黒船』を開催します!
古写真は彩り豊かな長崎の歴史を切り取った貴重な資料です。
その古写真を通して長崎の魅力をより多くの方に発見してもらいたいと思っています。
今回は長崎大学附属図書館の古写真コレクションの中から約100点を展示いたします。
開催期間中はオープニングセレモニーや姫野順一氏(長崎大学名誉教授)、松本直弥氏(特定非営利活動法人長崎県天文協会会長)、さるくガイドの川野さん達によるミニトークも開催予定です。
皆様のお越しをお待ちしております!!

主  催:長崎大学附属図書館・長崎市立図書館
日  時:8月27日(水)〜9月15日(月・祝)10時〜18時
(初日のみ10時30分開場) ※火曜日休館
場  所:長崎市立図書館 多目的ホール
申込・参加費:不要

ポスター「古写真展」(PDF:423 KB)
トークイベント スケジュール(PDF:99 KB)

きのう9月3日、写真展を観覧に行った。古写真の解説は、私も事前に協力しているので、あまり問題はなかった。ところが、玄関口にある長崎市立図書館が作成した明治20年代長崎のパノラマ(目録番号: 5615、5616、
5617 3枚続きパノラマ)の表示がおかしい。
梅香崎の長崎税関岸壁や、対岸側の身投崎・恵美須神社・稲佐崎と稲佐山や岩屋山の説明がない。「初代出島橋」も今、復元が課題となっている出島石橋の「表門橋」とまぎらわしい。

会場内の作品は、撮影禁止。入口に「あなたが選ぶ!長崎今昔写真No.1」という対比写真コーナーがあった。どなたがどれほど調査した結果だろうか。疑問に思う撮影地の写真が多い。堂々と公開し、トークイベントもされるようだが、市民に誤解を与えないような調査をお願いしたい。
後ろの写真が、私が調査している撮影地である。URLで参照。どこが違うか?、みなさんも考えてみてください。そのほか数点は疑問を感じた。主催者側でも、もう少し気をつけるべき問題だろう。

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4878 ドンの山(から)見た大浦居留地・出島
https://misakimichi.com/archives/1598 (データベースでは、目録番号:4878
長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 83 戸町の入江 ほか
https://misakimichi.com/archives/1621 (データベースでは、目録番号:3875
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 2863 大浦川沿い(2) ほか
https://misakimichi.com/archives/3248 (データベースでは、目録番号:2879