長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 151・152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む
「甦る幕末」のもう1冊の新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行から、気付いた作品の2、3点目。
136頁 作品 151:長崎・立神の丘より長崎港口を望む
〔画像解説〕
右手奥の岬は長崎の港口・女神、中央に浮かぶ島は高鉾島である。高鉾島はキリシタン時代の殉教地の1つで、長崎に来航したオランダ人はパーペンべルグ島(神父の島)とよんだ。左手の入り江は戸町の港である。
136頁 作品 152:長崎・立神の丘より長崎港口を望む
〔画像解説〕
中央・高鉾島の後方の大きな島は伊王島、すぐ左手は香焼島、そしてその前の小さな島はねずみ島。慶長15年(1610)、有馬晴信に攻撃されたマドレ・デ・デウス号は、高鉾島と伊王島の間で撃沈されている。
■ 確認結果
「甦る幕末」の2作品とも、長崎港口の「高鉾島」を撮影した古写真。長崎大学データベースにより”高鉾島”と検索すると、48点と多くある。上野彦馬撮影の目録番号:5321「高鉾島(26)」及び目録番号:5320「高鉾島(25)」と同じ作品である。
「甦る幕末」の作品 151 は、タイトルを「長崎・立神の丘より長崎港口を望む」としている。画像解説の「左手の入り江は戸町の港である」はそのとおり。「立神」は、長崎港を挟んだ「戸町」の対岸。撮影場所がタイトルのように「立神の丘より」となることはない。
「右手奥の岬は長崎の港口・女神」も「左手からの奥の岬」か。写真に写っているのは、女神の1つ前の中小造船所がある岬である。右手前の墓地上となる尾根は、マンション建設のため削られ、稜線が変わっている。
長崎大学データベースの目録番号:5321「高鉾島(26)」の解説どおり、撮影場所は「戸町の背後の山から」が正しい。具体的には「戸町の山手墓地(勝廊寺墓地)から」撮影されている。
作品 152 も、タイトルを一緒に「長崎・立神の丘より長崎港口を望む」としている。長崎大学データベースの目録番号:5320「高鉾島(25)」の作品。
同解説は「戸町の背後の山から長崎湾口を撮影したもの。写真中央の島が高鉾島。右の半島の先が神埼鼻、その向こうに神の島があり、その左の島が高鉾島」と説明している。
この作品の撮影場所は、検証が必要である。前の作品 151 と同じ「戸町の山手墓地から」撮影されたように思われるが、そうではない。
「神の島」や小さな「ねずみ島」が、高鉾島の右側に見える。左側からの「香焼島」や「伊王島」は、高鉾島ピーク上の高い水平線上に写っている。同じ「高鉾島」を撮影していても、高度感と光景がまったく違う写真だろう。
私の調査では、「星取山」(標高270.0m)山頂が、この写真の撮影場所と考えられる。戸町墓地背後のさらに高い山。上野彦馬はアメリカ隊金星観測の写真撮影に関わったことがある。
ベアトなどが星取山から長崎市街や港の方を撮影した写真もある。
( 参照 https://misakimichi.com/archives/1877 )
山頂一帯は現在、NTT長崎統制無線中継所や長崎市水道の巨大配水タンク場となって立入禁止である。周りは植林・雑木・竹が茂り、長崎港口方面の視界がきかない。
古写真と同じ「高鉾島」の光景を確認できないので、南東側の山腹「大正寺星取墓地公園」(星取2丁目)と、北西側「錦職寺墓地」(長崎霊園の上 出雲3丁目)からの写真を載せた。