九州(鹿児島県)」カテゴリーアーカイブ

清 浦 橋  入来町浦之名 ( 鹿児島県 )

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清 浦 橋  入来町浦之名

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。入来町の中心街から県道328号より南東に入来峠へ向かう。途中に清浦ダムがあり、左側上流の公園駐車場に入る入口の支流清浦川に架かる。対面の鋭鋒は、標高200mの猿子岳。

№595  清浦橋

入来町浦之名
清浦川
橋長:6.5m  橋幅:5.6m  径間:4.0m  拱矢:1.9m
架橋:昭和5年
猿子橋から県道395号線を西へ戻り、国道328号線へ、1.8Km南下。左下、清浦ダム入り口の公園入口に架かっています。

田中井堰の隧道  伊佐市菱刈田中 ( 鹿児島県 )

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田中井堰の隧道  伊佐市菱刈田中

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。国道268号により伊佐市菱刈の重富交差点次の先の市道角まで行き左折する。大口酒造(株)第2蒸留所を目指して進むと、田中橋バス停があり脇を流れるのが、田中井堰の用水路である。
水路をたどると、民家入口付近が随所に隧道となっている。隧道最長区間はこのあたりと地区で聞いた。水路奥の民家脇の小道を進むと、重留川から取水する田中井堰へ出る。近くに記念碑や改修碑があった。

田中井堰の隧道 たなか
伊佐市 重留川 素掘トンネル(水路) 長37m 宝永元(1704) 市有形 WEB C改修 田中・重留の水田に給水/断面:水路トンネルとしては最小規模 3 –

伊佐市HP「伊佐の文化資源」による説明は、次のとおり。

田中井堰及び隧道(たなかいぜきおよびずいどう)
校区 : 田中校区
田中井堰は通称「濱川井堰」とも呼ばれ、川内川の支流・重留川から取水し、田中・重留の水田約150㌶に給水している。宝永元年(1704)に石堰が築かれたのがはじまりで、以来、数度にわたって改修を重ね、現在は自動式の転倒堰になっている。
市指定文化財(平成15年9月18日指定)

高樋の里程標  姶良市西餅田 ( 鹿児島県 )

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高樋の里程標  姶良市西餅田

現地説明板は、次のとおり。姶良市役所近く国道10号宮島北交差点から北西に市道をまっすぐ進む。九州自動車道ガード下をくぐり、しばらくすると、西餅田で市道は左へカーブする。ここで中溝の水路を跨ぐが、右下流側に五社神社が見える。神社鳥居前にこの「高樋の里程標」がある。寸法は、23cm×23cm×90cm。

高樋の里程標
碑文には、「□鉄道重富停車場 壹里」とあります。最初の文字は不明ですが、「距」の字を当てると、「鉄道重富停車場(現在のJR日豊本線重富駅)を距ること一里(約4キロメートル)と読めます。
重富駅は明治34年(1901)鹿児島〜隼人間が開通した時に開設されました。明治42年には門司港駅から人吉経由鹿児島まで全線開通し、当時これを鹿児島本線と呼んでいました。
当時はまだ帖佐駅がなく(大正15年開設)、この道は重富駅と帖佐・山田を結ぶ幹線として、多くの乗合馬車や荷馬車が往き来していました。この碑は、明治34年以降に重富駅を利用する人々の目印として建てられたものです。
平成9年3月建立  姶良町教育委員会

中 溝  姶良市城下・西餅田ほか ( 鹿児島県 )

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中 溝  姶良市城下・西餅田ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。姶良市教育委員会によると、寛文4年に開削された新溝を、地元では中溝・下溝と区別して呼称している。
中溝となると、県道446号総合運動公園入口近くとなるファミリーマート城下店のところ(写真1〜4)、その下流側では、西餅田の五社神社のところ(写真5〜8)の水路が撮影に適するだろうとのことで訪ねた。

中 溝 なかみぞ
姶良市 恩川→別府川 用水路 長11㎞ 寛文4(1664) 市教委 C改修 薩摩藩第2代藩主・島津光久/重富・帖佐方面の灌漑用 3 C

この項は、本ブログ次も参照。
片子嶽隧道・跡、片子嶽隧道修理の碑、上溝・跡  姶良市平松
https://misakimichi.com/archives/5050

永野金山跡(胡麻目坑口跡)  さつま町永野金山 ( 鹿児島県 )

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永野金山跡(胡麻目坑口跡)  さつま町永野金山

鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」による説明は、次のとおり。山ヶ野金山跡から県道50号をさつま町中心部の方へ下っていた途中で見かけた。県道50号は永野で国道504号と合流する。

永野金山跡(胡麻目坑口跡)

寛永17年(1640年)に発見された永野金山は、昭和28年の閉山に至るまで多くの金銀を産出してきました(その歴史については、民俗資料館「ふるさと薩摩の館」に展示してあります)。金山が繁栄していたころの面影を残すのがこの坑口です。なお、鉱業館(金山の本部事務所)の館長として、西郷隆盛の長男「菊次郎」が明治42年から大正8年まで就任していました。

権太郎石  さつま町鶴田ダム公園 ( 鹿児島県 )

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権太郎石  さつま町鶴田ダム公園

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道404号などにより鶴田ダムへ行く。左岸を進むと、大鶴の森先に石倉橋があり、橋を渡ってしばらく行った県道左側に「権太郎石」はある。
”おおつる湖情報マップ”の案内板やパンフレットは、石倉橋手前に「⑪権太郎石」を表示しており、場所間違いである。「権太郎」の刻名は、大雨のため私の確認忘れ。

権太郎石 ごんたろう
(薩摩)さつま町 川内川流域県立自然公園/鶴田ダム左岸県道沿い 石碑 天保13(1842) 町史跡 WEB ダム建設のため水没するので、昭和39に割りとって、130m上部に引き揚げて保存した (正面)「山本とりを浪の徒といて/沖せ急流尓して大石/阿末多阿りしを小野村能/権太郎よく水を/せきて/其石/王り能楚き阿類いハ/末きとりて/通船するよう奈し/た里ける尓て其/よし志類しお久/奈り」/川内川の川浚え工事(藩施工: 上流の菱刈・大口地方の年貢米を舟で運べるようにしたもの)の際、現地の岩に刻んだもの/川浚え工事を指揮した石工・福山権太郎が、焼石工法により川底を逐次掘り下げていったとされる→「権太郎石」の名前の由来 2 B

なお、鶴田ダムは再開発事業のため堤頂道路は、平成28年3月末まで通行禁止となっていた。広域農道川薩グリーンロードまで戻り、川内川第二ダム側に迂回して県道404号に入る。

山ヶ野金山火入坑・跡  霧島市横川町上ノ ( 鹿児島県 )

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山ヶ野金山火入坑・跡  霧島市横川町上ノ

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道40号霧島市横川町二石田から県道50号に入り、古城から山ヶ野郵便局の方へ入る。山ヶ野金山跡へ下り、史跡案内図により集落の北西側山手へ上がって行くと、火入れ坑・跡がある。
山﨑邸跡の前からまだ左上へ車道を進んだ谷奥に火入れ坑跡、右へ歩いて入ると自稼掘坑跡。

火入坑・跡 ひいれ
霧島市 <山ヶ野金山> 坑道 17世紀末以降 市史跡 WEB 坑口を格子で封鎖/ここ以外はすべて明治期の施設 開坑時期は不明だが、金山開発の早い時期に開かれたと推定される(堅い岩盤→火を焚いて岩をもろくして掘り進んだことに因んだ命名か?) 2 B

山ヶ野金山谷頭精錬所跡  霧島市横川町上ノ ( 鹿児島県 )

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山ヶ野金山谷頭精錬所跡  霧島市横川町上ノ

山ヶ野金山史跡めぐりパンフレットによる説明は、次のとおり。所在場所は史跡案内図のとおり。

谷頭精錬所跡 
島津忠義は、鉱業の振興を図るため明治10年(1877年)フランスの鉱山技師ポール・オジェを招き、この場所に製錬所を設置した。動力は蒸気機関で、昼夜搗鉱(とうこう)精錬作業が行われた。だが、いろいろ問題がおこり思わしくいかず、明治13年ポール・オジェは、当山を去ることになる。以後、従来の方法により島津直営の作業が行われた。明治40年(1907年)永野に電力よる一大製錬所が完成、運転開始とともに、この製錬所は操業を停止した。

山ヶ野金山自稼掘坑  霧島市横川町上ノ ( 鹿児島県 )

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山ヶ野金山自稼掘坑  霧島市横川町上ノ

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道40号霧島市横川町二石田から県道50号に入り、古城から山ヶ野郵便局の方へ入る。山ヶ野金山跡へ下り、史跡案内図により集落の北西側山手へ上がって行くと、自稼掘坑がある。
案内図に場所説明はないが、火入れ坑に向かう途中、山﨑邸跡下から標識により右手へ入る。谷頭精錬所跡の上付近。

自稼掘坑 じかせぎぼり
霧島市 <山ヶ野金山> たぬき掘り 17世紀末以降 市史跡 市教委/WEB 当時のまま/ここ以外はすべて明治期の施設 明暦2(1656)の金山再開後すぐの露天掘り後に行われた、自稼請負によるたぬき掘りの跡(小規模断面の坑口で鉱脈だけをえぐって採るすかし掘り)/17世紀半ば頃の山ヶ野金山は、佐渡金山と並んで全国屈指の産金量を記録した 1 B

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

山ヶ野金山
山ヶ野金山(やまがのきんざん)は、鹿児島県霧島市とさつま町の境界付近にあった金および銀の鉱山である。1640年に発見され一時期は佐渡金山をしのぐ日本最大の産金量を誇ったが1965年に閉山した。永野金山あるいは長野金山とも呼ばれる。総産金量は2001年の時点で日本国内第7位の28.4トンである。

歴史
金山開発までの経緯
山ヶ野付近の山中に鎌倉時代のものと推定される坑道跡があり、古くから採鉱されていたと考えられているが当時の記録は残されていない。江戸時代初期、宮之城郷佐志村(現在のさつま町佐志)の川で金鉱石が発見されたことから当時の薩摩藩藩主島津光久が金鉱脈の探索を指示した。光久の家臣であり宮之城領主であった島津久通は、石見銀山に務めた経歴のある内山与右衛門を呼び寄せて探索にあたらせ、2-3年後に金鉱脈が発見された。

記録によれば発見の経緯は以下の通りとされる。久道は紫尾神社で得た神託を頼りに自ら探索を開始し、薩摩国伊佐郡長野郷長野村(現在のさつま町永野)の宍焼口と呼ばれる地区の河原で金鉱石を発見し、さらに上流へと進み山中で野宿した。この時に久道が「赤牛が寝たような形の岩が金である」という夢のお告げを得て翌朝の1640年5月12日(寛永17年3月22日)、夢と同じような形の岩を発見し金鉱脈にたどり着いたという。この経緯にちなみ野宿した場所は夢想谷と名付けられた。しかしながら当時の状況から実際の金鉱脈発見者は与右衛門であり、久通に手柄を譲ったという見方もある。

1641年(寛永18年)、薩摩藩は長野村の金鉱脈発見を江戸幕府に報告するとともに、金山を幕府に差し出すことを提案した。但し、この提案は形式的なものであり事実上は単なる採掘許可の申請であった。翌1642年(寛永
19年1月)、幕府は採掘を許可し薩摩藩に経営を任せると回答している。後になって金鉱脈の位置は実際には長野村ではなく大隅国横川郷上之村山ヶ野(現在の霧島市横川町山ヶ野)であることがわかったため山ヶ野金山と呼ばれるようになった。但し、このことが明らかになったのは幕府に長野村と報告した後であり、薩摩藩は幕府に疑念を抱かせることを恐れて公式には長野金山の呼称を使用している。

初期の金山
金鉱脈付近には肉眼で金鉱石とわかる岩が地表に散乱している有様であったため初期の採掘は露天掘りであった。金山の周辺は柵で囲われ、東西に番所が設けられ出入りする人々は検分を受けなければならなかった。またたく間に2万人余りの作業者が集まり150ヶ所の採掘地と15ヶ所の選鉱所がつくられ金の産出が始められた。しかしながら採掘開始から1年を待たずに幕府は採掘の中止を命じた。理由は寛永の大飢饉への配慮とされたが、実際には産金量の多さに驚いた幕府が薩摩藩の強大化を警戒したためという見方もある。採掘中止の命令は1656年(明暦2年)まで続いたが、この間も秘密裏に採掘を継続していたことを示す記録が残されている。

正式に採掘が再開されると金山は再び活気を取り戻した。金山周辺には約1万2千の人々が集まり、作業者の住居や商店が建ち並ぶ町がいくつも形成された。田町と呼ばれる遊郭もつくられ「西国三大遊郭」の一つに数えられるほどであったという[1]。やがて表層部の金鉱石が採り尽くされると、地面を深く掘削する方法に切り替わっていった。金鉱脈に沿って掘削された長い溝の跡が今でも残されている。続いて坑道を地中に伸ばす方法へと移行し次第に採掘が困難になっていったが、それでも宝暦から文政年間(1751年 – 1829年)においては佐渡金山を上回る産金量を誇っていた。金山は薩摩藩にとって重要な資金源の一つとなり、借金の返済や幕府役人への心付け、天降川下流部の流路変更、新田開発工事などに利用された[2]。

近代化
1867年(慶応3年)、薩摩藩はフランス人技師のコワニエを招き、彼の助言に従って金鉱山の近代化が始められた。それまでの椀がけ法に代わって水銀を用いるアマルガム法が導入され金の回収率向上がはかられた。また、水力や蒸気機関も導入された。1877年(明治10年)にはフランス人技師のポール・オジェが招かれ竪坑の掘削や輸送用道路の整備などが進められた。1904年(明治37年)から1912年(明治45年)にかけて鉱山館長を務めた五代龍作は、シアン化カリウムを用いる青化法を導入し金の回収率向上を図り、設備の電化を行うことで採掘・精錬能力を向上させた。1907年には電力供給のため下流の天降川に水天淵発電所が建設されている。また、精錬所を山ヶ野から永野(旧長野)へ移転させ輸送の効率化も行われた。永野精錬所と名付けられた新しい精錬所は最盛期において1000名以上の従業員を抱える鹿児島県内有数の大企業であった。

閉山
1943年(昭和18年)、太平洋戦争の激化に伴って、金鉱山整備令により不要不急産業の指定を受けて休山することになった。戦後、1950年(昭和25年)に再開されたが新たな鉱脈は見つからず1953年(昭和28年)に再び休山状態となった。1957年(昭和32年)7月から島津興業が試掘したものの再開には至らず1965年(昭和40年)に閉山となった。

地質
山ヶ野金山は北薩火山群のひとつである国見岳の南西麓に位置する。四万十層群と呼ばれる地層を基盤とし、主として安山岩からなる火山噴出物や永野層と呼ばれる湖底堆積物の地層が積み重なっている。鉱脈は主として中新世に噴出した大良火山岩と呼ばれる安山岩の中に膜状あるいは線状の形で含まれている。鉱脈は東西方向に多数走っており、最大のものは長さ1800メートルに及ぶ。岩石の割れ目を高温の地下水が通過する際に溶解しているシリカや金属を析出させ、長い時間をかけて鉱脈が形成された熱水鉱床である。[3]

参考文献
・浦島幸世 『かごしま文庫10 金山 – 鹿児島は日本一』 春苑堂出版、1993年、ISBN 4-915093-15-8
・橋口兼古、五代秀堯、橋口兼柄 『三国名勝図会 巻之41』 1843年
・横川町郷土誌編纂委員会編 『横川町郷土誌』 横川町長羽田哲、1991年
・吉田陞 『山ヶ野金山物語』 高城書房、1997年、ISBN 4-924752-68-1

恵比須橋  霧島市横川町上ノ ( 鹿児島県 )

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恵比須橋  霧島市横川町上ノ

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。県道40号霧島市横川町二石田から県道50号に入り、古城から山ヶ野郵便局の方へ入る。山ヶ野金山跡へ下って行くと、恵比須堂の四つ角にこの石橋がある。
コンクリート拡幅されているが、下部はアーチ式石橋と確認できる。

№498  恵比須橋

霧島市横川町上ノ 下本町
天降川支流
橋長:6.5m  橋幅:3.4m  径間:5.5m  拱矢:2.4m
外佐牟田太鼓橋より1.4Kmに架かっています。