長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 750 大釣鐘(1) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号: 750 大釣鐘(1) 関連作品 目録番号:3365 同(2)
〔画像解説〕
常楽寺銅鐘(重要文化財)か。常楽寺は北条泰時によって建立され、宋からの来朝僧、蘭渓道隆はここに宋の禅院の規式そのままに、同寺を設計し、わが国禅門の基礎を築いたと言う。銅鐘には宝治2年(1248)の銘があり、執権北条時頼が北条泰時追善のために造ったと伝える。
目録番号:4475 方広寺大鐘(2) 関連作品 目録番号:3093 同(1)、4771 同(3)
〔画像解説〕
石柱敷の上に置かれた方広寺大鐘を南西から北東に望む。男性が両手を広げて大鐘を抱きかかえ、その前に3人の子供が立つ。手前には多数の扇子の骨が干されている。大鐘は豊臣秀頼が方広寺再建に際し慶長19年(1614)の大仏開眼供養時に造営したもので、高さ4.5m、口径2.8m、厚さ28cm、重量約8.3tと言われる。右奥の二層の大仏殿は昭和48年(1973)に焼失した。
目録番号:5498 京都方広寺の梵鐘
■ 確認結果
目録番号: 750「大釣鐘(1)」は、現在、鎌倉国宝館に展示されている鎌倉市の「常楽寺の梵鐘」でない。梵鐘の形や文様がまったく違う。この梵鐘は、目録番号:4475「方広寺大鐘」などにあるとおり、京都市東山区にある天台宗の寺院「方広寺」の梵鐘であろう。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は次のとおり。
「国家安康の鐘」は、慶長19年(1614年)に京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造された。大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンである。前述の銘は撞座の左上にある。家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の役による豊臣家滅亡を招いたとされる。
なお、「まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室」HPの2008年5月10日記事に同じような古写真があり、露天に置かれている事情を次のとおり説明している。
地震・落雷・火災などで再建があっている。新しい鐘楼が完成して再び中へ収めた姿が、天井絵から目録番号:5498「京都方広寺の梵鐘」と思われる。
方広寺は、豊臣秀吉によって建てられた寺院で、巨大な大仏殿と大仏、広大な境内を誇る大寺院でした。大仏殿は慶長期に失われましたが、天保期にかつての大仏の縮小版と仮殿が建てられ、それは昭和48年に焼失するまで残っていました。
この古写真は、明治初期に撮影された鶏卵紙の貴重な古写真で、中央に写る「国家安康・君臣豊楽」の有名な梵鐘がまだ鐘楼のなかに収められておらず、露天に置かれています。