中津野用水路 姶良市下名
サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。姶良市の北部、県道42号山田口から県道391号に入り、姶良市立山田小中学校の校庭前まで行く。水路に沿い右手吉田川へ出ると中津野用水路の取水口と顕彰碑がある。
用水路には9つの隧道がある。取水口から下流側に主なものを辿ってみた。
中津野用水路 なかつの
姶良市 山田川 用水路、隧道(9ヶ所) 長約4㎞ 宝暦2(1752) WEB(みさき道人)/WEB C改修/隧道部は当時のまま 地形上、水が得られず貧しかった中津野に住む15歳のユキエが、山田川対岸の女生嶽から見て、山田から水路を造ると中津野に引水できることに気付き大人に提案して工事が始まった。農繁期になると協力者が減り、ユキエが1人で工事を続行したが、1人で努力する姿を見て再び協力が始まり宝暦2に竣工。ユキエは、その利発さを怖れられ山中で殺害されたとされる。ユキエの家族は、この功績により水口の姓を与えられ、水守となった→国内で他に例のない美談と悲話 1-4 B
ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。
中津野用水路
中津野用水路(なかつのようすいろ)は、鹿児島県姶良市で別府川の支流山田川から取水して山田、中津野地区を灌漑(かんがい)している、全長約4kmの用水路である。山田の山下井堰から取水され、9つのトンネルを通り山田の32ヘクタール、中津野の34ヘクタールに水を供給している。
歴史
姶良町の中津野地区(当時は帖佐郷)は、別府川の支流山田川と蒲生川が合流する地点で、地区の両側を川が流れていたが、川より高い位置に土地があるために水を引くことができず、水田がなく稲作は陸稲で、他は畑作農業であった。このために貧しく、中津野というだけで嫁が来ないというほどであったという。
中津野に生まれた水口ゆきえ(女性、当初は苗字なし、当時15歳)は、山田川対岸の女生嶽(にょしゅだけ、
128.8m)の上から見て、山田から水路を造ると中津野に水を引ける事に気付き、熱心に村の大人に提案して工事が始まることになった。しかし農繁期になると次々に協力者が抜けて、最後にはゆきえが1人で工事を続行した。完成が近づくと再び協力が始まり、1752年(宝暦2年)についに完成し、中津野に水田を作ることができるようになった。
しかし、これほど利発な娘は将来何をしでかすか分からないと恐れられ、権力者側により山の中で殺害された。同年12月、有志により水口邸の一角に祠が作られて祀られ、これは現存している。法名は「正孝坂童子位」で、「正しく孝行の子、土地の勾配を見出した」という意味であるが、本来は男子の法名である。
水口家は、この工事の功績により水口の姓を与えられ、代々水守の仕事をしてきた。
1951年(昭和26年)4月15日、水路の取水口に彼女の功績を顕彰する碑が立てられ、1974年(昭和49年)5月に墓が姶良町の文化財に指定され、今なお地元住民から称えられている。
参考文献
・高橋ちえこ「ゆきえ」高城書房 ISBN4-924752-72-X 1998年
・姶良町郷土誌改定編さん委員会「姶良町郷土誌」平成7年10月増補改訂版 1995年