月別アーカイブ: 2011年12月

長崎大学医学部の原爆医学資料展示室と被爆遺構  長崎市坂本1丁目

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長崎大学医学部の原爆医学資料展示室と被爆遺構  長崎市坂本1丁目

先日の記事「開院150周年長崎大学病院」に続き、12月12日長崎大学医学部構内を訪れてみた。医学部構内の記事(3)は、「原爆医学資料展示室」及び「長崎医科大学の門柱」や「配電室」の被爆遺構。
キャンパスマップによる説明は、次のとおり。

1 原爆医学資料展示室
原爆医学資料展示室では、長崎医科大学が原爆により壊滅状態になった際の貴重な資料である血染めの白衣、原子爆弾救護報告、原爆被災復興日誌や原爆の医学的影響のパネルを展示しています。小中高生、一般市民、研究者に公開され、平和教育に活用されています。
◎見学時間 9;00〜16:00(平日)

8 長崎医科大学の門柱
医学部の図書館裏には、かつて長崎医科大学の正門だった二本の門柱があり、その一つ(左側)が傾いたままになっています。これは原爆の爆風によるものです。大きな石材でつくられた門柱のその姿は、原爆の凄まじさを物語っています。

9 被爆した配電室
医学部正門そばの良順会館裏手にある旧配電室は、爆心地から東約600メートルという近距離にありましたが、当時としては珍しい堅固なコンクリート造りだったため、被爆による難を逃れました。

長崎大学医学部の150周年ミュージアム(良順会館内)  長崎市坂本1丁目

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長崎大学医学部の150周年ミュージアム(良順会館内)  長崎市坂本1丁目

先日の記事「開院150周年長崎大学病院」に続き、12月12日長崎大学医学部構内を訪れてみた。医学部構内の記事(2)は、正門を入り右側にある「良順会館」内の150周年ミュージアム(史料展示室)。

長崎大学医学部は日本最古の医学部として、2007年11月12日に創立150周年を迎えた。「良順会館」は記念事業として建設された。キャンパスマップによる説明は、次のとおり。

10 150周年ミュージアム
良順会館内の史料展示室は、16世紀からの南蛮医学と紅毛医学の伝来から近代西洋医学の発祥に至る歴史と、長崎大学医学部150周年の歩みを紹介する目的で設けられました。日本における西洋医学の伝承と発展の歴史を見ることができます。
◎見学時間 9:00〜17:00(平日)

長崎大学医学部構内  長崎市坂本1丁目

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長崎大学医学部構内  長崎市坂本1丁目

先日の記事「開院150周年長崎大学病院」に続き、きょうは長崎大学医学部構内を訪れてみた。次は長崎大学医学部HPの医学部長あいさつなどから抜粋。
良順会館内の「150周年ミュージアム」(史料展示室)及び「原爆医学展示資料室」や被爆遺構は、あとの記事とする。キャンパスマップはズーム拡大。

長崎大学医学部は日本最古の医学部として、2007年11月12日に創立150周年を迎えた。「良順会館」の建設、長崎大学医学部のこれまでの歴史を著わした「創立150周年記念誌」の発刊、国内外から多くが参加した「記念式典」などの事業が行われた。

長崎崎大学医学部の歴史は1857年オランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトと松本良順によって開設された長崎奉行所西役所医学伝習所にまで遡る。長崎大学医学部の創立記念日である11月12日はポンペが松本良順とその弟子達12名に最初の医学講義を行なった日を記念したもの。

1861年には彼らの熱意により長崎港を見おろす小島郷の丘に西洋式の病院で医学校である小島養生所が完成し、ここで多くの日本人医学生に対して系統講義とベッドサイドティーチングが行われ始めた。ポンペは貧富や身分の差別なく患者の治療にあたったことから当時の人々からは驚きをもって迎えられた。彼が説いた「医師は自分自身のものではなく病める人のものである」という素晴らしい言葉は校是となった。

故市川森一先生の小説「蝶々さん」に登場したみさき道

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故市川森一先生の小説「蝶々さん」に登場したみさき道

市川森一さんが生前に語っていたこと
産経新聞 12月10日(土)17時4分配信

(12月)10日に死去した脚本家の市川森一さんは、故郷の長崎を舞台にした自身の小説「蝶々(ちょうちょう)さん」のドラマ化の脚本を自ら手がけ、11月19、26日の2回にわたりNHK総合で放送された。放送前の11月11日には、東京・渋谷の同局で開かれた報道向け試写会に出席し「今日拝見して、こういう作品が生涯の遺作になれば幸運だなあと思ったりしました」と感慨を語っていた。
ドラマで主演を務めた宮崎あおいについて、市川さんは生前「原作を書いているときから、イメージに置いていた」としていた。
試写会での市川さんの発言は次の通り。

「この年になると、一本一本が遺作のようなつもりで、作品によっては、これが遺作じゃ嫌だなと思う物もありますが、今日拝見して、こういう作品が生涯の遺作になれば幸運だなあと思ったりしました。原作とか脚本という立場を離れて、明治の長崎の世界に浸りきらせていただきました。早く後編を見たいという衝動に駆られましたが、すべての皆さんに感謝します。あの世界をあれだけ完璧に作り上げられるのは、並大抵のことじゃなかったと思います」

死を予感されていたのか、以上は先生の突然な悲しい訃報である。肺がん。まだ70歳だった。
市川森一先生作の小説「蝶々さん」は、長崎新聞に連載された。「みさき道」が登場する。関係した部分は、次のとおり。
この項は、本ブログの次を参照。 https://misakimichi.com/archives/69

私も研究レポート「江戸期のみさき道」が縁となり、親交をいただいた。特に第53回「花影(八)」(2007年5月19日付)では、お蝶が「みさき道」を通って、実家の深堀村へ一時帰る。状景など尋ねられた。
十人町の石段が百三十一段あること、加能峠まで来て目の前には見慣れた深堀の城山(じょうやま)が見えることなどは、私たちが報告したことだったが、実際に歩かないでこれだけ「みさき道」を正確に描写される先生の筆力に感嘆した。
市川森一先生のご冥福を心からお祈りします。

第29回  遠 い 歌 声(十)   2006年11月18日付
十二月に入った最初の日曜日、お蝶は、田代先生から預かった新約聖書の本と、自分がユリに上げようと思っていた銀の平打ち簪(かんざし)を風呂敷に包んで蚊焼の岳路を訪ねて行った。
深堀の村はずれが大籠(おおごもり)だが、蚊焼は、そこから、みさき道を野母方面へ一里ほど下った村である。元気ざかりの女の子の脚でも一時間はかかった。そこからさらにかくれキリシタンの里である岳路に辿り着くまでに三十分を費した。

第35回  紅     燈(五)   2007年 1月13日付
数日後、お蝶は水月楼にきて初めての外出をした。行き先は、東山手十三番地の丘の上。どうしても、活水女学校の外観だけでも見ておきたいという、お蝶の嘆願をマツが渋々許しての外出だった。
マツにお供を命じられたお絹が道案内をしてくれた。二人は、寄合町の坂を下りきったところで、左に折れて、元の大徳寺への坂道を上がり、中華街である広馬場町へ下りて、そこから、十人町の長い石段の細道を上がって行く。みさき道という、七里先の野母半島の突端の観音寺まで続いている古道の出発点がこの十人町の石段だ。寄合町から二十分ほどの上がったり下ったりの行程だった。
石段のみさき道を上がり詰めた瞬間、初夏の風がお蝶の袂(たもと)の中まで吹きこんできて、汗ばんだ体を癒してくれた。
そこには、港を背景にした外国人居留地の洋風の風景が眩(まぶ)しく広がっていた。
二人が立つ丘の左手には、鎮西学館のレンガ造りの二階建て校舎があり、右手には、宝形造りの屋根の上に鐘塔をいただく宏壮(こうそう)な木造二階建ての洋館が建っていた。それが、活水女学校の校舎だった。
お蝶の足は吸い寄せられるようにそっちへ歩み寄り、鉄柵の向こうに広がる別天地に見とれた。

第53回  花     影(八)   2007年 5月19日付
みさき道とは、唐人屋敷の近くの十人町から、野母半島の突端の脇岬の観音寺まで延びている七里の古道をいう。深堀村はその途中にある。
十人町の百三十一の石段を上がりきると、活水女学校の校舎が現れた。活水の女学生になることを夢に描いてきたお蝶には、いつも身近に感じていた風景だったが、今日はその白亜の校舎が雪と共に溶けて消えてしまいそうに見える。お蝶は視線をそらして駆け出した。誠孝院の坂道を転がるように駆け下り、東山手と南山手にまたがる石橋を渡って、外国人居留地の丘を駆け抜け、戸町峠の二本松神社に辿り着いたところで、息が上がってようやく立ち止まった。
眼下には、湾口の島々が霞んで見えた。汗が引くと急に体中が冷え込んできたので、またすぐに歩き出す。そこからしばらくは、桧や雑木林が生い茂る山道を下って行く。お蝶の手荷物は弁当と水筒だけだが、懐剣と笛はしっかりと帯に差してきた。
お蝶の草鞋足は、寸時も立ち止まることなく鹿尾の尾根を登り、小ヶ倉村を見下ろす加能峠まで来て足を止めた。目の前には見慣れた深堀の城山(じょうやま)が見えてきたからだ。そこから江川河口まで下って深堀道に入り、ふたたび、鳥越という険しい坂の峠を越えた途端に、突然、懐かしい御船手の湊が広がった。
—着いた。
夜明け前の五時に水月楼を飛び出してから、四時間の徒歩で深堀に到着した。子供の頃から馴染んできた景色の中を足早で陣屋の方角に向かった。

長崎外の古写真考 目録番号:6327 小石川薬園でのボードインの送別会

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6327 小石川薬園でのボードインの送別会

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6327 小石川薬園でのボードインの送別会

■ 確認結果

目録番号:6327「小石川薬園でのボードインの送別会」は、長崎大学附属図書館HP「日本古写真アルバム ボードイン・コレクション」にも掲載があるが、画像解説はない。

慶應義塾大学高橋信一氏HP「舎人学校」の2008年12月1日 (月)”朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価”による解説は、次のとおり。
撮影者は「内田九一」であろう。

268 A.F.ボードイン医師の小石川園送別会

上野の寛永寺境内で明治3年8月撮影となっているが、明治政府がA.F.ボードインに3000両の慰労金を贈ったのは明治3年閏10月28日(1870年12月20日)(「太政官日誌」第1卷)(33)である。A.F.ボードインは1870年9月から11月にかけて大学東校で教鞭を取った後、オランダに帰国する。この写真は帰国直前の閏10月30日(西暦1870年12月22日)の送別会で内田九一によって撮影された。この時点で、A.J.ボードインは休暇を取って帰国していたので、彼が関係する写真ではない。大型のB3アルバムはA.F.ボードインのアルバムと推測される。

長崎の西空の夕日  11−11

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長崎の西空の夕日  11−11

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 4  2011年11月16日の17時19分頃 掲載忘れ
写真  5〜 8  2011年11月28日の17時31分頃
写真  9〜12  2011年11月29日の17時15分頃

長崎外の古写真考 目録番号: 147 布引滝(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 147 布引滝(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 147 布引滝(2)
〔画像解説〕
生田川水源の花崗岩崖にかかる布引滝は、雌滝、鼓ヶ滝、夫婦滝、雄滝よりなる。写真の雌滝は最も下流に位置する。写真中央には、観瀑橋が見える。

目録番号:2807 布引滝(15)
〔画像解説〕
布引雌滝。「布引の滝」は生田川の上流に位置し、雄滝、夫婦滝、鼓ケ滝、雌滝の流れを総称した呼名。川を渡る回廊のような木橋と茶店がまだ設けられていないので、明治初期から中期の撮影。彩色は異なるが、目録番号4481・4682・4870と同じ写真。

目録番号:4481 布引滝(23)    掲載略

目録番号:4682 布引滝(25)    掲載略    

目録番号:4870 布引滝(27)
〔画像解説〕
布引雌滝。明治初期から中期にかけての撮影。彩色が異なるが、目録番号2807・4481・4682と同じ写真。雄滝から雌滝に続いたこの流れは、新生田川となって海に注ぐが、このあたりから下流にかけて、精米の水車場がいくつもあったという。

■ 確認結果

神戸市山手の有名な「布引滝」を写した上記目録番号の5作品。撮影者は「日下部金兵衛」や未詳となっているが、そうではないようだ。
金子隆一氏研究紀要 ”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置”(Adobe PDF)に、「神戸 布引雄滝」の2作品がある。(東京都写真美術館などの所蔵)

明治5年(1872)、明治天皇の巡幸に随行した「内田九一」の作品である。帰路7月、神戸に寄って撮影した。天皇は滝へは出かけていない。巡幸写真が小さく、横になって掲載されていたため、これまで良く調べなかった。縦にしてわかった。

2点のうち左の「図54 神戸 布引雄滝」は、目録番号で見当たらない。右の「図55 神戸 布引雄滝」が、上記目録番号の5作品と同じ写真だろう。雄滝?雌滝?
最近、「図52 神戸ヨリ布引ヘ至ル途上」の目録番号: 146「久形橋」について、コメントがあり作品を調べていて、巡幸写真の一緒とわかった。
目録番号: 146「久形橋」は、 https://misakimichi.com/archives/2272

大分県HP「豊の国の名樹」の改善について要望と回答

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大分県HP「豊の国の名樹」の改善について要望と回答

大分県(農林水産部 森との共生推進室)HP「豊の国の名樹」の改善について、大分県政への提言(要望)のところ、次のとおり回答がありました。HP内容は今後、改善されると思います。
写真の樹木は、寒水のムクノキ(宇佐市安心院)、椿八幡神社のクスノキ(国東市武蔵)。

大分県HP「豊の国の名樹」の改善について (2011年11月21日 要望)
大分県(農林水産部 森との共生推進室)HP「豊の国の名樹」に、特別保護樹林・特別保護樹木一覧表と個別解説があります。
http://www.pref.oita.jp/soshiki/16210/meiboku.html
ただし、選定基準が不明です。国県市町村指定の天然記念物や、そのほか多くの巨樹・名木と言われる木が登載されていません。文化財等による保護という所管部の違いがあるのでしょうが、大分県全体の樹木を知るのに、一般人にとってまったく不便なリストとなっています。
このような県政広報は、観光・学術・教育などの面から問題があると感じました。私は先日、国東半島の巨樹・名木を訪ね、次のブログ記事にしています。参考とされ、県政全般の立場から所管部に対する指導と、問題点の解決をできるだけよろしくお願いします。
https://misakimichi.com/archives/3026
全体に所在場所がわからず、説明や地図をお願いします。指定木の標柱が腐って倒れているのがありました。現地に説明板がほとんどありません。一覧表の「真玉八幡神社の森」は、明細タイトルが間違っています。

大分県HP「豊の国の名樹」の改善について  (2011年12月6日 回答)
大分県では環境緑化条例(昭和48年4月16日、大分県条例第19号)に基づき、昭和49年から、特に緑化に寄与すると認められる樹木又は樹木集団を、特別保護樹木・特別保護樹林に指定しています。指定する際に、あらかじめ所有者及び関係市町村長の意見を伺い、平成23年10月末現在、県下で62本の特別保護樹木と21箇所の特別保護樹林を指定しています。
これら貴重な樹木・樹林を広く広報するため「豊の国の名樹」として県のHPで紹介していますが、「豊の国の名樹」と題しながら、国、県、市町村指定天然記念物等に指定されている当室所管以外の多くの貴重な樹木等については、当室のHP上で掲載されていません。このため、今後、現在記載のない指定基準や所在位置図を掲載するとともに、各関係機関との連携を図り、各種情報にリンクできるよう改善します。
また、標柱については、管理者等からの要請に応じて腐朽等で建て替えが必要なものを順次更新していますが、設置状況の確認を今一度行います。なお、由来等について、県条例では現地説明板を設置することになっていないため、HP上での情報提供にとどまっています。説明板の設置は経費や維持管理、所有者の意向等を伴うことから、来年度の第5次大分県緑化基本計画の策定に併せた関係者等の協議の中で、必要性や課題等について検討のうえ、方針を決定したいと考えています。             農林水産部  森との共生推進室長 三ケ田 雅敏

開院150周年長崎大学病院  長崎市坂本1丁目

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開院150周年長崎大学病院  長崎市坂本1丁目

文久元年(1861年)9月20日、長崎小島郷稲荷岳(現在の長崎市立佐古小学校)にオランダ国軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトによって養生所(我が国最初の洋式病院)が開院しました。その後、名称、所管とも幾多の変遷を経て平成21年(2009年)に長崎大学病院となりました。(展示写真「長崎養生所」説明文から)

後ろの写真は、2階エスカレータ左右の展示品や病院模型などと、長崎大学病院広報誌「ポンペだより」の記事。「長崎大学病院開院150周年記念碑」が2011年9月23日にゆかりの地、長崎市立佐古小学校に設置された。「養生所碑」も校庭から大徳寺公園側の門下に移設されていた。最後の写真は、現在の病院左側市道下に残るレンガ造アーチ式石橋。被爆遺構?

西海市の山岳史跡めぐり (2)  2011年12月

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西海市の山岳史跡めぐり (2)  2011年12月

2011年12月4日(日)曇り。西海市(大瀬戸・西彼・西海)の山岳史跡めぐり。参加12人。みさき道歩会の例会。
長崎8:00発ーホゲットウ石鍋製作所跡ー眼鏡橋(アーチ式石橋)ー瀬戸道標ー瀬戸遠見番所跡ー下山道標ー石鍋橋ー八人ヶ岳展望台(12:00着 昼食 12:30発)—石原岳砲台跡ー横瀬浦史跡公園ー旧オランダ村ー長崎帰着16:30(徒歩距離 約2km)

西海市の山岳史跡めぐりは、11月13日の大瀬戸多以良近辺に続く2回目の企画。車2台で大瀬戸・西彼・西海方面の上記史跡などを訪ねた。(1)が午前中、(2)が午後。
雪浦から上がった国指定史跡「ホゲットウ石鍋製作所跡」は、広域農道説明板入口から約750m山道を歩く。宮さんのリハビリ登山。
宮さんの参加記事は、http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28967159.html