片子嶽隧道・跡、片子嶽隧道修理の碑、上溝・跡 姶良市平松
サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。姶良市重富から県道57号に入り、平松交差点まで行く。片子岳は標高144mの特異な形の山(写真1〜2の水路は、別水系の山下用水)。片子嶽隧道・片子嶽隧道修理の碑・上溝は、姶良市資料「新田開発と水路」のとおり、片子岳の東南にあったが、荒れた山中となって地元重久氏の案内でやっと辿りついた。
上溝は廃路となり、戦時中、集落に近い隧道を防空壕代りにしたと言うから、だいぶん以前の話である。場所的には、姶良市平松のコンクリート製品「インフラテック(株)姶良工場」(帰りにここに出て構内を通らせてもらった)背後の山中中腹となるが、水が流れない隧道跡(山を貫く長い隧道の吐口跡は、写真4〜6)、隧道修理の碑(写真7〜9)、平松側の上溝水路跡(写真10〜12)を確認できた。隧道修理の碑は風化し判読不能。脇にも小さな碑があったが、台座だけが残ってどうなったかわからないらしい。
中溝は姶良市資料から市街地となった俵原あたりと思われるが、FAX資料が不鮮明。場所を特定できす、時間がなく訪ねなかった。
片子嶽隧道・跡 へんこだけ
姶良市 上溝 素掘トンネル(水路) 長200m以上 文禄2(1593) 市教委 非現役/写真は吐口 下記の「片子嶽隧道修理の碑」で、トンネルが200m以上にわたり崩れたとあるので、全長はそれ以上 2 C
片子嶽隧道修理の碑 へんこだけ
姶良市 片子嶽隧道 石碑 享保11(1726) 姶良町教委 (正面)「夫隅州姶羅郡帖佐 平松村及餅田村新田往昔辺河嶽穿為用水溝 其貫中有/土岩凡百□□三間 上石時々隧而水没 故以材木其危年々停財用人夫之隙/勝難計且究意之□若有破損者田民患不少 今亦新貫掘者其□□山如仰費□/而永令□輙□□日合議之末□加治木石工竹内藤左衛門尉呼談日貫左右石/塁以割石成 天井者六尺五寸一尺二寸角 加治木自蔵王嶽取之万代不易而/有何煩則為之入用看算而以許之上応如響 中江氏藤原員倫奉之今歳丙午仲/夏吉辰工発既至今日 速成就之以国民令快楽云耳 是則吾邦君分内石貫之/始成」/享保11、トンネルが200m以上にわたって崩れたので、中江員倫が工事奉行として、長1.9m(36㎝角)の石材を用いて修復した際の記念碑 1 C
上溝・跡 うわみぞ
姶良市 恩川→別府川 用水路 文禄2(1593) 市教委 非現役/写真は平松付近 島津氏による富国強兵の根幹としての水田化のための疎水開削 2 B
中溝 なかみぞ
姶良市 恩川→別府川 用水路 長11㎞ 寛文4(1664) 市教委 C改修 薩摩藩第2代藩主・島津光久/重富・帖佐方面の灌漑用 3 C