月別アーカイブ: 2011年12月

2−G 金比羅山の砲台山中腹  (確認 長崎要塞第二地帯標 第四十六号)

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2−G 金比羅山の砲台山中腹  (確認 長崎要塞第二地帯標 第四十六号)

「長崎要塞地帯略図」の2−G地点については、平成18年4月発行の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集の中、明治32年陸軍省建立「長崎要塞地帯(区域)標」の調査の149頁において、次のとおり調査結果を記していた。

2−G 銭座町か
浦上駅をはさんで、2−Eと斜め対極となる。金比羅山かと考えたが、次の風頭町からは県立東高の背後ピークしか見えない。ここは今、水道タンクや多目的広場があり、戦時中は砲台や防空壕があった。
しかし、地元の昔を知る人の話は、標石をこの金比羅山一帯で見たことはないという。かえって銭座町の変電所や中央タクシーあたりに明治砲台の赤レンガ兵舎跡があり、原爆後、農地解放で畑となって今は中央タクシーになっているらしい。位置的にその可能性は高い。

平成18年だから私は約6年前、次の標石2−H「風頭から寺町へ下る石段道路脇」(確認 第二地帯標 第三十五号)地点から見た展望から、もし金比羅山とするなら山頂や神社あたりは見えず、県立東高の背後ピークしか見えない。
今、水道配水タンクや多目的広場(戦時中、高射砲陣地があり、原爆慰霊碑が立つ。通称「砲台山」と呼ばれる)があるあたりと目星をつけ、一帯をずいぶん調査した。どうしても探し出すことができず、当時地元で聞いた人の話により、2−Gは「銭座町か」としていた。

しかし、これは当初の目星が正しく、金比羅山の砲台山中腹に「長崎要塞第二地帯標」が現存していることが、最近判明した。軍の歴史などを調べる鹿児島の小原さんという方が、登山中偶然発見し研究レポートを読んで、佐世保の高橋さんや私に知らせてくれた。
きょう標石を確認してきた。場所は立山5丁目22街区の山中。東高正門右横の車道を上がり右折、駐車できる奥の道路広場まで行き、まっすぐ金比羅神社への山道へ入る。バンクが通る道で100mほど先の道脇左上にこの標石があった。遠く逆に風頭町の標石地点が良く見える場所近くである。

この道は何回も歩いたり、バイクで通ったことがある。これまで気付かなかったのは、道脇から2mほど高い石垣の上にあり、大木の根元で雑木にさえぎられ、標石があることがわかりにくかった。戸町岳登山道入口の標石もそうだったので、最近見つかっている。
2−G地点「金比羅山の砲台山中腹」の標石刻面は4面。「陸軍省」「長崎要塞第三地帯標」「第四十六号」「明治三十二年六月十日」。
「長崎要塞第三地帯標」となっているが、上部はSMなし、「2ndZ」と改刻しているので、「長崎要塞地帯略図」からも「長崎要塞第二地帯標」である。
「長崎要塞地帯略図」は、  https://misakimichi.com/archives/54

「長崎さるく 長崎観光ガイドブック」ながさき事始めへの要望

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「長崎さるく 長崎観光ガイドブック」ながさき事始めへの要望

掲載内容2011年2月現在の最新版「長崎さるく 長崎観光ガイドブック」が発行されている。
きのう中島川畔の中華料理店頭で内容を見た。長崎市が観光用に置いている。見やすいエリア別マップ付き。どこでも無料配布される。

22頁に「ながさき事始め」がある。掲載されている「事」が、安易な内容ではないだろうか。オーソドックスな次のような「ながさき事始め」とその史跡案内を、次回ガイドブック改版のときには、取り上げてもらいたいと思う。
最近、これに関係する様々な企画展や、体験工房などのニュースが相次いでいる。

そのほか、「我が国最初の気球飛揚の地」などがある。マップ13頁「長崎市健康づくりセンター(三和)」は表示位置が違う。
長崎さるく幕末編や英雄編、長崎まちなか龍馬館では、人物が政治家や実業家に片寄っていた。長崎医学伝習所に貢献した松本良順なども取り上げ、医学史跡等も啓発してほしいと当時から要望していた。

(1)上野彦馬撮影局跡 (日本の写真の開祖) 

上野彦馬は江戸末期、オランダ医師ポンペ・ファン・メーデルフォールトの医学伝習所で舎密学(化学)を学ぶうち、写真術に関する記述を見出して興味を覚え、研究を始めました。しかし、当時の日本では感光材として必要な薬品の入手さえままならず、それに加えて世間の無理解による中傷も激しく、その苦労苦心は一通りではありませんでした。 ちなみに、写真撮影に必要な薬品を精製するために活用した化学の知識は、明治の学制改革まで日本全国で化学の教科書として使われた「舎密局必携」という書籍として結実しました。
さまざまな困難を乗り越え彦馬は、写真技術の習得に取り組み、日本で最初の写真館を長崎に開きました。彦馬の写真技術は評判で、撮影料が現在の価格で1枚につき2、3万円という高価なものだったにも関わらず、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文といった幕末の日本を動かした大物たちや、フランス人文学者ピエール・ロチ、清国提督丁汝昌、ロシア皇太子ニコライ二世といった歴史上の人物も彦馬の写真館を訪れました。そして、それらの写真は歴史的に貴重な資料として残されました。 日本の写真の開祖である上野彦馬は、その生涯を通じて日本の写真術の確立とその発展に尽力しました。   (産業能率大学HPから)

(2)長崎大学病院開院150周年記念碑(小島療養所は日本最初の洋式病院)

幕末の長崎に開かれた医学伝習所で、オランダ海軍軍医ポンペは、医師の心構えをこう説いた。「ひとたび医師という職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もし、それを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」▲患者への献身こそが医師の本分であり、喜びである。医の原点を情熱的に語るポンペの誠実な人柄に、西洋近代医学を学ぶために集まった青年たちは心をうたれ、一層熱心に勉学に励んだという▲ポンペが重んじる献身的態度を自ら、いかんなく発揮して見せたのが、1858年のコレラ騒動のときだ。疫病拡大阻止のためポンペは獅子奮迅の働きをした。連日、患者を身分で分け隔てせずに懸命に治療に当たるポンペの姿は、長崎の人々の信頼と尊敬を集めていく▲そんな長崎の空気に押され、かねてポンペが提言していた西洋式病院の建設を幕府が認めた。61年9月20日に開院した養生所は、124の洋式ベッドを備えたわが国初の近代的病院で、医療と医学教育の拠点となった▲養生所開院を自らの誕生のときと定める長崎大学病院が開院150周年を祝った。わが病院の幕開けが、すなわち、日本の近代医療の幕開けであると誇れるとは、なんと幸せなことだろう▲幕末に、長崎の地で輝き始めた「志」という灯は、これからも永遠に、日本の医療全体を照らし続けるはずである。(信)  (長崎新聞コラム「水や空」2011年9月25日更新から)

(3)新町活版所跡(長崎が生んだ“印刷の父”本木昌造)

県美術館で活版印刷の企画展  2011年12月4日 01:14
長崎から広まった活版印刷の歴史や技術を紹介する企画展「長崎活版巡礼展」が3日、長崎市出島町の県美術館で始まった。日本に初めて活版印刷を持ち込んだ天正遣欧少年使節団ゆかりの資料や、長崎に活版伝習所を設立した“印刷の父”本木昌造の「種字(たねじ)」など約50点を展示している。11日まで、入場無料。

日本の活版印刷は、1590年に天正使節団がイタリアから持ち帰った機械で、現在の南島原市加津佐町で印刷したのが最初とされる。その後、途絶えたが、長崎出身の本木が1855年に再び長崎で活版印刷を始め、日本の印刷文化の基礎を築いた。
漢字や仮名は画数や曲線が多く活字の製作は難しかったが、本木はツゲの木に手彫りした「種字」をもとに「蝋型電胎(ろうがたでんたい)法」という技術で鉛活字の鋳型を作り量産を可能にした。会場には、諏訪神社に保管されていた3300本の種字や蝋型電胎法による活字製作の再現などを展示している。
企画した福岡市のデザイナー中川たくまさん(33)は「長崎は世界に誇れる文化を持つ街。この機会にその良さを知ってほしい」と話している。  (2011/12/04付 西日本新聞朝刊から)

長崎が生んだ“印刷の父”本木昌造
本木昌造は、1824年長崎市新大工町の北島三弥太の四男として生まれます。1834年、阿蘭陀通詞 本木昌左衛門久美の養子となり、23歳に小通詞並になりました。彼は通詞としてまた、航海、造船、製鉄などといった各方面にも活躍の場を広げて いきます。※築町と浜の町に日本最初の鉄橋「くろがね橋」を作ります。
1848年昌造が25歳の時、蘭書植字判および印刷機を通詞仲間と共同購入し、蘭書復刻を行ないます。1851年昌造28歳の時、オランダ活字を手本に独自の流し込み活字を製造しています。1855年に、昌造は官営の活版印刷所の創設を長崎奉行に上申し、活版判摺所を役所内に設けさせ自ら御用掛となります。これが後の出島印刷所。昌造はここでシーボルトの著作などの発行を手がけますが、この頃はまだ木版と流し込み活字の併用で美しい印刷とは呼べない物でした。より美しい印刷を求め、昌造は 1869年アメリカ人宣教師フルベッキの紹介で、上海の聖教書印刷所・美華書館の代表ウイリアム・ガンブルを長崎に迎え、活版伝習所を設立します。昌造はガンブルの指導のもと「電胎法」と呼ばれる高度な活字製造法を修得し、初めて納得のいく和文活字を作り上げる事に成功。その後、昌造は長崎市新町に日本初の民間活版業・新町活版所を創立し、さまざまな印刷を行なっていきます。その後大阪、東京、横浜と支所を設け大きく事業を展開していくことになります。  (長崎県美術館HP 長崎活版巡礼展から)

本ブログ「琴海の史跡など」が、村松小学校PTA広報紙に載る

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本ブログ「琴海の史跡など」が、村松小学校PTA広報紙に載る

長崎市立村松小学校PTA「広報 むらまつ 第388号」が、2学期終業式に発行、配布された。表紙面の”まだまだあるばい 琴海自慢”は、本ブログの次の記事から写真とも取り上げてもらっている。写真は琴海村松町城尾橋手前の「村松村古城跡」。
長崎さるくコースマップに「32 琴海界隈」があるが、琴海村松町方面の史跡案内はない。その点から本ブログが目にとまり、紹介されたと思う。光栄なことである。

琴海の主な史跡など (1) https://misakimichi.com/archives/2869
琴海の主な史跡など (2) https://misakimichi.com/archives/2870
琴海の主な史跡など (3) https://misakimichi.com/archives/2871

長崎外の古写真考 目録番号:2792 伊勢佐木町の劇場街(5) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2792 伊勢佐木町の劇場街(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2792 伊勢佐木町の劇場街(5)
[画像解説]
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32(1899)年の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。明治20年代の松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)界隈、勇座の前辺り。

目録番号:1667 伊勢佐木町の劇場街(1)
[画像解説]
伊勢佐木町の劇場街である。明治10年(1877)代半ば頃から芝居小屋が立ち並び、歓楽街へと発展した。

■ 確認結果

目録番号:2792「伊勢佐木町の劇場街(5)」は、次の目録番号:1667「伊勢佐木町の劇場街(1)」と同じ写真であろう。撮影者は「日下部金兵衛」か。
この項は、目録番号:2374「芝居小屋」の記事も参照。横浜の松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)にあった「勇座」と思われる。  https://misakimichi.com/archives/2468

目録番号:2792「伊勢佐木町の劇場街(5)」は、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/民具編 モースの見た日本」小学館2005年刊51頁に掲載されている。同解説は次のとおり。撮影年代は、「1890年頃」となっている。
67 劇場街 ca.1890
右手の幟には、「坂東太三郎」とみえる。左手の劇場には、看板が多数掛かっているのがわかる。場所は横浜と思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:2791 伊勢佐木町の劇場街(4)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2791 伊勢佐木町の劇場街(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2791 伊勢佐木町の劇場街(4)
[画像解説]
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32年(1899)の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。賑町(現伊勢佐木町3丁目)の賑座、もしくは両国座付近と思われる。

目録番号:4522 伊勢佐木町の劇場街(6)    (同写真 掲載略)

■ 確認結果

目録番号:2791「伊勢佐木町の劇場街(4)」などは、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/民具編 モースの見た日本」小学館2005年刊50頁に掲載されている。
同解説は次のとおり。撮影年代は、「1890年頃」と整理されているが、「1882年にモース自身が収集したもの」と説明がある。
66 劇場街 ca.1890
横浜の弁天通りの劇場街。手前には、信州の善光寺から贈られたと思われる幟が見える。
1882年にモース自身が収集したもの。

深堀城山から江川尾根へ  2011年12月

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深堀城山から江川尾根へ  2011年12月

2011年12月18日(日)曇り。深堀城山(標高350.4m)から江川尾根へ。参加11人。みさき道歩会本年最後の例会。
深堀バス停9:30発—一の鳥居—深堀城山(11:30着 昼食 12:00発)—愛宕神社跡—江川尾根—鶴洋高校前13:20着(徒歩距離 約5km)

2日前からの寒気も和らぐが、きょうは終日曇り空。深堀バス停から眺めるどおりの深堀城山のなだらかな稜線を、右から左へ歩くこととなる。八幡宮鳥居を3つくぐる正式な参詣道。いつも江川運動公園から登るが、久し振りに一の鳥居から逆コースとした。

カトリック墓地付近の深堀道みさき道分岐上に「一の鳥居」がある。善長近くの畑道まで登ると、港外の島々が見える。座禅石やお水場は寄らず、2時間で八幡宮がある深堀城山へ着いた。
中世の山城跡。山頂を広く一周する城の石塁が珍しい。うんこのようなのは、八幡宮祠の蛇神。山頂には「長崎要塞第二地帯標 第八号」が残る。

山頂から北へ10分ほど下った愛宕神社跡の広場で、港外・港内の展望が広がる。三菱重工香焼工場大ドックの全体が俯瞰できる。深堀中学校へは下らず、江川尾根に向かう。このコースは歩く人が少なく、道がわかりにくいが、テープに注意して下る。
深堀テレビ中継放送所の塔屋まで来ると、すぐ下が鶴洋高校正門先の下山口である。本年は楽しいかったかな。1月2日が新春「みさき道」初歩き。

長崎外の古写真考 目録番号:4534 消防出初式

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4534 消防出初式

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4534 消防出初式

■ 確認結果

目録番号:4534「消防出初式」は、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/民具編 モースの見た日本」小学館2005年刊178頁に、「413 消防出初式 Fireman‘s 
festival  ca.1890」として掲載がある。
撮影場所の解説はないが、撮影年代は「1890年頃」となっている。

消防出初式の同じような光景は、3枚目の写真とおり「モース・コレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊42頁にも掲載がある。同解説は次のとおり。
50 横浜・吉田橋上での消防出初式 ca.1890
吉田橋(1869・明治2)は関内への入口にあり、日本最初の鉄製橋である。右手の建物は横浜を代表する寄席、富竹亭(1885・明治18)。橋上では出初式が行われている。

モース・コレクションの2枚を比較すると、ともに橋上での出初式。撮影の向きを変えただけ。赤白旗、橋上の構造物、半被などは同じと思われる。したがって、目録番号:4534「消防出初式」も、横浜・吉田橋上での消防出初式 1890年頃撮影となるのではないか。

新長崎市の史跡探訪Ⅰ「みさき道概略図」の問題点

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新長崎市の史跡探訪Ⅰ「みさき道概略図」の問題点

平成17および18年に外海・三和・伊王島・野母崎・香焼・高島および琴海の7町が長崎市に合併した。長崎伝習所「新長崎市の史跡探訪塾」が研究成果として、平成20年3月発行した報告書「新長崎市の史跡探訪Ⅰ」三和エリア10頁に「みさき道概略図」がある。

同解説は次のとおり。また、33頁まとめには「野母の観音寺への参道である「みさき道」は軍事、密輸の道ともいわれ、複数の道があるようで遠近、平阻にかかわりなく、当時は天領を行くか深堀領を通るかと選択しながら通ったのではないかと思ったりする」とある。

みさき道
みさき道は深堀道などとも呼ばれたが、野母崎町脇岬の観音寺に参詣する道として整備された。江戸時代は観音信仰が盛んで長崎の人達の信仰を集めていた。
コースは長崎から脇岬の観音寺までの7里(約28km)の距離で、大体1泊2日の行程であった。道の分岐点の要所には天明4年(1784)に長崎の今魚町が50本の道標を立てた。
その後立て替えられたものもあるが、現在は10本程が残り、当地域にも3本が現存している。
またこの道は野母権現山の遠見番所や狼煙台、港口にあった台場へ通じる重要な軍事道路でもあった。

この報告書を、きのう長崎市立図書館で初めて見た。平成19年11月発行された長崎歴史文化博物館編「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」による「御崎道」研究の問題点はすでに指摘している。  https://misakimichi.com/archives/1585
まったく同じような問題点を含み、この報告書もそのまま発行されている。「みさき道概略図」はどの道を説明しているのか意味がわからない。

「みさき道」でみんなが知りたいのは、観音信仰が盛んだった江戸時代に、長崎市中から一般町人が歩いた、道塚が残るふつうの正しいルートであろう。いろいろ史料・資料の手持ちがある。
少しは当会研究レポート「江戸期のみさき道」や本ブログを参考とし、現地を調査研究してほしい。  https://misakimichi.com/archives/3035
「みさき道」の道塚は、現在12本残り、三和地域に4本ある。「みさき道概略図」に対比して、検証の1資料として、明治34年測図国土地理院旧版地図(ズーム拡大)のみ掲げる。

道のない所に勝手に道を作られては困る。長崎学としながらこのような内容の解説書を、長崎歴史文化博物館や長崎市長崎伝習所が発行するのは、公費支出上でも問題があろう。「三和町郷土誌」382頁の地図もおかしい。
迷惑しているのは、さまざまな人に及んでいる。三和行政センターも地元だから、考えてほしい。  http://yamanosoyo.exblog.jp/d2010-02-24

浦上川通りと長崎県立長崎西高等学校  長崎市竹の久保町

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浦上川通りと長崎県立長崎西高等学校  長崎市竹の久保町

きのう江山楼で昼食後、浦上川通りから長崎県立長崎西高等学校へと歩いた。浦上川に架かる橋は、梁川橋、浦上歩道橋(JR浦上駅に通じる歩行者専用道路。1986年(昭和61年)12月19日に開通)、竹岩橋。
浦上歩道橋の上から、長崎ブリックホール、日赤長崎原爆病院、活水高校・中学校、長崎市立渕中学校、稲佐山などが見える。

長崎県立長崎西高等学校は、1948年(昭和23年)11月1日の創立。旧制長崎県立瓊浦中学校跡へ移転。爆心地から約800m南西の長崎県立瓊浦中学校校舎は、原爆投下により壊滅。多数の死亡者を出した。

長崎県立長崎西高等学校HPによる学校沿革は、次のとおり。近況を知らせる。有名なのは正門前の「遅刻坂」。被爆クスの木がこんなに大きくなっている。門を入ると「自律の像」「自律の鐘」「自律の碑」が設置されている。西川食堂や春木まんじゅうももうない。
私は落ちこぼれ。同窓会にまったく失礼をしている。

沿 革
昭和23年11月 旧制中学校が統廃合、県立長崎西高等学校として、シーボルトで名高い長崎市内の鳴滝の地に開校。
昭和25年 8月 現在の所在地、長崎市竹の久保町に移転。
昭和26年12月 校歌「眉秀でたる若人よ」を制定。
昭和53年11月 創立30周年記念式典を挙行。「自律の像」が建立され「柏の森」が造園される。
平成10年11月 創立50周年記念式典を挙行。「自律の鐘」と「自律の碑」が設置され「自律の像」とあわせて「自律三林」と命名。

長崎大学医学部のポンペ会館  長崎市坂本1丁目

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長崎大学医学部のポンペ会館  長崎市坂本1丁目

長崎大学医学部を12月14日に再訪。医学部構内の記事(4)に、「ポンペ会館」の2Fホール展示物を追加。被爆50周年(平成7年 1995年)特別企画の医学部年表や関係写真のパネルがあった。

ポンペ会館を写生中は、先輩の水彩画家松林重宗氏。1作目”名残りの紅葉(長崎大学医学部構内)”はできあがっていた。
最後は、2作目の完成作”ポンペ会館”。12月29日追加した。