月別アーカイブ: 2012年7月

人面岩?  長崎市北浦町赤崎鼻

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人面岩?  長崎市北浦町赤崎鼻

茂木港の左に見えるのが、赤崎鼻。北浦町の海岸道路から海岸へ降りて歩く。旧長崎南商高下を通り、赤崎鼻まで25分はかかる。地蔵と不動明王が立つ岩礁は、海上保安庁水路部の測点となっている。
人面に見える岩は、赤崎鼻の絶壁をなす下部。大潮のときしか歩けないので、注意して行く。

このあたりが野母崎に次いで、福井県立恐竜博物館と長崎市科学館が本年3月、長崎市北浦町の海岸で、白亜紀後期(約8400万年前)の草食恐竜の化石を発見したと発表した場所であろうか。発掘した場所を探したが、わからなかった。赤崎鼻には戦時中の遺構も残る。
http://www.asahi.com/science/update/0312/OSK201203120062.html
岩を割ったような場所は、赤崎鼻のまだずいぶん手前で見た。

絵画ロード?  長崎市田中町卸センター

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絵画ロード?  長崎市田中町卸センター

長崎市田中町の長崎卸センター内を通った。殺風景な団地幹線道路の側壁が絵画ロードになっていた。いいねー、こんな企画。HPに次の記事があった。
現在展示の20点全部を紹介したいが、その一部である。

第3回長崎卸センター絵画ロード事業「お絵かきコンテスト」公開イベント
· NOCS長崎卸センターサービス株式会社さん作成.
2012年7月27日.18:00.. 〒851-0134 長崎県長崎市田中町1201
組合会館にて地域の小学生以下を対象に、クレヨン・絵の具でのテーマ自由の絵を描いていただき、優秀作品5点ほどを、3m弱角のアルミ板に焼き付け、団地幹線道路の側壁に展示する企画です。過去2回の実施で、すでに20枚近い絵画が展示されています。

区−H 田川内公民館裏  (確認 長崎要塞区域標 第三十四号)

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区−H 田川内公民館裏  (確認 長崎要塞区域標 第三十四号)

東長崎の田川内公民館裏の敷地で、「長崎要塞区域標」が新たに見つかった。知らせてくれたのは、長崎市田中町中尾地区の松尾氏(長崎市農業委員)である。
区−I 中尾尾根の「長崎要塞区域標 第三十二号」は、同松尾氏の記憶により、平成18年1月発見したいきさつがあった。本ブログでは掲載略。研究レポートには第2集155頁に載せている。

中尾ダム大橋を渡り、中尾中央公民館前をまっすぐ進む。城戸岩の次に県営バス「公民館前」バス停がある。田川内山神社の参道と駐車場右が「田川内公民館」。大正時代建てられた公民館を取り壊し、現在、建て替えるため更地となっている。
2段となった敷地の奥角に「長崎要塞区域標」があった。先日、山神社の例祭に行った松尾氏が、車から降りたとき発見し連絡してくれた。

きょうすぐ確認に行くと、「第三十四号」である。松尾氏の話では、公民館の前はここに精米所があった。標石は移設されたようでもあり、なぜここにあるのか詳細が不明。建物が解体されて、裏にあることがやっとわかった標石である。
長崎要塞地帯略図から田川内に目星をつけ、私は以前に一帯や山間部をだいぶん探したことがあった。見つけきれなかったはずである。略図上は田川内であるので、一応「区−H」の標石として整理しておく。 

「第三十四号」は、写真のとおりの標石。後側の石垣との間は、ブロックを立てている。上面に小さな四角の加工溝がある。建物の土台石に使用された形跡がある。唐古でもその例はあった。
手前に横倒しになって折れた石柱の一部も不思議。「月十日?」「省」の刻みがあるので、これも別番号の「長崎要塞地帯標」ではないだろうか。石材と大きさが違う。更地全体を探しても、この上部の石柱かけらは見当たらなかった。
新公民館を更地に建てると、奥の標石はまたわからなくなる。車道やバス停からすぐ見えるよう、山神社参道石段左の植え込みに移設するよう要望してきた。

長崎の古写真考 目録番号:6248 オランダ人(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6248 オランダ人(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6248 オランダ人(2)
〔画像解説〕  ボードインコレクション
なし  

目録番号:6285 出島スタジオでのA.F.ボードインとハラタマ
〔画像解説〕  ボードインコレクション
出島のスタジオで写されたボードイン博士とハラタマ博士です。ユトレヒト陸軍軍医学校でボードインの同僚であったハラタマは慶応2(1866)年の4月に長崎の分析窮理所教師として着任しました。ボードイン博士のもと精得館と名前を変えた養生所で調剤と病院監督に従事し、分析窮理所で化学・物理学・薬物学・鉱物学・植物学などの自然科学を講義しました。 -6285-

■ 確認結果

目録番号:6248「オランダ人(2)」は、目録番号:6285「出島スタジオでのA.F.ボードインとハラタマ」に写った、ボードイン博士の同僚「ハラタマ博士」ではないだろうか。
髭や洋服は違うが、顔つきから可能性として考えられる。

長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム」長崎文献社
2011年発行による解説は、次のとおり。

17頁   21  オランダ人②
撮影者、人物ともに不詳。椅子の形やぼかしの技法から上野彦馬の撮影とする説もあるが、彦馬がこのような厚い洋書をスタジオに常備していたと考えにくい。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/217mm×166mm  目録番号/6248

12頁   12  出島スタジオでのA.F.ボードインとハラタマ
出島の私設スタジオで写されたボードイン博士(左)とハラタマ博士(右)である。ユトレヒト陸軍軍医学校でボードインの同僚であったハラタマは慶応2(1866)年3月2日に長崎の分析窮理所教師として着任した。ボードイン博士のもと、精得館と名前を変えた養生所で調剤と病院監督に従事し、分析窮理所で化学・物理学・薬物学・鉱物学・植物学などの自然科学を講義した。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1866年頃
サイズ/179mm×115mm  目録番号/6285

長崎の古写真考 目録番号:6292 出島スタジオのコロエス (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6292 出島スタジオのコロエス (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6292 出島スタジオのコロエス
〔画像解説〕  ボードインコレクション
カピタンハウスの門の前と思われる場所で撮影された二人のオランダ人です。左の人物はD.T.クロエス(タイトルは「コロエス」?)であることが分かっています。写真撮影のためでしょうか、チョッキに蝶ネクタイをつけた正装です。ここに写されているテーブルは出島スタジオの写真にたびたび登場します。 -6292-

■ 確認結果

目録番号:6292「出島スタジオのコロエス」は、長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム 外国人が見た幕末長崎」2011年発行の16〜17頁に掲載されている。同解説は次のとおりで、人物名は「D.T.クルーズ(右)」と「E.ピストリウス(左)」が正しいとわかった。
https://misakimichi.com/archives/3251

18 クルーズとピストリウス
オランダ領事館の門の前と思われる場所で撮影されたオランダ人。D.T.クルーズ(右)とE.ピストリウス(左)である。このテーブルは出島スタジオ写真にたびたび登場する。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/135mm×120mm  目録番号/6292

今回、古写真考とするのは撮影場所。「カピタンハウス」や「オランダ領事館」の門の前と思われる場所で撮影されたと説明している。
もちろん出島内のことで、仮設の「出島スタジオ」ではない。ボードイン博士や弟、A.J.ボードイン領事は、出島のオランダ領事館(旧商館長の邸宅)に住んでいた。

データベースには見当たらないが、撮影場所の同じ写真が、朝日新聞社「写真集 甦る幕末」
1986年発行177頁に掲載されている。
解説は「兄のボードワン医師(中央)と弟の領事(右下)ら」。これ以外の説明がない。
詳細は不明だが、同じ撮影場所であろう。目録番号:6292が同じ時の写真か、また「上野彦馬撮影」との解説(甦る幕末)もあり、正しく調べてもらいたい。

長崎の古写真考 目録番号:6265 僧侶たち(8) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6265 僧侶たち(8) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6265 僧侶たち(8)

目録番号:6198 二人の水兵

目録番号:6194 侍たち(2)

目録番号:6202 A.J.ボードイン他4名

■ 確認結果

目録番号:6265「僧侶たち(8)」など4作品は、データベースのボードインコレクションにあるが、「画像解説」はいずれもない。
長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム 外国人が見た幕末長崎」2011年6月発行に同じ写真が掲載されている。同解説は次のとおり。

42頁  46 悟真寺の僧侶たち
慶応元(1865)年頃、稲佐悟真寺のオランダ墓地をボードインが参拝したときに応接した僧侶達。悟真寺の第16代目住職、膽誉卯月(たんようげつ)和尚(中央)と4人の若い僧。袈裟を着けているので参拝後の撮影。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/154mm×200mm  目録番号/6265

84頁  71 二人のロシア士官
氏名不詳。上野彦馬のスタジオで撮影された若いロシア人の海軍士官たち。
撮影者/上野彦馬  撮影年/1866年頃
サイズ/153mm×109mm  目録番号/6198

84頁  72 侍たち
氏名不詳の武士たち。アルベルトの客であったどこかの藩士と思われる。上野彦馬のスタジオで撮影されている。
撮影者/上野彦馬  撮影年/1866年頃
サイズ/118mm×136mm  目録番号/6194

85頁  73 A.J.ボードインとオランダ通商会社の同僚
上野彦馬のスタジオで撮影されたA.J.ボードイン(前列右)および友人のクルース(前列左)とオランダ通商会社(NHM)の同僚たち。
撮影者/上野彦馬  撮影年/1867年頃
サイズ/255mm×304mm  目録番号/6202

長崎大学附属図書館がボードインアルバムの写真集を発行するのは良いが、写真集だけ内容を変更し、本来のデータベースをいつまでもそのままで公開しているのは、いかがなものだろうか。データ管理体制に問題がある。
前の記事に続き、一例としてこれらを載せる。きちんとした研究内容を公開してもらいたい。
同写真集の疑問点などは、次にも指摘している。
https://misakimichi.com/archives/2880

長崎の古写真考 目録番号:6292 出島スタジオのコロエス ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6292 出島スタジオのコロエス ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6292 出島スタジオのコロエス
〔画像解説〕  ボードインコレクション
カピタンハウスの門の前と思われる場所で撮影された二人のオランダ人です。左の人物はD.T.クロエス(タイトルは「コロエス」?)であることが分かっています。写真撮影のためでしょうか、チョッキに蝶ネクタイをつけた正装です。ここに写されているテーブルは出島スタジオの写真にたびたび登場します。 -6292-

目録番号:6203 オランダ人と日本人町人たち
〔画像解説〕  ボードインコレクション
なし

目録番号:6294 ピストリウス
〔画像解説〕  ボードインコレクション
なし

■ 確認結果

目録番号:6292「出島スタジオのコロエス」は、データベースのボードインコレクション「画像解説」どおりと思われるが、同じ写真が朝日新聞社「写真集 甦る幕末」1986年発行200頁に掲載されている。
タイトルは「外国人(氏名不詳)。(上野彦馬撮影)」となっている。どちらが正しいのであろうか。いずれにしても、撮影地域は「長崎」であろう。タイトル氏名は要確認。
この項は、次も参照。  https://misakimichi.com/archives/2479

左のオランダ人は、目録番号:6203「オランダ人と日本人町人たち」と、同一人だろう。これは上野彦馬スタジオ撮影か。両作品とも撮影者を調べてもらいたい。
この後わかったが、目録番号:6292「出島スタジオのコロエス」は、長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクションⅡ ボードインアルバム 外国人が見た幕末長崎」2011年発行の16〜17頁に掲載されていた。同解説は次のとおり。

18 クルーズとピストリウス
オランダ領事館の門の前と思われる場所で撮影されたオランダ人。D.T.クルーズ(右)とE.ピストリウス(左)である。このテーブルは出島スタジオ写真にたびたび登場する。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/135mm×120mm  目録番号/6292

20 ピストリウス
オランダ貿易会社(NHM)におけるA.J.ボードインの部下。長崎で領事に任命されたアルベルトおよび兵庫で副領事に任命されたコルトハルスと同じ時期の、明治元(1868)年1月から大阪の副領事を務めた。
撮影者/A.F.ボードイン  撮影年/1865年頃
サイズ/102mm×67mm  目録番号/6294

目録番号:6294「ピストリウス」があり、左の人物は、オランダ貿易会社(NHM)におけるA.J.ボードインの部下「E.ピストリウス」だった。右の人物が正しくは「D.T.クルーズ」。
ボードインアルバムの写真集だけ変更し、本来のデータベースをいつまでもそのままの内容で公開しているのは問題がある。

多良山系の平谷越・経ヶ岳・岩屋越縦走  2012年7月

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多良山系の平谷越・経ヶ岳・岩屋越縦走  2012年7月

2012年7月8日(日)快晴。多良山系の平谷越・経ヶ岳(標高1075.7m)・岩屋越縦走。参加9人。みさき道歩会の例会。7月1日(日)が雨のため延期して実施。
長崎7:30発 奥平谷8:30—馬の背9:44—千年樫10:20—平谷越11:10—経ヶ岳11:50 昼食 12:40—つげ尾13:10—釜伏山14:40—岩屋越16:20—奥平谷17:50(徒歩距離 約12km)

多良山系全山を小分けして縦走中。各登下山路の最近調査もある。野岳湖の方からは岩屋越まで済んでいたから、今回は平谷黒木トンネルを出た佐賀県側の奥平谷から平谷越に上り、経ヶ岳・釜伏山へと(逆)縦走、岩屋越から奥平谷へ戻った。

梅雨の晴れ間。絶好の登山日和となった。しかし、ここも起伏の大きいハードなコース。私がヘトヘトとなったタイムで参考とならない。最後の写真は、帰りに萱瀬ダムから見た今回の縦走連山。右端が多良山系の最高峰「経ヶ岳」。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29828698.html

長崎外の古写真考 目録番号: 3427 井戸水を汲む侍

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 3427 井戸水を汲む侍

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 3427 井戸水を汲む侍

■ 確認結果

データベースの目録番号: 3427「井戸水を汲む侍」は、長崎大学附属図書館HP「幕末・明治期の古写真仮想展示会」にも掲載されている。
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/search/ecolle/kaso/

平成7年度から平成9年度にかけて、国立大学図書館協議会の公開事業として、長崎大学附属図書館に所蔵している「古写真」の全国巡回展示会が行われた。
全国巡回展示会の展示物で、「さまざまな風俗」の中にこの作品があり、次のとおり解説している。したがって、目録番号: 3427「井戸水を汲む侍」は、〔撮影地域:横浜〕だろう。
掲載を略したが上記関連から、2・3・4枚目も「横浜」での撮影写真と思われる。

ステレオ・カードにみる幕末横浜の風俗

1枚目は裏面にフランス語で「横浜の習慣、水汲みをする奉公人、日本」と手書きされている。横浜を写した最も古い写真のなかの一枚。 (目録番号: 3427「井戸水を汲む侍」)
2枚目は裏に「日本人婦人、子供と乳母、日本」と英語印刷されている。日本人の育児をヨーロッパに伝えるもの。 (目録番号:3416「母子と乳母」)
3枚目は裏面に「日本人の武士」と英語印刷されている。 (目録番号:3417「甲冑を着けた武士(2))
4枚目は「神奈川の副領事館における西欧の婦人と日本人従者たち」とある。外国人女性はG.R.ジェンキンス医師の夫人か。 (目録番号:3426「副領事夫人と従者たち」)

長崎の古写真考 目録番号: 2863 大浦川沿い(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 2863 大浦川沿い(2) ほか

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 2863 大浦川沿い(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
大型アルバムから解かれた1枚である。キャプションにG61.OURA NAGASAKIとあるので、小川の写真の一枚である。大浦川の両岸沿いを川上の高台から撮ったものである。居留地最後の雰囲気を細かに観察できる。右手の大浦14番付近が建て変わり、松ヶ枝の波止(川口左)に明治31年(1898)建設の税関派出所(現長崎市立民俗資料館別館、国指定重要文化財)が見えるから、撮影は30年代の始め。川が狭まる左岸の川上4棟(下り松35甲乙、34甲乙)までが居留地で、人力車が止まっている、英語看板の見える和風家屋は日本人の商店であった。川口の下り松42番は角地で機械のテレシン商会と船具のアダムス商会など多くの商店が入居していた。各商店の構え、街灯、サンパン、屋根、材木置き場、洗濯干し、弁天橋(上流)と松ヶ枝橋(下流)、散見する人物など、拡大すると、細部が見えてくる。中央の松は下り松の地名の由来となった。その左にある妙行寺の建物が鮮明である。

目録番号:2879 大浦川沿い(3)
〔画像解説〕  超高精細画像
一枚ものでA147 AT OURA NAGASAKIと小川一真のキャプションが印字されている。これは目録番号2863(整理番号58-4)と同じ時期に、大浦川沿いをより上流の現北大浦小学校下の斜面から撮影している。この方が少し後である。川口の弁天橋と松ヶ枝橋は明治22年(1889)に架け替えられた木鉄混交のトラスト橋。明治26年(1893)10月に大浦32番Aに新築される孔子廟はまだ見えないので撮影時期は明治20年代中頃。大浦地区の裏側が空洞化している。漆喰が鮮やかな日本家屋の屋根と入母屋造りの洋館の屋根と対照的である。左大屋根の妙行寺の後には、屋根が口の字に繋がったベルビューホテルが見える。さらに左手隅には大浦天主堂の尖塔の先も写っている。海上には石炭燃焼の蒸気エンジンと帆柱の両方を備えた気帆船が多い。対岸にも多数の船が停泊する船溜を確認できるが、その横には三菱長崎造船所の外国人宿舎と、飽の浦および立神の工場群が写し出されている。

目録番号:3794 大浦川沿い(4)
〔画像解説〕
東山手居留地南端の高台から、大浦川右岸の大浦居留地と左岸の下がり松居留地を見たもの。下がり松地区には家並みが整然としている。居留地と日本人地区との関係が分かる写真。大浦川には明治22年に架設された松ヶ枝橋と弁天橋が見えている。3856と同じ。

目録番号:3856 大浦川沿い(5)
〔画像解説〕
東山手居留地南端の高台から、大浦川右岸の大浦居留地と左岸の下がり松居留地を見たもの。下がり松地区には家並みが整然としている。居留地と日本人地区との関係が分かる写真。大浦川には明治22年に架設された松ヶ枝橋と弁天橋が見えている。3794と同じ。

目録番号:6138 大浦川沿い(9)

目録番号:6720 大浦川沿い(10)

■ 確認結果

データベースにある大浦川沿いを撮影した6作品。目録番号: 2863「大浦川沿い(2)」と、目録番号:2879「大浦川沿い(3)」以下5作品は構図が少し違うが、キャプションの画像解説などから、撮影者はすべて「小川一真」となるのではないか。

石橋が左下に写っている。撮影場所は、「川上の高台」や「現北大浦小学校(2007年(平成19年)に、統廃合により閉校)下の斜面から撮影している」などというより、高度がまだあり「ドンの山」あたりからではないだろうか。

この項は、本ブログ次も参照。 https://misakimichi.com/archives/1881
目録番号:6138「大浦川沿い(9)」と、目録番号:6720「大浦川沿い(10)」は、その後、データーベースに収録された写真と思われる。