諸 田 池 徳之島町諸田
サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。天城町役場の北方、天城交差点から右折して、県道80号により島の東側、徳之島町諸田まで行く。諸田または次の諸田池バス停から西側へ入ると「諸田池」に出る。
県道は諸田を過ぎると亀徳港に着き、夕方発のフェリー波之上により私は鹿児島新港へ戻った。
諸田池 しょだ
(大島)徳之島町(徳之島) 溜池 寛文10(1670) 町史跡 WEB(みさき道人) /WEB 現在、南西糖業・徳和瀬工場の冷却用水施設/製糖期が終わると水が抜かれる/堰堤部C補強 薩摩藩の新田開発奨励策により、代官・伊地知筑右衛門が築造/嘉永4年(1851)、代官所の命で井之川の役人達が自費で池を掘り直したとの記録あり 3 C
徳之島町HPによる説明は、次のとおり。
諸田池 史跡区分 史跡 所在集落 徳之島町諸田
諸田池は薩摩藩の新田開発奨励策にのっとって、寛文10年(1670)代官 伊地知 筑右衛門(いじち ちくえもん)の時に竣工しました。道の島(大島郡)で最初に施行された大事業でした。水面面積3町8反余(約3.7ヘクタール)の広さもあり、この貯水によって40町歩の田地が開発され、併せて諸田村に観音堂が初めて建てられました。これを機に藩の指導の下、島内全域で新田開発等が進められ、同時に農民の監視・指導にあたる横目といわれる島役人も配置されるようになります。また、1690年には沖永良部島にも新たに代官を置くなど、この頃から薩摩藩による離島支配の体制が徐々に変わっていきました。諸田池横のシキントウ墓に葬られている文書奉行 伊地知 重張(いじち しげはる。1692年死去)らによる系図や古史料調査・収集が始まったのもこのすぐ後のことでした。なお諸田池は周辺から土砂が流れ込み、貯水量が減ったことから、嘉永4年(1851)、代官所の命により井之川の役人たちが自費で池を掘り直したとの記録もあります。
現在、南西糖業徳和瀬(とくわせ)工場の冷却用水施設として使用される諸田池は、製糖期が終わると水が抜かれ、渡り鳥たちの格好の餌場となる浅瀬が広がるため、野鳥観察の場としても知られています。