月別アーカイブ: 2013年8月

ししとき川「裏眼鏡橋」の上流に架かる煉瓦造石橋

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ししとき川「裏眼鏡橋」の上流に架かる煉瓦造石橋

朝日新聞長崎地域版2013年8月24日の記事。長崎市鍛冶屋町のししとき川に架かる「裏眼鏡橋」を次のとおり取り上げている。

「裏眼鏡橋」近く撤去 ひそかな人気スポット 長崎

長崎市の中島川にかかる眼鏡橋。観光名所となっているアーチ形の石橋から南東に250メートルほど歩くと、もう一つの「眼鏡橋」が現れる。「裏眼鏡橋」とも呼ばれ、ひそかに人気を集めていたこの橋が、9月初めにも撤去されることになった。

長崎市鍛冶屋町のししとき川に架かる長さ2・4メートル、幅1・6メートルの小さな橋。欄干が眼鏡の形をしている。
昭和40年代の初め、近くの中通り商店街にあった「メガネのコクラヤ」が鍛冶屋町に新しい店を構えた際、裏口にあった橋に眼鏡の形の欄干をつけた。…
橋につながる建物は、現在倉庫として使われていたが老朽化。取り壊し工事が進められており、橋も撤去されることになった。まち歩き観光「長崎さるく」のコースにも組み込まれ、観光客にも親しまれてきた。…

「裏眼鏡橋を何とか残してほしかった」と関係者は残念そうらしいが、これまで知られていないのは、実はこのすぐ50mも行かない上流の「稲荷橋」。銀屋町公民館のところにあるが、見事な煉瓦造アーチ式石橋。現在の橋の下を覗かないとわからない。
この項は、本ブログ次を参照。明治28年4月起工。こちらが歴史的価値がある。。
https://misakimichi.com/archives/810
https://misakimichi.com/archives/1020
https://misakimichi.com/archives/3625

長崎市まちづくり事業推進室作成「中島川・寺町お散歩マップ」も、「稲荷橋」の存在を知らないのだろう。案内がない。  http://www.city.nagasaki.lg.jp/sumai/660000/666000//p023224_d/fil/41file_20130219140537.pdf

私が調査している長崎市内の煉瓦造石橋は、ほかに桜町に「真中橋」、栄町に「引地橋」、平野町にも被爆遺構と思われる階段橋や、坂本3丁目に大学病院の下水路のような橋がある(本ブログ「長崎市の石橋」の書庫リストで検索)。
いずれも由緒ある橋で、もう少し歴史的価値を見直し、まちづくり事業推進や観光スポット・被爆遺構として生かしてほしい。

大正十一年頃のガラス写真 133ほか 稲佐山を望む

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大正十一年頃のガラス写真 133ほか 稲佐山を望む

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
133,136,137,138,187  (稲佐山を望む)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号133,136,137,138,187の、遠くの写る山は「稲佐山」の稜線である。
ドンの山の十善寺郷墓地あたりからと思われたが、次の記事により「翠紅園」の場所が、長崎市上小島1丁目にあったと判明し、この近くから撮影した作品と考えられる。
墓石が写る138は、高島秋帆旧宅上の正覚寺墓地上部の方の路地からだろう。
https://misakimichi.com/archives/3715

甑岩から茂木へ下る  2013年8月

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甑岩から茂木へ下る  2013年8月

2013年8月18日(日)快晴。甑岩から茂木へ下る。参加10人。みさき道歩会の例会。
甑岩入口10:37—甑岩公園展望台10:55—甑岩神社11:09—小甑岩三角点11:32—茂木展望岩11:55(昼食)12:50—北浦車道出合—茂木黒橋バス停14:15(徒歩距離 約6km)

長崎バス大波止10:10発の飯香の浦行き乗車。甑岩入口から歩き出す。きょうは甑岩公園展望台までひと登りだけ。あとは下るだけの夏向きコース。甑岩神社で一服。眼下は飯香浦が見える。小甑岩というところに三角点がある。標高363m。茂木港が見える展望岩先の鞍部で昼食。

雑木林から竹林や畑地となり、三景台方面が開けると、登山路を横切る車道にすぐ出る。左は北浦。右は大山祇神社脇へ下り、黒橋バス停へ出る。この日、長崎は最高気温37.5℃を記録したが、樹間の涼しい省力コースだった。

郡川砂防公園の川遊び  大村市黒木町

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郡川砂防公園の川遊び  大村市黒木町

きのう、孫娘の川遊びに、大村市黒木渓谷の郡川(こおりがわ)砂防公園へ出かけた。大村ICを出て、シュシュやかやぜで大村寿しと地鶏焼きなど仕入れ、萱瀬ダム上流の郡川砂防公園へ。幼児に手頃な川遊び場だが、人出が多かった。
2時間ほど過ごし、国道444号で平谷黒木トンネルを抜け、平谷物産販売所まで行って引き返した。夕食は長崎稲佐山温泉ふくの湯のバイキング。

映画「横道世之介」の長崎ロケ地などを訪ねる

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映画「横道世之介」の長崎ロケ地などを訪ねる

東京から長男が帰省中。映画「横道世之介」の長崎ロケ地、伊王島・香焼・神の島・柿泊・蚊焼などを訪ねた。写した写真は必ずしも映画のロケ地どおりではない。
映画「横道世之介」資料は、長崎観光ポータルサイト「ながさき旅ネット」から。作品紹介は、次のとおり。2013年2月から全国でロードショーがあった。

原作は、「パレード」「悪人」などの著作をうみだした吉田修一氏の「横道世之介」。第23回柴田錬三郎賞、2010年本屋大賞3位を受賞した、“青春小説の金字塔”と呼ばれる長編小説です。監督は「南極料理人」「キツツキと雨」の沖田修一氏。二人の手により、不器用ながらも真っ直ぐに生きた世之介と周囲の人々が、温かくそしてユーモアたっぷりに描かれています。

みさき道を歩く  2013年8月

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みさき道を歩く  2013年8月

201年8月11日(日)快晴。埼玉県からI.M氏が、毎年の墓参りのため帰省中。みさき道の中心部、蚊焼ー徳道間を案内し、主に道塚を見てもらった。
蚊焼西大道道塚9:38—元松尾道塚10:19—古茶屋坂みさき道入口10:19—郷路八幡
11:21—妙道尼信女墓11:30—鶴山12:30(昼食)13:00—徳道三叉路里程道塚13:54—野母崎ゴルフ場内道塚14:18—徳道車道下り15:44(徒歩距離 約11km)

いつものコースなので、特に記すことはない。古茶屋坂みさき道看板を過ぎてすぐ上では、谷間の地滑り工事のため立入り禁止となっている。展望が良い鶴山へ寄り道をし、昼食とした。
長崎のこの日の最高気温は、33.5℃。林間でも蒸し暑かった。熊ノ岳を越して川原へ旧道を下る予定だったが、野母崎ゴルフ場内道塚まで来てリタイア。自宅の車を呼んでもなかなか来ず、やっと徳道集落の下り道で出合った。

長崎の西空の夕日  ファイル 6から

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長崎の西空の夕日  ファイル 6から

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
過去の「長崎の西空の夕日」ファイル 6から。オリジナル画像を保存していないため、撮影年月日データは不明となっている。

大正十一年頃のガラス写真 125ほか 翠紅園

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大正十一年頃のガラス写真 125ほか 翠紅園

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
整理番号 125,127,286,287  (翠紅園)

その他、温室を写し「翠紅園」と思われる作品 (掲載略)
整理番号 36,42,47,48,90,94,183,243,285,292,302

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号125,127,286,287は、長崎市上小島1丁目にあった「翠紅園」と思われる。建物の看板に「外国産鑑賞植物 促成草花蔬菜 翠紅園」とあり、その他はその温室と、温室内で家族を写している。
CD「大正十一年頃のガラス写真」調査は、核心に入った。「翠紅園」があった正確な場所がわかれば、このガラス写真全部の撮影者が、だれだったか特定できる。

「清水寺」が左側に小さく写った整理番号127は、前記事の次を参照。撮影地は、正覚寺から旧茂木街道を進み、「八釼神社の上祠あたりから」と推定していた。
https://misakimichi.com/archives/3706
そのとき気付かなかったが、同じ建物を写した写真が、整理番号287にあった。重ねると2枚の写真は、左右に続く。

これから調べると、撮影地は「八釼神社の上祠」のある場所のあと一段上、現在、「レオパレス21」が建っている土地が考えられる。このあたりに「翠紅園」と、経営者の屋敷があったのではないか。現在の写真は適当に写せるところがなく、「レオパレス21」2階から区分けして写した。
長崎地方法務局で旧土地台帳写しの交付を受けると、「昭和二年三月一一日 所有権移転 馬場安市」氏の所有となっていた。ガラス写真中には、愛娘の卒業証書がある。

近隣で聞くと、「馬場という方が温床をしていた」「子息に写真好きがいた」「娘さんは内田家へ嫁ぎ、近くに縁戚がまだおられる」「温室は高島秋帆旧宅あたりから、長崎女子高校近くまで広くあった」という話である。
CD「大正十一年頃のガラス写真」というタイトルは、愛娘の卒業証書の年月日からつけられたようであるが、実際は大正と昭和にかけて撮影された。主に経営者の子息が写真好きなため撮影し、現在に残ったものと考えられる。縁戚にいろいろ確かめる方法もあるが、あまり立ち入ったことはしたくない。まだ未完な写真は、私なりで調査を進める。

大正十一年頃のガラス写真 29ほか 吉田牧場

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大正十一年頃のガラス写真 29ほか 吉田牧場

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
整理番号 29,30,99,141  (吉田牧場)

その他、「吉田牧場」と思われる作品 (掲載略)
整理番号 104,141,142,146,148

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号29,30,99,141ほかは、長崎市愛宕3丁目にあった「吉田牧場」と思われる。
牧場があった場所は、国道324号の白糸から愛宕町バス停にかけての道路下と聞いており、現在、愛宕保育園などが建っているあたりである。
山口広助さんのHP「丸山歴史散歩」などによる記事は、次のとおり。【現ファミリーマート】というのは、愛宕4丁目に店は移転している。
http://hirosuke.at.webry.info/201012/article_8.html  

B-258:吉田牧場跡(よしだぼくじょう-あと)
愛宕3-5(旧長崎村高野平郷) 【現ファミリーマート】
昭和の始め頃、この付近に長崎一といわれた牧場があり、吉田牛乳店が経営していたことから吉田牧場と呼ばれていました。牧場にはホルスタインが数頭とも十数頭ともいたといわれ、当時、牧場沿いの道からはお乳を搾っていた光景が見られ、独特な臭いがしていたそうです。しかし昭和30年頃(1955)閉鎖され住宅地へと変わります。今でもこの付近の電柱には「吉田幹線」の文字を見ることができ、国道沿いに当時の塀(万年塀)が一部残っています。