月別アーカイブ: 2010年8月

有ったぞ 神崎鼻の海軍省標石  佐世保市小佐々町

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有ったぞ 神崎鼻の海軍省標石  佐世保市小佐々町

佐世保市の高橋輝吉氏から、8月19日に上記写真を添えて、次のメモをもらっている。
有ったぞ 神崎鼻の海軍省標石
海岸近くのやぶ林の中。地元方存じ(2本)。
林の中、標石より1.5m左より、伊島(右側)or黒島(左側)を写す。
オノ鼻より大島、崎戸、黒島、伊島、神崎鼻。海軍省図面どおりの所だった。
「第二〇七号」「佐世保軍港境域標」「明治四十五年三月十五日」

海軍省「佐世保軍港境域標」207号を、小佐々町神崎鼻(「日本本土最西端」碑の南東側海岸)林間で新たに探し出した報告である。近くの魚見崎208号は5年前に見つけていたが、私を先日、大瀬戸町オノ鼻(高帆山の西側)202号などに案内したのをきっかけに、再度、海軍省地図のこのラインを調査されたらしい。
オノ鼻標石は前の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2409

大瀬戸町オノ鼻202号から、佐世保市小佐々町神崎鼻207号間は、号数が飛んでいる。大島、崎戸、黒島、伊島に残っている可能性があるが、まだわからないそうである。
なお、小佐々町楠泊の姫神社前海岸には、昭和15年水路部「海軍水準」という全国でも珍しい標石が残っている。高橋氏はご存知だった。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/960

長崎の西空の夕日  10−11

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長崎の西空の夕日  10−11

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 4  平成22年 8月 5日の19時38分頃
写真  5〜 8  平成22年 8月 9日の 6時17分頃 朝方、五島列島が見える。
写真  9〜11  平成22年 8月25日の18時47分頃

釣れた? 釣具店の釣人 (14)  長崎市平山町

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釣れた? 釣具店の釣人 (14)  長崎市平山町

長崎半島平山町の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA

猛暑、ネタ切れにつき、ヘバった。釣人カップルは写してきたものの、何しているかわからない。時々、右奥沢の滝で避暑中。

長崎外の古写真考 目録番号:6705 鐘 楼

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6705 鐘 楼

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6705 鐘 楼

目録番号:4475 方広寺大鐘(2)    関連作品 目録番号:3093 同(1)、4771 同(3)
〔画像解説〕
石柱敷の上に置かれた方広寺大鐘を南西から北東に望む。男性が両手を広げて大鐘を抱きかかえ、その前に3人の子供が立つ。手前には多数の扇子の骨が干されている。大鐘は豊臣秀頼が方広寺再建に際し慶長19年(1614)の大仏開眼供養時に造営したもので、高さ4.5m、口径2.8m、厚さ28cm、重量約8.3tと言われる。右奥の二層の大仏殿は昭和48年(1973)に焼失した。

■ 確認結果

目録番号:6705「鐘楼」は、明治彩色写真アルバムの1枚。撮影地域:京都とあるが、どの寺か不明なのか説明がない。この寺は、目録番号:4475「方広寺大鐘」などにあるとおり、京都市東山区にある天台宗山門派の寺院「方広寺」であろう。
ここの鐘は重要文化財に指定されており、東大寺・知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。

目録番号:4475「方広寺大鐘」については、HP「まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室」の2008年5月10日記事に、同じような古写真があり、露天に置かれている事情を次のとおり説明している。
この項は、次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2293

方広寺は、豊臣秀吉によって建てられた寺院で、巨大な大仏殿と大仏、広大な境内を誇る大寺院でした。大仏殿は慶長期に失われましたが、天保期にかつての大仏の縮小版と仮殿が建てられ、それは昭和48年に焼失するまで残っていました。
この古写真は、明治初期に撮影された鶏卵紙の貴重な古写真で、中央に写る「国家安康・君臣豊楽」の有名な梵鐘がまだ鐘楼のなかに収められておらず、露天に置かれています。

地震・落雷・火災などで再建があっている。新しい鐘楼が完成して再び中へ収まっている姿が、この明治彩色写真アルバムにある目録番号:6705「鐘楼」の古写真と思われる。
鐘楼の左奥に、昭和48年に焼失した大仏の縮小版仮殿が、撮影の向きは違うが二層で同じ建物として写っている。
現在の方広寺鐘楼の写真は、ココログ”そぞろ歩き:近畿”から。鐘楼は明治期再建したものと同じであることがわかるであろう。

長崎の西空の夕日  10−10

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長崎の西空の夕日  10−10

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 2  平成22年 7月13日の19時05分頃
写真  3〜 4  平成22年 7月18日の19時31分頃
写真  5〜 7  平成22年 7月21日の19時25分頃
写真  8〜10  平成22年 8月 4日の19時06分頃
写真 11〜12  平成22年 8月 5日の 5時49分頃 朝明けの空

島原市指定有形文化財「礫石原環状石組遺構」  島原市礫石原町

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島原市指定有形文化財「礫石原環状石組遺構」  島原市礫石原町

国見百花台公園から島原市千本木へ行く途中、島原市礫石原町にある「礫石原環状石組遺構」。島原市指定有形文化財(考古資料)で、昭和59年1月10日指定。現地説明板は次のとおり。

礫石原(くれいばる)環状石組遺構

礫石原は三会扇状台地の最西部に当り標高270mに及ぶゆるい傾斜台地であります。この地一帯は藩政時代には砲術訓練の着弾地であり、明治維ごろはは禄を離れた藩士たちの牧場となっていました。
第二次世界大戦後間もなく未耕地約70haが開拓地に指定され、昭和21年(1946)入植がはじまり開拓が開始されるとともに各所で多量の遺物が出土し縄文晩期の重要な遺跡であることが明らかになりました。出土品は農耕生産の要素をもつ資料として注目すべきものであります。
この石組遺構は当時の埋葬施設の中心をなすものと考えられ附近からは合せ甕棺4基のほか焼灰の集積、集石墓10基の存在が確認されており、埋葬祭祀共同体を構成する重要な遺構であります。                       島原市教育委員会

島原市の眉山(天狗山)  平成22年8月

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島原市の眉山(天狗山)  平成22年8月

平成22年8月3日(火)曇り。島原市背後の山、眉山の天狗山(標高695m)へ。島原まゆやまロードの垂木台森林公園平成新山ネイチャーセンター入口手前にある七面山登山口から遊歩道をしばらく行き、途中から分かれる。

眉山は天狗山と七面山の総称。七面山は7月27日登ったので、今回は天狗山である。遊歩道が整備された七面山と違い、天狗山への尾根道東面は絶壁をなし危険なため、道標がまったくない。分岐入口もわかりにくいが、テープがあるので、くれぐれも注意して登る。北峰の天狗岳まで3ピークある。登山口から天狗岳まで往き1時間15分、帰り1時間を要するだろう。

写真は、中尾川・白土湖・登山口付近から見た眉山の天狗岳。七面山遊歩道との分岐、尾根道へ上がって天狗山手前のピークから見た天狗山、次に天狗山山頂、最後は尾根道を戻って反対側へ歩いたGPSアンテナ局のある南峰708mの展望。
眉山(七面山)は、次を記事を。 https://misakimichi.com/archives/2410

他抜き? 狸山のモニュメント  雲仙市国見町多比良

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他抜き? 狸山のモニュメント  雲仙市国見町多比良

国見町多比良の山側となる狸山地区。百花台公園がすぐ近く。名物「狸山まんじゅう」の茶店がある。しばらく通っていなかったら、国・県道の交差点ロータリーにモニュメントが建てられていた。
たぬきは「他抜き」。国見町のたいらガネ(渡りカニ)・いちご・サッカーをモチーフしている。茶店は火曜で定休日だった。

恋?金? 吉運シシ  雲仙市国見町土黒庚

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恋?金? 吉運シシ  雲仙市国見町土黒庚

裏雲仙田代原から国見百花台公園へ国道389号線により下る。舞岳の裏側あたり写真のパーキングエリア奥中央に、自然石の「吉(恋か金)運シシ」が祭られている。賽銭をあげたいね。

裏雲仙・千々石川(支流上峰川)の遡行  平成22年8月

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裏雲仙・千々石川(支流上峰川)の遡行  平成22年8月

平成22年8月1日(日)曇りのち晴。裏雲仙・千々石川の遡行。7月4日が雨天のため延期して実施。参加8人。千々石川といっても、正しくはその支流、田代原から流れる「上峰川」の遡行。
長崎8時集合ー参道口バス停ー野取ー仙落しの滝10時発ー上峰川遡行ー落葉の滝ー田代原県道途中へ上がるー仙落しの滝15時着(徒歩距離約10km)

車3台で長崎発。千々石橘神社先の参道口バス停手前から田代原への県道210号線へ入る。すぐ右手の千々石川本流にアーチ式石橋「大門橋」が残っている。しばらく行くと、「仙落しの滝」の案内標識があり、野取集落を通って鉢巻山(標高638m)の麓にある上峰川の「仙落しの滝」まで行く。落差約20m、幅2m位。滝名の由来は、千々石に「仙どん」という人がおり、山にかづらを取りに行って、この滝渕に落ちた伝説による。

田代原までの上峰川遡行は、この滝が取り付きとなるが、ほとんどポピュラーでない。私が昭和46年(1972)8月、詳しく踏査した記録と概念図があるので参照。その後、数回行った覚えがある。 https://misakimichi.com/archives/50
それ以来の遡行となる。35年ほど行ってなかったので、どのように沢が変っているか、確認したかった。砂防ダムは2箇所とも以前からあったが、水流がまったくなくなっている。鉄管で引いた?「仙落しの滝」以外は、すべて涸れ滝となっていた。遡行の対象となるのは、梅雨明けの一時期だけになるだろう。

スタジイの幹囲6mほどの大木を見かけた。外は上峰川の現況写真である。落葉の滝まで行って、遡行を切り上げ田代原県道の途中へ上がり、県道から車へ戻った。
宮さんの参加ブログは、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/25551922.html